第4話:存在しない重圧

「言うてもほんま、なんかってこともないんじゃけどね。仕事を辞めて、次はどうしょう思うたら、なんも思いつかんで」

「十分に、なんか・・・じゃろ。仕事いうて、何?」


 ため息混じり。それでも海太くんは、重要だと言ってくれる。

 ほっと、密かに息つく自分が心苦しい。


山田やまだ工芸社いうとこ。んーと、サイン関係言うたら分かる?」

「有名人には見えんけど」


 そうそう、色紙にサインペンで。ではない。

 さっくり説明するにはと考えて、とりあえず指を頭上へ向けてみた。


「あれあれ」

「んあ、なんや。看板?」

「正解、僕は看板屋さんだったんよ。屋外でも屋内でも、デジタルもやるし、終いに内装屋さんみたいなとこまで」


 素直に上を向いた海太くんが、こちらへ視線を戻す。なぜか嬉しそうに見えて、僕は首を傾げた。


「ほしたら職人か。俺と同じじゃ」

「あ、いや、ごめん。僕はデザインのほうで、実際の作業はできんのんよ」

「なんや、ほうか」


 と言うと彼は、鳶とか内装工だろうか。ご期待に添えず、がっかりさせたようだが。


「ご、ごめん」

「なんでな。別に譲さんは悪うないじゃろ」

「まあ、でも」

「ええけえ、続き」


 謝ると、分かりやすく機嫌を悪くして叱られた。たしかに職人気質という感じがして、懐かしい。

 なんて言うほど、日も経っていないけど。


「ああ、でも分かったわ。誰かにいじめられたんか。ほれか、会社ごとブラックじゃったとか。何にしても、つまらんことする奴はどこへでもおるなあ」


 急かしておいて、また海太くんが言った。ぎゅっと眉根を寄せ、一段と機嫌の悪い声。

 向けられているのは「つまらん奴」に、と僕にも分かる。チクチク。胸が痛い。


「ごめん、違う。むしろ反対」

「はあ?」

「土日は休みじゃったし、残業も一時間以上の人はほとんど見んかった。お客さんの都合でしんどい時は、時間外とか出張手当てが山盛り付く」

「ちょ、紹介しんさいや。俺が行くわ」


 茶化してもないのだろうが、残り僅かのエビを傷痕だらけの指が取る。いかにも治ったばかりという、シバエビと同じ白色が生々しい。


「うん、ええ会社じゃった。でも僕、仕事が遅うてね。他のみんなは、昼に受けて夕方には返すとか幾つもやっとった。僕だけよ、必ず次の朝になっとったの」

「期限を守れんかったんか」

「いや。受ける時に最初から、そういう期限で言っとった。なのに営業の人も、同じデザインの人も、それでええって」


 思い出すと、胸が締め付けられる。ぞろぞろと帰る誰もが、「大変じゃねえ」と労ってくれた。

 みんなの言葉が温かくて、申しわけなかった。


「じゃあ、ええんじゃないん? わざと遅らせとったわけじゃないんじゃろ」

「いや、だって。持ち帰ったらいけんけえ、会社で残業するんよ。何日もかかる案件とか、残業代泥棒じゃろ。いっそ誰か罵ってくれればええのに、みんな『大丈夫』言うんよ」


 自分のためだけに点けた照明、空調。細かいと言われるのは分かるけれど、自分を特別扱いしているようで嫌だった。


「どうやって仕事しとるか、教えてもろうたりもしたけど。言う通りにしたら、むしろ遅うなったし」

「そら、付け焼き刃はそうなるじゃろ」


 ハナクソでもほじりだしそうな、バカにしたジト目。彼の声には確信めいた揺るぎない自信を感じて、迷うような空気がない。

 それが眩しく、羨ましく思う。

 けれども口には出さなかった。僕の知る職人という人種は、ないものねだりを死ぬほど嫌う。


「高卒で就職して五、六年は、まだ慣れてないけえって言いわけできた。でも二十八にもなって、さすがに自分をごまかせんようになった。ほしたら、何も思いつかんようになった」

「思いつかん?」

「デザインよ。パソコンの画面見ても、白い紙でも。何時間経っても、白いまんま」


 重症だった。他の人が引いた図面に、着色だけと言われてもできない。

 壁はベージュでいいのか、郵便受けは赤いのか。サンプルの絵や写真へ色があるのに、いざ塗ろうとすると手が固まる。

 間違っていれば、消してやり直せばいい。それなのに結果を頭に浮かべようとして、できなくて動けなくなった。


「で、辞めたんか」

「うん」

「で?」


 で? 辞めた顛末は概ね話したはず。これ以上に何を求められているか、右に左に首をひねる。


「ほんまに、の話よ。看板屋はやりたぁことじゃなかった、言うんじゃろ?」

「そうじゃった。すぐ目の前のことだけに集中しすぎるの、悪い癖なんよ」

「ほんまに」


 鼻で笑われ、僕も笑って頭を掻く。バカにしてもらえてありがたい。


「よう考えたら、なんで就職したんかな思うて。進路決める時、同じにしょうって友達に誘われて。僕だけ受かって。図工とか得意じゃなかったけど、好きじゃったいうくらいで」


 そんなだから、次が見えない。そんなだから、他に得意なこともない。


「実家住まいなんじゃけど。『まだ若いけえ、いくらでもやり直せる』いうて親に言われたんが、ひと月くらい前。なんか段々、タダ飯食ろうとるんがしんどうなってきたんよ」


 求人情報を眺めながら、考え続けた。十何社かに応募して、落とされもした。

 考えれば考えるほど、わけが分からなくなる。夜も眠れなくて、今朝早くに家を飛び出した。


「譲さん、言うてもええ?」

「うん。なにを?」

「あんた、バカじゃろ」


 怒った顔で、静かな声で。下された批評に、僕は頷く。


「うん、かなり」

「そうあっさり認めないや。面白うない」

「あ、ごめん」


 笑いの種になるなら、それはそれで構わない。ただ海太くんは、そういう人間でないだろう。

 事実、にこりともせず唸り始めた。僕の顔と、愛車のバーディーとを眺め、やがて「よし」と何かが決まったらしい。


「今日、寝るとこも決まっとらんのじゃろ?」

「う、うん」

「ほいじゃ、行こうや」

「どこへ?」


 尋ねても構わず、彼は歩き始めた。慌ててバーディーのロックを解除し、着いていく。


「海太くん?」

「心配しんさんな。ゆっくり寝られるとこよ」


 追いつけば、一応の答えがあった。詳しくは教える気がなさそうだけど、まあいいかで済ませられる。

 今さら僕に、失うものなど何もない。

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