第34話:ある日森の中
「もうちょいしたら、再開しょうか」
みんな食事を終えたころ、輝一さんが言った。各々、気怠い返事で食休みに余念がない。
「海太くん、ちょっとええ?」
後ろ手で身体を支え、ほとんど寝そべった海太くんに声をかけた。竹中さんもどこかへ行って、何もしていないようだったから。
「
短い返事はいつものこと。傍らに立つ僕と話すには、見上げるしかないのも当然。だから気のせいかもしれない。気のせいと思いたい。
ひどく煙たい眼で、睨まれたわけではないはず。低く重い石を転がすような億劫な声も、きっと疲れているせいだ。
「ご、ごめん。裏の壁に、節の抜けとるとこがあって。言うといたほうがええんかな、思うて」
「見とくわ」
ひと声、丸太をかち割る斧みたいな。彼の視線は僕から離れ、大工道具を吊るすベルトに向いた。
階段に放ってあったのを引き寄せ、引き抜いたノミの先をじっと見る。
用が済んだらあっちへ行け。まったく言われていない言葉が、頭の中で勝手に再生された。
「ごめんね……」
例の話はするな、という威嚇めいた感覚はずっとある。でもそれ以外なら大丈夫と思っていたのに。
去り際、首が九十度に折れるのを堪えられない。さっきまで普通に話していなかったか。今と何が違うか、必死に考えた。
まずは座って、お茶でも。座っていた位置へ戻ると、置いた紙コップがなかった。おにぎりのラップと、おかずをつまんだ割り箸も。
このみさんも居ない。見回すと大きなビニール袋を手に、全員からゴミを集めていた。
彼女が居ないから? そっと海太くんを盗み見る。
なんていう空気には誰も気づくことなく、午後の作業が始まった。
終わったのは、腹時計を頼りにすれば午後三時に届かないころ。「終いにしょうや」と輝一さんが告げれば、誰からとなくみんなが拍手をした。
「まあまあ、見違えたなぁあ?」
問うのは海太くん。しかしおそらく独り言で、彼の視界にはお宮の建物しか映っていないと思う。
ボウボウに生えていた草は一掃された。デタラメに伸びていた枝も切られ、積み上げた山はクイーンサイズの二段重ね。
お宮はというと、僕には違いがよく分からない。外れかけた蝶番を取り替えたとか、あれこれ見たけれど。ざっと遠目に、ここと言えるような補修はない。
長年の雨風に曝され、グレーに焼けているのなど、看板作りの感覚では防腐塗料で完全防備をしたかった。
そういう物でないのはもちろん知っている。馴染んだようでも、頷く土地の人たちとは違うだけだ。
撤収準備は必要なく、それぞれ持参した道具類を持ち帰る。
強いて言えば食べ殻のゴミ袋が増えたくらいで、刈った草などは敷地の端で枯れさすらしい。
「このみ、危なあわ」
帰りの道を十メートルほど。海太くんの声に僕も頷いた。
来た道を引き返すだけで、下りと言えど勾配は大したことがない。街中にある車椅子用のスロープに、よほど急角度のものがある。
ただし雨に削られたデコボコをひと跨ぎできる、人間を基準にすれば。老犬のカンタには自重を支えつつ、足の長さと等しい溝を越える作業がいちいち難関となっていた。
危うく何度も、でんぐり返しをしそうに——でんぐり返しをした。
このみさんの両手が空いていれば、また違った。しかし食べ終わった後といっても、大きなお重が邪魔だ。
転んでも楽しげなカンタを、皮肉にも持て余している。
「途中まで俺が面倒みるわ」
差し出された手に、このみさんはお重を預けようとした。けれども海太くんの手が握られ、受け取りを拒む。
「すっ転んだら、一緒に谷ぃ落ちてしまうじゃろ」
道中、沢と並走する箇所もあった。谷というほど深くもないが、骨折くらいはするかもしれない。
体重の比較なら僕のほうが適任だけれど、体力や機敏さを考えると海太くんに軍配が上がる。
「ええん?」
