第二章:農業が始まりまして
第8話:農場の朝
ふわと軽く、温かな布団。何か物音のした気がして、ぼんやりと目を覚ます。
暗闇の中、見慣れない畳の地平に驚いた。
ああ……そうじゃった。
冷たい空気から逃れようと、頬までを布団に埋める。お日さまの匂いのする木綿のシーツが、サラサラ心地いい。
ズキズキ、腕が痛む。なんで? と考える僕の脳みそは、まだ回転が鈍い。
筋肉痛に決まっている。生まれて初めてと言って過言でない疲労と、おいしいビール。ゆうべの食卓から、どうやって眠ったか思い出すのにも時間がかかった。
つまり気持ちよく、グッスリと眠っていた。なのに、なぜ目覚めたのだろう。
障子越しと言え、広縁からの明るさは皆無。などと窺っていると、離れた物音に気づいた。
ガタガタ、ゴトゴト。何やら引き摺ったり、硬い物のぶつかる音。
苦情を言うほどでなく、慣れてしまえば子守唄にも聞こえてくる。ウトウト、溶けるような眠気が意識の尻尾を引っ張り始めた。
「おい譲さん、そろそろ起きぃや」
スパァン、と賑やかに障子戸が開く。灯りもなしにやって来たのは海太くん。
「うわっ!」
「なんや、起きとったんな」
ずかずかと踏み込み、彼の手が照明をカチカチと点ける。蛍光灯の眩い光で、僕の眼は溶けた。
「うぅぅぅ」
「ほら、行くで」
ようやく思考が追いついた。行く、とはキャベツの収穫にだ。
まぶたに重ねた自分の手を退けると、既に海太くんは居ない。まずい、置いていかれるようでは格好がつかない。
慌てて布団を撥ね退け——たものの、丁寧に畳み直した。それから貸してもらったジャージに着替える。
活喜家の人たちはみんな僕より背が低いのだけど、サイズがピッタリ。新品ということもなく、むしろかなり古そうだ。
なんとなく、このみさんのジャージと似ているようにも思う。
いや、そんなことはどうでもいい。顔を洗うのも忘れ、玄関を出た。
「おはようございます!」
煌々と明るいプレハブに飛び込む。目に入った時計は、五時前を示していた。
しかし誰も居ない。四枚引きのサッシが全開で、みんなの居た気配はあるのに。唯一、海太くんだけが待っていて、呆れた風に言いながら照明を切る。
「お早うないわ。ほれ、乗りんさいや」
サッシも閉め、停められた軽トラックを指さす。荷台に水色のコンテナが山と積まれていた。
ヘッドライトを点け、走り始める。空は漆黒から薄墨色へ変わろうとする頃。
キャベツ畑はすぐそこのはずだが、どこまで行くのか。尋ねようと口を開く前に、軽トラックは止まった。
目の前にもう一台、海太くんのより大きなトラックが駐められている。誰も乗ってなく、ヘッドライトを点けっぱなしで。
「ほい、これ持ちんさい」
「ん?」
白いタオルと、菜切り包丁。よく分からない取り合わせが手に置かれ、首をひねる。
が、海太くんはさっさと降りて行ってしまう。やはりヘッドライトを点けたまま。
もちろん追う以外の選択肢はない。小走りで進むと直ちに、足下が柔らかい土に変わった。
落とされたキャベツの葉も散らばっている。もう畑の中らしい、収穫前のを踏みはしないか心配になった。
ひょこひょこ、おっかなびっくりの足取りで行く。トラックのライトで照らされていても、キャベツや畝の影ばかりだ。
しかし、このみさんたちはどこだろう。さっと見回しても、人の形が見つからない。キャベツの葉が擦れる音はするので、その辺りに居るはずだが。
「よっしゃ、見ときんさい」
追いつくと間なし、海太くんが腰を屈める。手をいっぱいに開き、キャベツをちょっと傾け、根本をザクッとひと息に切る。
「こんだけよ。あ、手ぇ見せて」
余計な葉を捨てる彼の言うまま、僕の手を広げて見せる。
「お、でかいなぁ。これが物差しじゃけえ、これより
「あ、うん。分かった」
