第21話:欠け落ちたもの

「生きとったら、三十二かなぁ。けいいうてね、このみにゃあ兄貴がった」


 夜。みんなが寝室へ引っ込んだ後、活喜夫妻のところへ行った。明日はまた早くから収穫で、休息を邪魔したことに謝って。


 山菜採りでの様子を伝えると、バツの悪そうに輝一さんは笑う。

 それで久嬉代さんがお茶を淹れてくれると言うので、台所のテーブルへ移動した。


 座るやいなや、「生きとったら」と。

 つまり、このみさんのお兄さんは亡くなった。きっと森の中でなのだろう。

 息が詰まる。そうでなくとも、どんな言葉なら発してもいいか分からなかった。


「背ぇは、あんたと同じくらいよ。腹はちぃと、敬のほうが引っ込んどったかなぁ?」


 変わらんでしょと噴き出しながら、久嬉代さんが酢の物を出してくれた。誰かが話していなければ、湯を沸かすガスもうるさいくらいの夜。


「ヤマブキに目がなあて。旬になりゃあ、一人でどんだけかいうくらい摘んで戻りよった。まあヤマブキだけじゃなあ、タラでもウドでもツクシでも、なんでもじゃったが」


 今日、採って戻ったタラノキの芽が天ぷらに。ウドは酢味噌和えになった。

 それぞれ独特の青臭さがあって、ちょっと苦い。ゼンマイやコゴミはどうなのかと思ったら、干してからだと聞いた。

 どれもおいしかったし、癖になる。けれどヤマブキは別格だった。会ったこともない敬さんが、どうも他人と思えない。


「あっ、冷凍の……」

「ありゃあ、違う。なんぼいうても、十一年も置きゃあせん」


 形見を危うく食い尽くすところだったか。ということと、そんなにも昔という事実に驚いた。最近の出来事と思い込んでいたから。

 しかし親である輝一さんたちは、このみさんのようにならない。想像も及ばない複雑な気持ちがあるだろうに、僕なんかに落ち着いて話してくれる。


 時間に癒やされたとか、そういうものと思う。

 しかし僕は、途轍もない失礼を働いている。知らなかった、なんて言いわけにならない。

 聞き終わったら、謝らんと。

 誓って、せっかくの会話を聞き逃さないように耳を研ぎ澄ます。


「よう、このみも着いて行きよった。二人連ろうて行って、戻って、『疲れたけど兄ちゃんと一緒にる』いうて。敬が、うまい天ぷら持って帰る言うんじゃけど、宥めたことになりゃあせん」


 お兄ちゃん。彼女の口から、たぶん何度か聞いた。

 意識して言ったか分からないが、どちらにしても僕はとんでもない大罪人だ。


「十一年前になあ。あの頃ぁ、大学行きよったわ。研究して、収穫増やしちゃる言うて。福岡じゃけえ、たまにしか帰ってこんで、ベッタリじゃった」


 ごくり。唾を飲む音が台所に響く。

 いつの間にか、目の前にお茶が入っていた。ありがたく、ひと口。それでも喉の潤った気がしない。


「例のごとしよ。二人連ろうて行って、このみだけ家ぇ戻して、敬はまた森ぃ入った。いっつも遅うても三時ごろにゃあ帰るんじゃけど、四時んなっても帰ってこんで、見に行った」


 薄暗さのない。ただ歩くだけでも気持ちよさそうな、あの山道を思い出す。

 輝一さんも同じ光景を浮かべているのか、視線が僕を見ているようで見ていない。


「よう覚えとらんが、なんか予感があったんじゃろうなあ。このみやらは置いて、近所の人と儂とで。ほしたら案の定よ、熊がった。まだよっぽど離れとるいうのに威嚇しよって、どうもならんかったわ」


 鈴の音がすれば近寄ってこない。普通の熊が、そうして争いを避けるものなら。輝一さんの「どうもならん」は分かる気がした。


「手配かけて、猟銃持ってもろうて、山狩りんなったわ。いうても夜んなるけえ、朝までぁほとんど動けんかったが。ほいで応援の人らぁ案内するのに、久嬉代とこのみも来たんよ」


 ああ……。その時だ、と予感がした。

 慌てるなんて生易しいものでない、このみさんがパニックに陥った原因は。


「朝ぁ、七時になっとらんかったかなぁ。休憩用にテントも立てとったんじゃが、そのすぐ裏よ。高い草ぁ覗いた向こうにったわ」

「えと、熊——?」


 二択のうち、危険なほうを口にした。おそらく違うと分かっていても、もう一方は残酷で言えない。


「いや」


 ひと言。否定だけで、輝一さんは正答を示さない。もちろん必要はなく、僕も頷くしかなかった。

 ただ、もう一つだけ問いたいことがある。今にもお茶を飲み干し、立ち去りそうな輝一さんに。


「すんません、立ち入ったこと聞いて。あの、でも、その、テントの裏で見つけたんはもしかして」


 このみさんだ。確信を持って、二階の彼女の部屋へ目を向けた。

 答えはなかったが、それ自体が答えと受け取る。


「ほんま、すんません。僕、凄い迷惑かけて」

「あれから森ぃ入ったこともあるわ。何年も経ってからじゃけど、別に変わったこたぁなかった。今日そがあになった・・・・・・・んは、なんか譲くんに思うことがあったんじゃろ。悪い意味じゃなしになぁ」(※そがあに=そんな風に)


 じゃけえ気にしんさんな。最後に言って、夫妻は寝室へ戻った。慌てて立った僕が腰を九十度に折っても、いやいやと手を振って見せるだけで。


 力が抜け、椅子にお尻を落とした。だらんとしたまま、色々なことが頭の中を流れていく。

 それらの一つずつが何か、自分でも分からない。実に多くを考えているようで、はっきりした疑問も答えも僕の中に見えなかった。


 呆然と何十分か。風の音、夜啼く鳥の声。雑音ばかりの僕と違い、現実は静かだ。

 ふと時計を見ると、午後十時を過ぎていた。のろのろ椅子を立ち、酢の物を冷蔵庫へ運ぶ。


 中に、ウドが残っていた。いつもの僕なら、見たついでに一つ摘んだはず。

 けれどもそんな気持ちは湧かない。食欲がなかったのは、家を飛び出した時もだ。でもなんだか、違うように感じる。


「僕、このみさんに……」


 誰にも届くことない独り言。だとしても、自分の声にするのが恥ずかしかった。

 このみさんに何かしたい。

 何ができるか分からないけど、とにかく何かを。

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