第20話:震える手
僕からは彼女が見える。きっと彼女からもだが、四方八方に伸びた下草と垂れ下がる枝に紛れているのだろう。
ここに居る、と手を振ればいい。でもそうすると、このみさんはこっちへ来るはず。それは途轍もなくまずい。
ちょっ、ちょっと待ってや。
恥ずかしいのもだが、こんな見苦しいものを見せるわけにいかなかった。あせって絞り出そうとしても、なかなか終わりが見えない。
「譲さん!」
繰り返し呼ばれる僕の名が、もはや悲鳴だ。おしっこが終わるまでの二、三十秒で、こんなに取り乱すとは思わなかった。
「ここ! ここです!」
やっと、その場を離れられる。枝が引っかかるのも構わず、最短で彼女のほうへ向かう。
あちらも気づいて、駆け寄った。あっ、とか、きゃっ、とか。たくさんの感情を混ぜた、真似しようもない声を上げつつ。
「何しよったんですか!」
「あの、ええと、ちょっと。おしっこを……」
ほぼ正面衝突で、このみさんが縋りつく。すぐさま、両手が僕の身体を撫で回した。
「いや、あの。汗かいとるし、おしっこしてきたし」
「何言うとるんですか、そんなんええんです!」
殺人現場でも見たのか。そう思うくらいに震えた声、落ち着かない視線。
腹に触れた手が、いつかの感触とまるで違う。氷のように冷えきって、マッサージ器かというほどぶるぶる揺れた。
「す、すんません。そんな心配さすとは思わんかって——」
僕の姿が見えず、どんな危機を想像したのか。いやむしろ何かあったのは彼女のほうで、僕が慰めているのではと勘違いしそうだ。
それくらい、このみさんの狼狽は激しかった。なすがまま、納得してくれるまで、じっとしている他にできることが思いつかない。
「このみ、どう見てもピンピンしとるじゃろ」
ため息混じり。海太くんが言う。
いま追いついたのか、ずっとそこへ居たのか。僕は見ていなかった。
「うん。でも」
答えはしても、変わらず。このみさんは僕の腕や腰をぺちぺち叩く。チェックの済んだはずの箇所も繰り返しに。
「誰でも、しょんべんくらいするわいや。どっか行く時は絶対に言えいうて、俺らぁも言わんかったし」
いつも通り、海太くんが選ぶ言葉は荒っぽい。しかしいつもと違って、諭すようにゆっくりと。
おかげなのか、満足したのか。このみさんの手が止まる。
「ほうよね、うん。譲さん、びっくりしたでしょ。あたし、ちょっと心配性なとこあって」
俯きぎみで頭を下げるので、顔が見えない。少なくとも手の震えは治まっていて、さっきより落ち着いたと思うけれど。
「藪一つ挟んだだけで、見えんようなることはあるんよ。手ぇ届くところへ
海太くんが追いかけて忠告するのは、もちろん僕にだ。苦々しく笑ってくれるのが、罪悪感を増す。
「二人とも、ごめんなさい。すみませんでした」
一歩、後退り。深々と腰を折る。
このみさんは、ここに居るようにと言った。広告工事の現場でだって、自身の所在をはっきりさせるのは基本中の基本。
言いわけを挟む余地もない。
「いえ、あたしこそ」
彼女も頭を下げ、またこちらも「いや僕が」と。より低くしたほうの勝ちみたいな格好になった。
「なんか、腹減ったわ。飯ぃ食おうや」
などとふてぶてしく、海太くんが流れをぶった切ってくれなければ、どれだけ続けていたことか。
曖昧に頷き、それぞれ石や倒木に腰を下ろした。ラップで包んだ大きなおにぎりが、このみさんのリュックから現れる。
「梅干しじゃけど、大丈夫でした?」
手渡す彼女に、いつもの明るい表情が戻っていた。たったこれだけのことだが、仕切り直すきっかけになったのだろう。
改めて謝るチャンス。そう考えはしたが、やめておいた。
「なんでも好きなタイプなんで」
「
代わりに、精一杯の笑みを作った。出来栄えを自分で見ることはできなかったが、このみさんも優しく微笑んだ。
それから幾ばくかの休憩を終え、すっかり気を取り直した。
海太くんは大きなレジ袋をパンパンにするほどのゼンマイを採り、僕はタラノキの芽とウドの芽を教えてもらった。
高いところにあるものは、このみさんを肩車して。女の子の柔らかな感触と、にじみ出るようないい匂いには気づかぬふりで。
彼女の持参したカゴもいっぱいになり、バーディーの荷台へ括り付けた。ゼンマイは前カゴだ。
これで終わりかと思いきや、ワラビとコゴミの群生しているのを海太くんが見つけた。
僕はバーディーを。二人も別にいっぱいにしたレジ袋を抱え、ゆっくり下る道は和気あいあいと楽しかった。
活喜家へ戻り、こっそり海太くんに尋ねるまでは。
「このみさんのこと。心配性いうても、なんかおかしかった思うんじゃけど」
「そりゃあ、俺からは言えん話じゃわ。輝一さんに聞いてみんさい」
帰路の楽しい表情のまま、彼は断った。
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