第10話:このみの好み
運転席と助手席の間に、小さな子供なら座れるくらいの空間があった。それが今はありがたい。
海太くんに頭から水をかけてもらったし、着替えもしたが、きっとまだ汗くさいはず。さらにウインドブレーカーの下は、下着のシャツ一枚きりだ。
「せっかくじゃのに、なんか色々やらせてすみません」
なぜか、五十センチ足らずの隣にこのみさんが座っている。
行き先の住所でも聞けば、一人でなんとかなると思ったのに。九十六箱を載せていると言え、一箇所につき五、六箱しか降ろさないと聞いたから。
「えっ、いえいえ。ほんまのとこ、聞いとらんかったんで驚きましたけど。タダ飯は心苦しいんで、働かせてもらえるんが
「お父さんも、気兼ねがないじゃろうって。お母さんなんか今朝のおにぎり、いつもより十個も多く作って」
昨日、最初に収穫の話をしたのはこのみさんだ。それが一夜明け、眉間に深いシワを作っている。
この変化そのものを、なんだと考える必要はもちろんなかったが。
「変な家族でしょ」
「ええ? 楽しそうで羨ましいくらいですけどねえ。うちの親なんて、同じ家でも顔も合わせんですよ」
「ええと――仲が?」
ご謙遜をと思い、僕の家の実情と比べた。言った通り単純に、活喜家は賑やかでいいと。
けれども彼女は言葉に迷った様子で、かなり遠慮がちに問う。
額面通りに受け取ればそうなるのか。僕は慌てながらも自分に笑った。
「いや悪くはないです。両親とも、それぞれ現役で仕事しとって忙しいだけで。僕が高校生までは、少なくとも母親とは一緒に食事しとったですよ」
「それは、うーん。仕方ないけど、寂しいですね」
自分のことのように浮かない顔。もはやお通夜の空気感にまで落ち込んだ声。さすがの僕も話題というか、話し方を間違えたと気づく。
「なんか、すんません。でもほんまに、このみさんのとこ来さしてもらって
気の利いたセリフは言えない。せめて愛想よく笑って見せる。営業職ではなかったが、これで数多のクライアントをごまかし——納得させてきたのだ。
「ああ、あのバイク。あれに譲さんが乗っとるの想像したら、可愛いですねえ」
おっとデブいじりか、望むところ。そうでなくとも「ふふっ」と笑ってくれたのだ。
「あれですか。絵本でようある、自転車に乗るサーカスの熊みたいな」
「ですです! よう分かりましたね」
「あ、あはは。凄いでしょ」
ボケたつもりが、正解を引き当てた。
「昨日も、熊言うてくれましたよね。好きなんです?」
僕の履歴に、女の子との会話のページはほぼない。だから、女の子は熊やウサギが好きと世間に謳われる説の検証を試みた。
だから、ボケたつもりはない。しかし僕はまた、何かを引き当ててしまったらしい。
「——好きですよ。絵本とかぬいぐるみの
そろそろ人家の増える頃合い。前方から目の離せない僕の耳に、ヒュゥッと細く吸う息が聞こえた。
今ほど、誰かの顔を見たいと感じたことは過去なかった。僕のすぐ隣だけに、凍てつく冬の風が吹いたように思えて。
「あ、あの。すんません」
謝ったのは、それから百メートルほども進んでからだ。けれども「えっ?」と、本気で分からないという返事。
さっと盗み見ても、今まで見てきた笑顔が首を傾げている。
「いや何でも……」
無意識だったか、ごまかしたのか。わざわざ取り沙汰すのもどうだろう。
この場は先延ばしにしておこうと、言いかけた。が、これも彼女の声に掻き消される。
「あっ、すみません! そこです最初のとこ!」
行く道の先を指さし、叫ぶこのみさん。たしかにブリキの看板を掲げた商店らしき建物がある。
問題は、止まるだけの距離がないこと。
まあ普通に行き過ぎ、バックして済んだが。彼女が慌てるので、僕もパニックになりかけた。
「ええと、ここは。二箱だけです」
コンビニサイズの店舗の前で、このみさんは手書きのリストを律儀にたしかめた。
二人でひと箱ずつ抱え、正面から店に入る。と、奥に座っていたおばあちゃんが勢いよくやって来る。
「まあまあ、このみちゃん! いっつもありがとうねえ。あら、輝一っちゃんは?」
「今日はお手伝いしてくれる人が
「ほうね。調子悪うしてなあんなら、ええわ」
「全然。風邪ひいたんも、前にいつだったか分からんです」
けらけら笑いながら、このみさんは伝票を切る。同じくおばあちゃんも、そんなに笑うところだったかというくらい楽しげにサインした。
「並べときます?」
「お願いできる?」
「もちろん」
いつもそうしているに違いない。彼女は迷わず、ダンボールでキャベツと貼られた陳列台の前に立った。
おばあちゃんも息を合わせ、レジからサインペンのセットと、コピー用紙を持ってくる。
活喜ファーム、春キャベツ。ついでに、甘いよと。カラフルな看板を、このみさんは即席で描き上げた。
おばあちゃんが好意的なのも分かる。
「譲さん。これ、どうです?」
機嫌良く微笑んでくれるのは、とても可愛らしい。だがなぜ、僕に意見を求める。
——元広告デザイナーだからだ。
答えるのは簡単。上を言えばきりがないけれど、個人商店らしくていいと思う。ご近所付き合いで成り立っているだろうこの場所に、商業的な物は邪魔になる。
ただし一つだけ、疑問があった。「甘いよ」と言っている何者かだ。
ぱっちりした眼を持つ、黄緑色のモジャモジャ。
毛糸玉? カビたお好み焼き? それともまさか。
正解を予測しつつも、違うだろと僕の感覚がツッコむ。しかし、意を決して言った。
「このキャベツ——ですよね? が、ええですね」
バカ野郎。なぜ問いかけた。
「え。キャベツに見えません?」
「いやいや、見えます。キャベツにしか見えんです」
案の定、「うーん?」と悩み始めた。しかしすぐに「ほうじゃ」と、何やら描き加える。
「軸がないけえ、おかしかったですね」
「お、おおっ。ほんまじゃ、完成度が上がったです」
「
納得したこのみさんに、また問われぬうち。僕は十六個のキャベツを一分で並べた。
キャベツに魚の骨はないし、魚の骨は緑色でない。とは言いたくなかった。
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