鈴木

 鈴木の朝は早い。

 日の出の時間に関係なく朝五時にベッドから起き上がり、あくびをしながらジャージに着替える。

 冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注いで飲み干してから、そのまま玄関へ。

 使い続けてボロくなった、まだまだ現役のシューズを履いて、ポケットから出した鍵で外から施錠する。


 まだ薄ら寒い閑静な住宅街を静かに走り出す。

 軽いジョギングを五分ほど続けて、少し大きな公園にたどり着く頃には身体の方は覚醒していた。

 公園の中をゆったりと歩きながら、今日することを改めて思い出す。

「まずは新人研修の状況を確認して……そういえばソウルさんのメンタルが心配という相談があったので話を聞いて、フィロさんは……今のところ大丈夫そうでしたか、でもとりあえず次の指示をメールしておかないと……」

 懐から出した携帯端末のアプリでTODOリストを一つずつ埋めていく。


 十分ほどかけて公園を2周した鈴木は「よしっ」と気合いを入れて来た道ではなく、会社に向けて走り出す。

 全力疾走とクールダウンを何度か繰り返して更に二十分ほど。

 軽く息を切らしながら、背の高い会社の建物までたどり着いた。

 まだ朝の六時頃で、当然会社に人の気配はない。

 裏口に回ってIDカードをかざし、扉を開けて中に入る。

 エレベーターで6階まで上がりって自室に入り、まずはクローゼットの扉を開ける。

 ジャージを脱ぎ捨てて洗濯機に放り込み、ハンガーに掛けてあるスーツに身を包み気を引き締める。

 そのままデスクに向かってPCを開き、15分ほど使ってメールを処理し、各所に指示を出し終えた。


「ふぅ……」

 一息ついた鈴木はおもむろに立ち上がり、扉を開けて個室を出る。廊下を歩きエレベータに乗り込んで、地下一階のボタンを押す。

 地下の、カプセル型の端末が設置された部屋にIDカードをかざして入り、そのうちの一台を調整する。

「さて……」

 設定を終えた鈴木は蓋の開いた端末に乗り込んで深く座り込む。

 座席が静かに下がり、蓋が降り視界が閉ざされる。

 次の瞬間、鈴木は真っ白な、何もない空間に一人立っていた。

 スーツ姿とは違う、RPGの勇者のような格好をみて軽く自嘲してから、気を引き締める。


 ここに来たのは、特に用事があってのことではなかった。

 この空間で、何かをする予定はない。もはやただの習慣として毎朝こうして世界に接続している。

 だがこうして空間に立っているだけで、胸が締め付けられるような不快感が強くなっていく。

「そういえば、フィロさんもソウルさんも余裕そうでした……まったく、羨ましい限りですね……」

 基本的にほとんど全ての人は、他人の心象世界に長時間滞在できない。

 何もないこの空間は複数人の心象世界を混ぜ合わせて作られたもので、比較的影響が少ないと言われている。

 だからこそ適正のない鈴木でもこうしてこの世界に存在することができているのだが……

「っう、そろそろ、限界ですか……」

 五分も経たないうちに、不快感が吐き気レベルにまで強まった。

 立ちくらみのように思考がもうろうとして、立っていることさえ辛くなりその場に膝をつく。

 肺が酸素を取り込んでくれないかのように息苦しく、視界がにじむ。

 少しずつ、手足の末端から身体が消滅していき、気がついたら現実世界に戻されていた。

 時計の針を確認すると、アクセスしてから十数分しか経っていなかった。

 それでもその結果に、鈴木は皮肉っぽく口端を上げる。

「最高記録を、7秒も更新できました……か」


 鈴木はそのままぐったりと椅子にもたれかかり、十分ほど目を閉じて休みを取った。

 そして徐々に会社に人が集まり始める時間になったら目を開き、端末の掃除をささっと済ませて部屋を出る。

「では、今日も一日頑張りますか!」

 こうして鈴木の仕事は幕を開けるのだった。

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