「ええけえ言いよる」
「——うん。カンタ、ええ子にするんよ」
手首に通したロープの輪っかが、彼の手に預けられる。このみさんが手放すのに、指の一本ずつが後ろ髪引かれるぎこちなさで動いた。
「心配すな。どうもならんかったら、抱っこしてでも連れて下りちゃるわ」
心得ている、と海太くんの動作が示す。輪を手首にかけるだけでなく、二重に巻きつけてからしっかりと握った。血管の浮き出る右手でだ。
ゆっくり、ゆっくり。左手でハーネスをつかみながら歩く。中腰としゃがみ歩きの間、とんでもなくきつそうな体勢で。
身軽になったこのみさんは、僕の荷物を少し受け持ってくれた。海太くんの大工道具はリュックの中で、彼が断ったから。
来る時と同じく竹中さんも付き添ってくれたが、前のグループとは少しずつ距離が離れた。あちらも気にして時々止まるけれど、ゆっくりすぎるのもしんどいものだ。
道の曲がるところで、互いの姿が見えないことがある。賑やかな話し声や鈴の音はしっかり聞こえる。遠くても、だいたいそれくらいだっただろう。
緩い歩みのおかげで、話すのは楽だ。海太くんの手前、僕は話題を提供できなかったが。
竹中さんに問われて、僕が関わったことのある看板の話になった。府中市民でも知っているような、有名どころはあまりない。
「おい、どした」
バーディーを置いた転回場所まで、半分という辺り。最後尾の海太くんが怪訝な声を上げる。
残りの三人が振り返ると、カンタの脇にしゃがみこむ彼の姿。
黒く、成人女性に匹敵する体格の犬。それが伏せにも似た低い姿勢で、牙を剥いた。
ロープを握る男にでなく、当人もまだ何を威嚇しているか分からないらしい。
少なくとも進む道の右手、茂みのどこかへだ。いつも真ん丸の可愛らしい瞳が、形を変えたでもないのに恐ろしく見える。
「グルルルルル」
いびきのような、決していびきでない連続音が聞こえ始める。重苦しく、腹の底を圧し潰すかの低い声。
普段の様子からは想像できなくて、誰が発しているか分からなかった。
「カンタ……?」
さすが。飼い主が歩み寄り、背を撫でる。勇ましいシュナウザーは、このみさんの前へ足を進めた。
「音が」
ボソッと呟き、海太くんの左手が自身の耳を補う。僕もこのみさんも、竹中さんも倣う。
ガサ。ガサ。
誰かが草葉を分けて歩く気配。一歩、また一歩。茂みの向こうへ人間が居るとしか思えなかった。
「こりゃあまずいわ」
竹中さんの声は、耳を澄ましてなければ聞こえなかった。音のするほうを向いたまま、既に後退りを始めている。
「大きい声を出しちゃいけん。急に走り出してもいけん」
どこかで聞いたような注意事項。
「目を逸らさんように、ゆっくり逃げるけえの。死んだふりとか、通用しゃあせんけえ」
ああ。
きっと認めたくなかった。死んだふりという言葉が何を意味するか理解しても、その名を思い浮かべるのを拒む。
だがそれも、もう限界。竹中さんと僕と、後退りするのは二人だけ。
カンタが動かないのだ。唸り声の重みを増し、一歩も引かないと全身で訴える。
すると海太くんも、このみさんも動けない。
「た、竹中さん。先ぃ行って、輝一さんに伝えてもらえますか」
「竹中?」
ヒソヒソ言った僕に、竹中さんは顔をしかめた。うっかり呼んでしまったが、竹中という名ではなかったようだ。
でも「分かった」と一人でペースを上げ、どんどん後退していった。
ガサ。ガサ。
草を踏む音が左右に揺れる。回り込もうというのか、あちらも威嚇しているのか。どういう心持ちか、分かり合うことはできなかった。
やがて、真正面の茂みが割れる。身長百七十五センチ、九十五キロの僕など問題にならない、黒い巨体がそこにあった。
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