第7話:ヤマブキが止まらない
静かに開いた引き戸の中へ、招かれるまま入った。三、四畳もありそうな土間の向こう、同じくらいに広い板張りの床。
木目が目立ち、ピカピカという感じはない。けれども差し込んだ陽射しが、黒光りに艶めく。
奥へ伸びる広い縁を、このみさんは進む。カンタは良い子に、土間へ用意された水を飲んで待つらしい。
あとへ続くと、壁に飾られた額に目が留まる。
——倦まず、腐らず。
小筆を使ったような、か細い筆致。古そうな家に書はお似合いだが、まるで僕が書いたみたいに頼りない文字。
落款や署名は見当たらなかった。
「譲さん?」
「あっ、すんません」
突き当たりで待つこのみさんに、嫌な顔一つない。むしろ微笑み、傍らの障子戸をそっと開けた。
八畳の、何もない部屋。
照明のペンダントが下がり、壁にコンセントが一ヶ所。何もないと言って、本当にただそれだけの部屋も珍しい。
「あとでお布団持ってくるんで、自由に使ってくださいね」
「ど、どうも。でも布団も自分で運ぶけえ、教えてください」
「はい、じゃあ今から」
僕が何か言うたび、にこっ、にこっと笑うのはなんだろう。
特段の意味などない。分かっていても、にへらと僕の頬まで緩む。
「わっ!」
「うわっ!」
突如響いた声。驚いて、輪唱みたいに僕も叫んだ。
明らかに女声だったが、このみさんは何も言わなかった。ただその肩に、何者かの手が置かれる。
「もう、お母さん。ビックリするじゃろ」
「あはは、驚いた? ドッキリ成功!」
「お客さん案内しよるのに」
使い込まれた帆布のエプロンを着て、このみさんと双子かなと思う背格好。少し長めの髪には、ほんのりとパーマが。手に作ったピースを自分の頬に当て、むくれる娘へ上目遣いで媚びを売る。
僕に、ではない。さっきの大声と共に揺らしたのもこのみさんの肩だし、驚いた? 驚いた? と繰り返し問うのも。
「お客さんて、海太くんの友達じゃろ?」
ならば余計な気遣いはしない。おそらくそんな心積もりの目配せがこちらを向く。
娘とよく似た。でも苦労の刻み込まれた目もとを見れば、僕の首は縦にしか動かせなかった。
「ええと——?」
いわゆるお客さん扱いをしてもらえば、きっと僕も落ち着かない。だからこのみさんの問う視線に、改めて頷く。
「友達になってもらえたら、嬉しい思いますねえ」
「ほら」
「ほら、じゃなあでしょ」
わざとらしくドヤ顔のお母さん。両手を腰に、分かりやすく怒った素振りの娘。
夫婦漫才というのは聞くが、親子漫才はあったっけ。これも僕を楽しませよう、というのでもないようだけど。
「
また急に柔らかな声と物腰で、お母さんは頭を下げる。これはもちろん、僕に。
慌ててお辞儀を返すと、やはり娘とそっくりにキラキラと笑ってくれた。
久嬉代さんの勧めで、一階の屋根に布団を広げた。赤い瓦が見るからに温かそうだ。
それからさっそく畑に誘われ、お父さん——
「キャベツの収穫じゃ?」
「いえ、収穫の時間で味が変わるんで。朝早く穫るんが、いちばん甘ぁんですよ」
言われたのは、イチゴに肥料をやる。倉庫へ向かいつつ、いきなりの重労働でないことにほっとした。
「へえ、そんなんあるんですね」
「ですよ。だから明日の朝は忙しいんで、覚悟しといてください」
ふふっ。と笑うイタズラっぽい顔が、間違いなく久嬉代さんの娘だった。
すると倉庫の扉に掛かる、かんぬき代わりの角材を力強く抜くのは輝一さんの血だろうか。
「よいしょっ!」
「あ、僕がやりゃあ
「心配せんでも、力仕事はなんぼでもあります」
そこで笑ってくれては、冷や汗しか出ない。けれども言った手前、肥料の袋は僕が先に手を伸ばした。
「お、重っ!」
「二十キロあるんで、ギックリ腰にならんようにしてくださいね」
「二十……」
目の高さから下ろすだけで、腰が悲鳴を上げそうだ。幸い、このまま運ぶわけではないようだが。
半分ずつをそれぞれ抱え、家から少し離れたビニールハウスに運ぶ。僕の体格におよそ十キロの重さは、さほどの労苦と言えなかった。
しかし砂埃に汚れた袋が滑る。何度も持ち直すうち、手がだるくなってきた。同じ物を持っているのに、並んで歩くこのみさんの鼻歌が途切れない。
ハウスに入ると、暖かいを通り越して暑かった。少し湿気た感覚もあり、息苦しい。
「ええと、株と株の間にちょっとずつです。近すぎたり多すぎると、枯れちゃうんで気をつけて」
すぐさま、このみさんはお手本を見せてくれた。イチゴが植えられるのは、腰と膝の高さに二段重ねの棚。