彼の爪が、僕の指の第一関節を撫でる。こそばゆさに耐えて頷き、手近なキャベツに手を伸ばす。
海太くんがやっとったのは——
たった一度の記憶を頼りに、まず真上からキャベツを押さえた。傷つけないよう、丁寧に。
言われた通りに大きさを測り、ちょっと傾けて根本を。
根本を……根本が見えん。
ヘッドライトの光が当たるよう気をつけても、包丁を差し込もうとすると真っ暗になる。
どうすればええ? 聞こうとしたが、海太くんは何メートルか向こう。
まあ、やってみよ。
おそるおそる、キャベツのお尻に刃先を滑らせた。何かにぶつかったところで、力を篭める。
ザクッと気持ちいい音がしない。無理に引き裂く、ミチミチと心臓に悪い音。
もういいかと持とうとしても、上がらない。どこが繋がっているか、それもやはり見えなかった。何度も包丁を動かし、ようやく両手にキャベツが収まる。
「ふうぅぅ」
身体を起こし、額を拭う。ゆうべのビールが、喉を潤せるくらいに染み出していた。
一つを穫るのに、時間もかなりかかったはず。海太くんは十数秒くらいで、比べ物にならない。
「あれ。これ、どうすりゃええんかな」
彼は慣れているだけだ。気を取り直して続けようとしたが、キャベツを持ったままでは叶わなかった。
海太先生は、獲ったのをまた地面へ置いているように見える。しかしそれでは土が付くだろうに、いいのか。
仕方ない、傍へ行って教わろう。暗い中、捨てた葉と収穫前のキャベツは、本当に見分けがつかなかった。
のろのろと一歩を踏み出す。と、五つほども離れた畝のキャベツが動いた。真ん丸だった影がぎゅっと縦に伸び、このみさんの声で話す。
「あっ、譲さん。上手に獲れました?」
「ええと、おはようございます。これ、獲ったらどうすりゃええですか」
「あははっ、そっち行きます」
広い畑の中、暗いせいで遠近感がおかしい。このみさんはひょいひょいと畝を跨ぎ、僕の獲ったキャベツを手に取る。
「えと、芯が飛び出てると邪魔になるんで」
綺麗に整えたつもりだが、まだ足らなかったようだ。僕と同じ形の包丁が、厚さ五ミリほどをさっと切り落とす。
「で。後でコンテナに詰めるんで、落とした葉っぱの上に重ねて置いといてください」
「あ、ああ。なるほど」
土の付いていない葉っぱを集め、そっとキャベツを置く。続けざま、このみさんは三つほどお手本を見せてくれ、ピラミッド形に積む。
「潰れちゃうんで、二段か三段までです」
「了解です」
理解はした。あとは数を重ね、慣れるだけだ。
けれどそうそう簡単に、イメージ通りができれば苦労はない。切り離すのに五回、形を整えるにも同じくらい包丁を動かし、ようやく。
しかも昨日に引き続き、腰を屈めての作業。空が明るくなる前に、僕は地面へ座り込んだ。
すぐさま、このみさんが戻ってきてくれる。
「大丈夫です? 初めては腰が痛ぁですよね」
「え、ええ、すんません。ちょっと休んだら、すぐ」
輝一さんと久嬉代さんの姿も見えるようになってきた。ちらと笑いかけてくれ、黙々と作業を続ける。
責める空気はまるでない。それがむしろ、やらねばと僕に思わせた。
「えっ、休んでええですよ?」
「いや大丈夫。もうちょいでコツがつかめそうじゃし」
強がりであっても、嘘でない。まだ二十個かそこらを獲っただけだが、一つ目よりは素早くなっている。
だがこの程度で、彼女の労りの視線はもったいない。
「お、譲さん。暇そうじゃなぁ」
立ち上がった途端、狙いすました海太くんの声。「海太ちゃん」と、このみさんの非難も聞こえぬふり。
「そろそろコンテナに詰めるけえ、手ぇ貸しんさい」
「えっ」
答える前に、腕をつかまれた。半ば引き摺られて強引に、僕の作業はコンテナ運びに変更された。
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