第2話:吊り目の海太
市場と名のつく場所へ、初めて入った。外から見た体育館という印象のまま、四階建てくらいの吹き抜けは鉄骨が剥き出しだ。
ただし巨大な半透明のビニールがカーテン状に垂れ、建物を区切っている。きっとその向こうが本来の市場なのだろう。
だからか僕のイメージにある、だだっ広い地面に魚の入った木箱が所狭しと並ぶみたいなのはない。
実際はお祭りの屋台みたいな店が、ずらりと左右に列を成す。もちろんわた菓子や二重焼きなんかはなく、魚介類ばかりだけど。
どの店も中年のおばさんか、アルバイトっぽい男の子が景気のいい声を上げた。
古そうなサッシを軋ます風も、厭味のない潮の香をほのかに運んでくれる。
「兄ちゃん、兄ちゃん! メバルのええのがあるよ!」
すぐそこの店先、恰幅のいいおばちゃんが僕に向く。目が合ったというより、ロックオンされた心地がした。先に入った二人組は五軒も向こうで、気づかないふりも難しい。
「す、すんません。すんません」
三メートルほどの通路幅をいっぱいに使い、大回りで逃げた。千切ったダンボールにサインペンの走り書きで、メバルは八百円とあったから。
完全に行き過ぎ、もう一度頭を下げる。が、おばちゃんはもう次のお客さんに声をかけていた。
胸が痛むけれど、買えないものは買えない。ここでの予算は、高くとも五百円まで。だいいちメバルなど買っても、調理する方法がなかった。
お寿司か刺身が売ってないんかな。
前に下関へ行った人から、市場のはバカみたいに安くて新鮮と聞いた。大きな施設だし、そういうものもあると期待したのだけど見つからない。
入り口からまっすぐの通路は、まだまだ何十メートルも続いているけれども。
「はいはい、最後の一盛りよ! シバエビ、
こっちはエビか。
また数軒先の、今度は若い男の子が恥じらいもなく叫ぶ。掲げたザルにこんもりと、真珠色に光るエビが見えた。
人さし指くらいが、およそ二十匹。視線を下げれば、一盛り五百円と。
買えるけど――。
今度は僕だけに言ってはなかった。おかげで立ち止まり、落ち着いて考えられる。
予算に合うものの、やはり調理ができない。しかもエビばかり、一人では多すぎる。
却下じゃ。
それでも大回りで過ぎようとすると、狙いすましたように。無視できない文句を男の子が発した。
「生でもいけるんよ! ああもう、二百円でええわ!」
なんじゃって?
硬いコンクリートの床へ張り付いたみたいに、足が止まる。聞き違いでなければ、ないも同然にハードルが低くなった。
しかし依然、食べきれるかの不安が残る。
悩むこと数秒。結論は、どうにかなるだろうと決めた。鳴き始めた腹の虫を信じて。
「あの……」
声をかける。通路を横断しつつ、と言っても二、三歩の距離。
けれどもそんな猶予に、僕の行く手を遮るものが現れた。
「それ、くれや」
「ああ、
ぶつかりそうで、慌てて止まる。丸坊主をちょっと伸ばした風のボサボサ頭が、僕の目のすぐ下に見えた。
危うく抱きつきそうなのを堪え、「ふう」と息を吐く。と、立ち塞がった誰かが気づいた様子で振り返る。
「ん? あんたもしかして、買おう思うた?」
いかにも意志の強そうな、ちょっと恐いくらいの吊り目が僕を睨んだ。
「あ、いや、ええと」
「ほしたら横入りじゃわ。
店の男の子は高校生と言っても通じる。海太と呼ばれた吊り目の子は、彼より少し歳上に見えた。
答えて店の男の子が「ええよ」と頷く。
「いやいや。僕はちょっと、どうかな思うただけで。お腹も減っとらんし、お兄さんが
注がれる二人の視線に乗った、厚意が申しわけない。両手を振って否定しながら、後退りする。
だというのに、空気を読まない存在とはどこにでも居るものだ。ぎゅるるると盛大に鳴いたのは、他の誰でもない僕の腹の虫。
「じ、じゃあ!」
もう何を言っても説得力がない。理屈は投げ捨てて逃亡を図った。
歩いてきた通路を、元の方向へ。幸い、少しくらい走ってもぶつかるほどの人出はない。
扉を出てから窺うと、追ってくる姿は見えなかった。ぜえはあと息を切らし、看板の下へ置いたままの愛車へ向かう。
トボトボと、ゆっくり。十歩も進んだかのところで、勢いよく扉の開く音が響いた。
びくっと強張り、そちらを向く。
海太くんの吊り目が辺りを見回している。隠れる暇も場所もなく、「あっ!」という声と共に見つかった。
「あんた、どしたんな。何も逃げんでもええじゃろ」
アスファルトを削りそうに強い足取りで、彼は詰め寄った。僕はなすすべなく、「あはは、まあ」と愛想笑いをするしかない。
「腹、減っとんじゃろ。俺もじゃけえ、一緒に食おうや」
ニヤリ。おそらく彼の、好意的な笑みだ。僕の感覚では不敵とか挑発とか、そういうカテゴライズになるけれども。
しかも持ち上げて見せたレジ袋に、どう見てもシバエビは入っていない。鮮やかな緑色、子どもの頭くらいの球体。葉脈の目立つ葉っぱが透けた。
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