第五章:思わぬところもありまして
第29話:看板のセオリー
「看板屋いうても、ポスターを一枚、看板一つだけ作って終わりいう仕事は少ないんです」
「何するんです?」
「視認、喚起、案内いうのがあるんです。でも一つの看板に詰め込んだらダメじゃけえ、何種類が要るかねいう相談からですね」
人によって呼び方は様々だろうけど、セオリーとして必ず意識される。
もちろん広告や営業系の仕事を知らなければ、このみさんのように首を傾げるのも不思議でないが。
そもそも理解してもらう必要もない。こうして話すのは、僕自身の復習みたいなものだ。
大事なのは結果として出来上がる、成果物のほう。
「ええと、なんです?」
「新しいお店ができますとか、新商品ですよとか。そういう時に看板いう
まだ表計算のソフトを開いただけ。外枠さえ区切っていない真っ白な画面を覗き込む、このみさん。
腰を屈め、椅子に座る僕と同じ高さに顔が並ぶ。シャンプーの香り、ベージュのパジャマからも洗濯洗剤の匂い。
せっかくのやる気が、別の方向へ行きそうだ。
「看板をどこへ置くんか、高さは、向きは、色は。いう辺りを決めたら、見つけてくれた人に何をさせたいかです」
「お店に来てほしいし、商品を買ってほしいですねえ」
「そういうことです。でもどっちかだけ。うちのカレー屋に来て、目玉のカツカレーを食べて、会員登録もして、ガラポン抽選会にも参加して——」
と、思いつく限りを詰め込めば目にうるさい。
看板を見る人は全員、たまたま通りがかっただけ。面倒そうなことにわざわざ時間を使ってくれはしない。
「わやくちゃになりそうです」
「ですね。じゃけえ、どういう興味やら欲求を喚起したいか絞るんです」
かなり端折っているけれど、彼女は感心という顔で見てくれる。うかれそうな自分の頬を軽く叩いた。
「あれ、蚊でも
「痒かったんで」
不審の目はごまかす。「そんなことよりお願いが」とも言って。
「写真て、ありますか。この家とか、畑とか」
「あたしの撮ったんなら」
ロックもかかっていないスマホを渡してくれた。どれでも好きなようにとのことで、遠慮なく写真のフォルダーを眺める。
母屋とプレハブと、表の道路からの遠景と。キャベツやイチゴ、栗の様子もあった。ほとんどカンタが見切れているが、もちろん構わない。
風景だけでなく、輝一さん夫妻の姿もある。というか風景より圧倒的に多かった。
古いのでも、ここ四、五年の写真と思う。引けを取らないくらい、海太くんも居た。
輝一さんと、あるいは久嬉代さんと、向かい合って笑う彼。なんだか真剣に話してもいる。
対してカメラには、一つとして視線が向いていなかった。五枚に一枚は、手で遮りもして。
「あっ、僕も写っとる」
何百枚を流し見する中、さすが自分が目に留まる。普段は撮られたい欲求なんて皆無だけど、この写真集に入るのは別の話。
「うえぇ、カッコ悪ぅ。汗でぐっちゃぐちゃじゃ」
「そんなことなあです。畑で泥だらけにならんかったら、ほんまに頑張ったん? って思います」
泥の量で評価が上がるのなら、写真の僕は最高ランクだ。わざと塗ったのかというくらい、顔も首も真っ黒になっている。
「お父さんとお母さんと——三人でもできるけど。やっぱりたくさん
「あー、僕は二人分に数えといてください」
自分の腹を摘み、自嘲ぎみに笑う。彼女も笑って、「じゃあ今は六人ですねえ」などと冗談にしてくれて良かった。
三人、と言う前の僅かな間に、何が入るはずだったか考えない。このスマホに写る人間は、家族と海太くん。それから僕と、配送先の人たちが何枚かあるだけという事実も。
「あ、それで話を戻しますけど。最後は案内です。店へ来るには、その商品を買うには、どうしたらええか。ネットショップならアクセス方法ですね」
「もうなんか、商売のこと全部いう感じですね」
使えそうな写真をパソコンに移し始めた。面白くもないはずなのに、じっと見つめる彼女。画面と、僕の手と。
「どこまで裁量を貰えるかですけど、建物の立地から形から決めることもあったですよ。内装とか建具、家具も。僕がせんかったのは、お客さんと直に話すのだけです」
「そうやって、街のどこかに
凄くはない、だからここに居るのだ。「いや全然」と答えたのは、冗談にできていただろうか。
「街どころか、世界じゅうのどこからでも。八十億も
「毎日百人て、ぼぉれぇことになりますねえ」(※ぼぉれぇ=とても、ものすごく)
これも冗談と捉えたに違いない。「あははっ」という笑声が、輝一さんたちにまで聞こえそうだった。
僕は笑わない。それくらいの規模感は真面目にだったし、いよいよ作業を始めるから。
何をやるか、概ねのイメージはある。必要な資料も万全でないながら揃っている。
勤めていた山田工芸社で。使い慣れた僕のデスクで。もっと入念に集められた素材や素案を傍らにしても、僕の手は動かなかった。
見つめる画用紙や画面よりも、頭の中が真っ白のままだった。
「……譲さん? もしかして本気で言うとりますか。プレゼンて、どんなことを」
このみさんの問いだというのに、すぐには答えられない。手が震え、深呼吸をしていて。
大丈夫。どんな膨大な計画も、一つの写真、一つの文字を置くことから始まる。
「
声に出したままをキーボードに叩きつけた。総合イメージとして、仮に活喜ファームの遠景写真を挿入する。
たった、たったこれだけ。
僅か数秒のことに、いつから思い悩んだのか。
マウスを揺らし、メモをとり、文字を打つ。一つ手を動かすたび、僕を縛る鎖が音を立てて切れていった。
僕の考える理想の活喜ファームが、少しずつ現実に近づく。
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