第19話:山の用心

 先頭の海太くんが足を止めたのは、およそ円形に地面の踏み固められた場所。

 たぶん車で来た人が、ここで転回するのだろう。円の外をくっきりと、草と木が囲む。ここまでと何が違うかと言われたら、僕には分からないけれど。

 聞いていた二十分より確実に長くかかったが、それは僕がのろまなせい。


「もう十一時になるわ」

「あ、ご、ごめん。でも僕、ちょっと休んでからでもええ?」

「責めてなあじゃろ。フラフラしよったら危なあけえ、ゆっくりしんさい」


 息も切れていない、涼しい顔。彼はスマホを取り出し、ついでにメッセージのチェックでも済ませている様子。

 対して、汗だくでジャージの上を腰に巻き付けた僕。どうにかバーディーを端に止め、転がっていた石に座り込む。


「よっしゃ。先に様子見してくるわ」

「あっ、待って」


 力強く伸びをして、海太くんは手近な茂みに分け入ろうとした。しかし珍しく、鋭い声で呼び止めるこのみさん。


「これ、持っといて」


 背負っていた小さなリュックから、彼女は何かを渡す。

 チャリンチャリン、と耳につく高い音色。山の中で鈴などどうするのか、とは思った。けれども億劫で、深く考えられない。


「譲さんも」

「あ、ありがと」


 僕にもくれるらしい。腰を屈めた笑みに負けないよう、顔をしかめて受け取る。

 ここで「持っといて」とは、鳴るようにしろというのだろう。カラビナ付きで、ズボンのベルトループにでも引っ掛けられそうだ。

 腰まで持っていって、しかし今日はジャージ姿と気づく。


「ポケットじゃあ、鳴らんですよねえ」

「ダメです」


 声と頷くのと、どちらもきっぱり。でもどうやって持つか、彼女も「うーん」と唸ってくれる。

 すぐ。思いついた風で、ポケットを探った。出てきたのは白とピンクで花柄のハンカチ。


「首か手首——首がええですね」


 ポリエステルの薄い生地だ、輪っかにして鈴を提げろと。


「え、いや。ええんです? 汗でべちょべちょになりますけど」

「ええに決まってます」


 動かないのをいいことに、このみさんは背中へ回った。手早く巻かれたハンカチの、肌に張り付く感覚がする。


「す、すんません」

「ええですから。鈴」


 ぴっと指さす、この押しの強さはなんだろう。冗談や意地悪ではあり得なく、そうだとしても歓迎だけれど。


 収まった鈴を揺らしてみる。もちろんさっきと同じ音がして、「鳴りますね」と満足げな彼女がおまけについた。


「海太ちゃん、一人で大丈夫?」


 不意の大きな声。投げられた方向に、ざくざくと猛進する男の背中が見える。茂みと言って、その辺りは腰より低い草ばかり。


「大丈夫じゃなあとこ、あったら教えてえや」

「もう」


 憎まれ口というか。おどけた返答に、このみさんの口が尖る。

 実際のところ当人の言う通り、僕には問題が見つけられなかった。


「あの。もうちょい休んどるんで、海太くんとこ行ってもろうてええですよ」

「ええ? でもあたし、今日は譲さんに頼まれて」


 だから付き添う。なんて言われては、妙な勘違いをしたくなる。

 大丈夫、あくまで勘違いと知っているから。


 ただ、お腹の奥底で僕のエンジンが燃えたぎっている。一旦はこれを冷まさないと、いつまでも汗が止まらない。

 デブはすぐにオーバーヒートするのだ。


「十分くらいは涼まんと、どうしようもないんで」

「——ですか。じゃあ、ちょっと行ってきます。ここにってくださいね」


 両手で押さえつけるように。動くなと示してから、このみさんも茂みへ入っていく。さすが機敏に、小豆色のジャージがどんどん遠くなった。

 と言っても三十メートルほどで姿勢を低くする。海太くんもしゃがんでいるようだが、何があるのか。


 見てみたい。ヤマブキの味覚が舌の上に蘇り、よだれを垂らしそうだ。でも体温が下がらないと、本当に熱中症になってしまう。


 あ、そうじゃ。

 思いついて、ぐるり見渡した。ちょうどおしっこをしたくなったところだ。それで体温も下がるはずで、一石二鳥。

 どこへ放出すれば、このみさんと海太くんに汚染地帯の存在を公表せずに済むか。見定める前に、気になる看板を見つけた。


「なんの看板や?」


 そもそも山の中の活喜家から、さらに奥へ進んだ森。白地に赤い文字が書かれていたようだが、薄くなって読み取れない。


 この転回場へ入る直前の木へ括りつけてある。何の告知か知らないが、見える範囲で最悪の位置を選んだものだ。

 腹が立ち、「せえの」と。目の前へ行かずにはいられなかった。


「注……注意? 能……熊? 注意、熊出没中か」


 森林組合の名義で、警戒を呼びかけるものだ。声に出し、その意味を反芻する。


「えっ、熊が出るん?」


 発した言葉に理解が追いつき、時間差で驚いた。

 さっ、さっ、と素早く首を回すが、景色は変わらない。どう見ても、そりゃあ熊くらい居るだろうという自然の只中。


 このみさんの与えてくれた鈴も、意味が繋がる。山登りをするのに、熊よけの鈴を持つと聞いたことがあった。


 いや、でも。

 木陰へ備えられた看板が、これだけ色褪せするのに何年もかかる。つまり毎年のように更新する必要はないということ。

 当然、絶対ではないが。慣れた二人から離れずにいれば問題ないはず。

 恐いは恐いけれど、そう結論づけた。危険なら、輝一さんも止めただろうし。


 とりあえず出すものを出して、さっきの位置へ戻ろう。注意の看板の裏へ回り、かかとで穴を掘った。

 じょろじょろと背徳の音を聞き流し、また次の問題に行き当たった。


 手を洗えない。

 同行者が海太くんだけなら構わないが、このみさんに触れる必要が生じたらどうする。

 悩んでいると、当の彼女の声が聞こえた。


「譲さん、どこですか! どこ行ったんです譲さん! 譲さん!」


 切羽詰まった、悲痛とも言える叫びが。

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