ぶつ切りにした緑のじゃがりこみたいな肥料を五、六粒ずつ。小さなスコップでさっさっと置いていく。
単純な作業だ。このみさんは別の棚に移動して、同じ作業を始めた。仕事モードだなと感心するうち、どんどん進んでいく。
「あ、ええと……」
こんくらいか? 手でなくスコップで、まあまあ硬い肥料の粒を拾うのが難しい。多かったり少なかったりするのをまずは撒き、改めて手で数を揃える。
そもそものスピードが違う上に二度手間で、僕が一列を終えるまでにこのみさんは五列を終えた。
「うん、これでええです。譲さん、上手です」
「えっ、そう? あ、ありがとう」
この作業に上手も下手もない気がする。が、彼女の厚意を無下にはしない。
重い袋を片手で支え、低い中腰とより低い中腰を続けた、既に体力の尽きかけた状態でも。
「次、行きましょ」
「はーい」
余裕のあるふりの返事。腰を伸ばすと、空耳でなくミシミシ鳴った。
このみさんはスキップみたいな軽やかさで、隣のハウスに向かう。
「譲くん、お疲れ!」
「ど、どうも」
夕食の席、輝一さんの注いでくれたビールで乾杯をした。
肥料やりに三時間。イチゴ狩りのお客さんが使う道具を整理し、洗うのに一時間。午後五時を回ったばかりで飲むビールが、今まで飲んだことのない別の何かとしか思えなかった。
二リットルの缶は、よく見る銀と黒のアレなのに。
「何となく話ぃ聞いたが、行くとこないらしいの」
「え、ええと、まあ……」
素焼きのジョッキを飲み干した輝一さんが、ぶはあっと息継ぎの終わらないうちに言う。
虚を衝かれ、言いわけもできない。いやそんなこと、する理由もないけれど。
言い淀む僕のジョッキに、またビールが注かれる。その次は隣の海太くんにも。
「まあ食いんさい。大したもなあ、ないが」
詰めれば十人でも囲めそうなテーブルへ、十人前も載りそうな大皿が二つ。鶏肉とサツマイモとナスと、何だか分からない緑色の天ぷら。
一通りを一つずつ。鶏肉から口に入れると、ちょうどの塩味がおいしい。
「街ぃ住んどったら、ヤマブキゃあ珍しかろう?」
「ヤマブキ?」
米粒付きの輝一さんの箸が、緑色を指す。そう言われても絵の具の山吹色しか思い浮かばず、なんのことやら悩んだ。
「フキノトウのことよ」
「あ、ああ」
海太くんが、ぼそっと。彼の箸には、まさにヤマブキが二つつままれていた。
べしゃっと麺つゆに放り込み、サクサクいい音をさせる。続けざま、ツヤツヤの白米がごっそり消えていった。
「食うたことないんです。いただきます」
「どうぞどうぞ。ちぃと時期外れで冷凍のじゃが」
料理したのは久嬉代さんのはず。見ると夫の言葉に、にこにこと頷いた。
「あ、苦——いけど、うまっ」
「じゃろう」
熱々でサクサクの衣と一緒に、瑞々しい本体が結構な噛みごたえで千切れる。葉というのか、果肉というのか、巻いた中心から溢れる水分で舌をヤケドした。
でも、気にならないくらいにおいしい。
遠慮しながらふたつ目を取り、我慢できなくて三つ目を取り。
「なんぼでもあるけえ。遠慮せんで食いない」
「ど、どうも。うまいです」
止まらない。このみさんが大皿を動かし、ヤマブキのあるところを僕に向けた。
そうまでされては、もう要らないと言うのも悪いか。白々しい言いわけを自分に施し、四つ目。
やがて、いつの間に席を立ったか気づかぬうち。久嬉代さんが新しくヤマブキを揚げてきてくれた。
別皿に十個も。
普段、鶏の唐揚げにもマヨネーズをかける僕だが、これはそのままいけた。むしろかけるのがもったいない。
「なあ、譲くん」
話しかけられても、手を止めなくていいと。言われるまま、ご飯のお代わりまでした。
なんでや。
なんでこんなにうまいんや。
早く茶碗を寄越せと催促するような久嬉代さん。
自分が食べるより僕を眺めるほうが圧倒的に長い、これ以上ないくらい楽しそうなこのみさん。
僕と競うつもりか、みそ汁も海藻サラダもお代わりをねだる海太くん。
米でもヤマブキでもない何かが、喉を塞ごうとする。
「小遣い程度で
ヤマブキを噛み砕き、白飯を掻き込む。じゅるじゅると鳴る鼻水の音は、みそ汁を啜ってごまかした。
話すのにも食べる手を止めなくていい。そう言ってもらったから。
「お、お願いします」
僕の耳にも、おべばびひばぶと聞こえた。それでもみんな、笑って頷いてくれた。
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