昼休み

 高級なビジネスチェアにもたれかかり、哲夫は瞑想する。

「それにしても、カゲトラって人は強かったな……俺もいつかあれぐらいに強くなれるんだろうか」

 脳内で、フィロとカゲトラが闘う様子をシミュレーションする。

 勝てる可能性を上げるために、フィロからカゲトラに不意打ちを仕掛ける状況。

 背中側から、声もかけずに大剣を振り下ろす。

 これなら流石に……と思った瞬間に、脳内のカゲトラは刀でフィロの大剣を軽く流し、そのまま距離を詰められて、気がつけば首元に刃が軽く当てられている。


「……これでも無理とか、マジかよ」


 もちろんこんなのは、ただの妄想でしかない。

 だが哲夫は、妄想ですら勝てない人がいることに驚き、大人げもなくわくわくしていた。


 PCからピロリと音が鳴ったので目を開くと、メッセージが届いていた。

 マウスを操作して通知をクリックすると『これからの予定を話したいのですが、通話できますか』と表示される。

 哲夫が『大丈夫です』と返すと、PCからピロピロと音が鳴り『鈴木(ベル)から着信があります』と表示された。

 受話器マークのボタンを押すと、自動的に通話アプリが立ち上がる。


「お疲れ様です、鈴木です。哲夫さんですか?」

「はい、賢木です」

「ああ、元気そうですね、哲夫さん。安心しました」

「元気そう? 安心した? 何のことだ?」

「いえ、カゲトラさんから『ソウルは満身創痍だった。フィロも無理させないでくれ』と連絡があったので。どうしますか? 今日はもう帰って休んでも大丈夫ですが……」

「いや、俺は全然、大丈夫です!」


 通話アプリ越しに、鈴木の「そうですか?」という声が聞こえ、哲夫は黙って頷き返した。

「分かりました……では哲夫さんは、午後からは一般業務の研修を受けてください」

「一般業務……?」

「ああ、えっと……要するに、心象世界に潜らない業務です。フィロではなく、賢木哲夫としての業務。と、言い換えても良いかもしれません」

「そうか、俺はフィロと哲夫おれの、二つの身分があるんだったか……」

 二枚重ねになっている身分証がロックされているのを触れて確認しながら呟くと、鈴木は「はい」と申し訳なさそうに答えた。

「そういうことです。では13時半に、20階の大部屋に来てください。それまでは休憩時間です。外に出てもいいですし、20階ではお弁当を販売しているので、それでも良いと思いますよ」


 ◇


 哲夫は、財布や筆記具が入った鞄を手に持ち、301号室を出てエレベーターへと向かった。

 上矢印を押してしばらく待ち、目的階のボタンを押す。

 昼休憩には少し早い時間だからなのか他に人の姿はなく、狭い個室を独り占めして上昇し、数秒で最上階までたどり着いた。


 通路の案内図を頼りに廊下を進むと、大きな部屋の入り口に突き当たった。

 20階は、個室の扉が並んでいた3階とは違い、大部屋が一つだけある構造になっているようだ。


 放たれていたドアから大部屋の中に入ると、そこはカフェのようなスペースになっている。

 全体的に落ち着いた雰囲気でまとめられていて、ほんのかすかにクラシックの音楽が流れている。

 机や椅子が等間隔で並んでおり、壁際にはパーティションで区切られた半個室のような場所もある。

 少し早めに休憩している人がちらほらと見え、ノートPCで作業している人や打ち合わせをする人もいた。

 入り口近くには売店のような場所もあり、軽食や飲み物などのメニューが書かれている。

 また、鈴木の言っていたとおり、お昼休みに向けてお弁当も並べられていた。


 適当に選んだお弁当とペットボトル飲料を購入し、外の景色がよく見える窓際の席に腰掛けた。と、同時に時計の針が頂上で重なり、昼休憩を告げるチャイムが鳴り響く。

 プラスチックの蓋を剥がして箸を付けようとする間にも、続々と社員が集まってくる。

 男女比は、だいたい半々ぐらい。パッと見た感じは若い人が多いように感じられる。

 静かだった空間が、数瞬のうちにざわざわと騒がしくなった。


 哲夫が弁当を食べ終える頃には、ほとんど全ての席は埋まっていた。

「時間までここでのんびりしようかと思ったんだが……」

 別に急かされているわけでもないのだが、空の容器を前に居座り続けることがいたたまれなくなって、哲夫は立ち上がった。

 ゴミを片付けて振り返ると、さっきまで哲夫が座っていた席では、すでに別の者が弁当を開いていた。


 時計を確認すると、ちょうど12時30分となっている。

 三階の自室に戻って時間を潰すには、少し中途半端な時間ということで、売店に並んでいる商品を何気なく物色することにした。

 基本的な文房具や何冊かのビジネス書、お菓子や飲み物なども販売しているようだった。


「ここら辺のを、部屋に置いてもいいかもな……」

 そう思いながら哲夫が箱入りのクッキーに手を伸ばすと、まったく同じ目的地に向けて右手側から手が伸びてきた。

 指同士が触れそうになり、お互いに手を引っ込めた。

「すいません……あ、」

 謝りながら振り返ると、そこには申し訳なさそうな表情をした、ビジネススーツを着たナタリアがいた。

 知っている顔があったので思わず二度見して、あっと声を漏らしてからしまったと気づく。

(そうか、今の俺はフィロの姿ではない。向こうからしたら初対面の男なのか……)

 そう考えながら、黙って顔を見つめてくる哲夫に、ナタリアは少し困惑した視線を向けた。

「……何かありましたか?」

「いや……なんでもない、です」

「そうですか、では」

 それだけ言ってナタリアはレジへ向かい、会計を済ませて立ち去った。


 数秒間、呆然と立ち尽くした哲夫はそのまま会計へと向かった。

 会計のおばちゃんが、生温い視線を哲夫に向けている。

「元気を出しな! ほらこれ、おまけであげるから!」

「いや、そういうんじゃないです……」

 そう言いながらもクッキーの箱とおまけでもらったあめ玉を鞄に押し込み、売店を後にする。


 ◇


「新人研修に参加する人は、こちらに集まってくださ〜い!」

 大部屋の片隅で中年の社員が声を上げるのを聞いて、哲夫は気を取り直して集合場所へと向かった。

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