僕の中から看板を取り出す方法
須能 雪羽
第一章:看板を下ろしまして
第1話:元広告デザイナー
片側二車線の国道を、時速三十キロちょうどで走る。百七十五センチ、九十五キロの体格には華奢すぎる商用バイクで。
ハンドルの先、ほんの数センチを大きなダンプやトラックが追い抜いていく。僕という人間など、まるでそこへ居ないように。
とは言え大型車の排気はとても暖かく。黒い霧の纏わる数秒だけ、凍えた体に血の気が戻る。
三月終わりの気温を舐めきって、薄いウインドブレーカーだけを頼った報いだ。
接触を恐れつつ、温もりを求めつつ、堪えて走る。行く当てもないけど、どこかへ。
ただ、首を縮めて前のみを見据えるのは、寒さのせいとも言いきれない。商業ビルの立ち並ぶ、看板だらけの街並みを見たくないと言うのが正確だろう。
なのに、目に入った。国道沿いでさえない、何本か先の道路際へ立つ看板が。
「あり得んじゃろ」
覗き見た交叉点は、既に横断しきっていた。左手が勝手にウィンカーを出す。
腹の立つのと、どんな看板かよく見たいという興味と。ワクワクよりはイライラに近い、落ち着かない気持ちがそうさせた。
おおまかな距離感で走ると、幸いにすぐ辿り着いた。白い鉄柱に支えられた、大きな看板の下へ。
バイクを降り、ヘルメットも取って、後退りで十歩離れた。
「わいわい市場?」
のどかな名前のわりに、毛筆めいた荒々しい黒文字。同じ敷地の、巨大な体育館みたいなのがそうらしい。
いや。建物は建物で、福山市総合卸売市場と書かれていた。愛想もクソもない、古めかしいゴシック体で。
ああ、なるほど。本業の魚屋さんやらの市場に、観光客や一般向けの売り場が併設されてるのか。
つまり目の前の看板は、一見の客を呼び込むためのもの。すると僕は、まんまとおびき寄せられた格好だ。
しかし、見れば見るほどあり得ない。なにがって、看板のデザインが。
離れた国道からも見える大きさはいい。交叉点のどの方向からも見えるよう、斜めに設置されているのもいい。
それなのに、この絵の具をそのまま絞り出したみたいな、ベッタベタの赤はなんだ。エビだから赤の一色というのも安直すぎる。
カレイも同じく真っ茶色。ホタテも黒く縁取っただけの真っ白。
いかにも素人の描いたイラストは、美麗とか精密とかいう言葉とは正反対。エビとカレイとは言ったが、実はニンジンとカレーと言われても納得した。
手描き風の味、というのももちろん理解できる。しかしこの看板の絵は、まったくもってそれ以前。
「こんな看板……」
誰がどんな意図で、ゴーを出した? 呟きかけた言葉を、すんでで呑み込む。
僕はもう、看板を作る側じゃない。
デジタルもアナログも、広告デザインならなんでも来いの
ぎゅっと。頭の芯のほうが痛くなるくらい、奥歯を噛む。僕の経歴となんの関わりもない、目の前の看板に全ての責任があるように睨みつけて。
——じっと動かず、数分が経っただろう。僕の周りを、いくらかの人と車が行き過ぎた。明らかな遠回りをしたり、逆に覗きこむように見られたりの視線と共に。
三十前の小太りが、ただ看板に見入っているのだ。それは邪魔で、怪しいに違いない。
「も、申しわけないです、すんません」
誰に向けてともなく頭を下げ、看板の支柱にすり寄った。見ればいちばん近くの二人組が、見てみぬ素振りで「なに謝っとん?」とクスクス笑う。
笑われるくらい、どうともなかった。むしろ僕まで笑えてきて、彼らの向かうわいわい市場へ行ってみようかと思えた。
ちょうど見えた時計は、午前十一時過ぎ。そういえば昨日の夕食からなにも食べていない。
なにごともなかったふりで歩き、網入りガラスの両開き戸に触れ、振り返る。どうにも無性に、もう一度看板を見上げずにはいられなかった。
「ごめん」
あらためてただの絵として、まじまじ見れば悪くない。
いや好きだ。仲のいい誰かから絵手紙ででも貰ったと妄想すれば、ほっこり嬉しくなる。あくまでも、この市場の集客装置としてそぐわないだけ。
独特のまつ毛付きの目玉に、また笑えた。ホタテに目はないじゃろと、これは冗談でツッコむ。
街角へ立つ看板など、みんなそれくらい無責任にしか見ないだろう。
以前の自分を捨てるために走ってきたのに、なにを八つ当たりしているのか。罪のない看板に、描いた誰かに、僕は謝った。
また新たなお客さんがやって来そうで、すぐに市場の中へ逃げ込んだけれど。
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