偽りの身分

 哲夫がゆっくりと端末から起き上がり抜け出すと、鈴木は部屋の隅にあるスペースを指さした。

 そこには小さなテーブルと、向かい合うように置かれた二脚の椅子がある。

「哲夫さん、お疲れのところですが、少し話しをできますか? 明日以降の予定などについても……」

「もちろんだ」

 鈴木と哲夫が腰掛けると、さっそく鈴木は鞄を開けた。


「哲夫さん、まずこれが、哲夫さんのIDカードです。これがあれば哲夫さんは、受付を通さずに社内に入れます。明日以降はこれを使ってくださいね」

「ああ、わかった……入り口にあった機械にかざせば良いんだな?」

「そうです。センサーがチップを読み取りますので……そして実は、哲夫さんのIDにはちょっとした仕掛けがありまして……横にスライドしてみてください」

「横に?」

 言われたとおりに社員証を横から押し込むと、表面がずれて二枚目のカードが現れる。

 そこにはフィロの顔写真と、名前の欄にはただ『S』とだけ書かれている。


「哲夫さんの場合、普段『フィロ』を名乗っても顔と名前が一致しませんので……表向きは『賢木哲夫』として仕事をしてもらいます」

「そうか」

「『賢木哲夫』としての哲夫さんは、うちの技術スタッフとして。法律上もちゃんと社員として登録されているんですよ」

 哲夫は二枚のカードを何度かスライドさせる。

 それぞれのカードは重ね合わせると固定され、力を入れなければ、ずれないようになっている。

 両方の社員証を比べてみていた哲夫は気がついたように顔を上げた。

「なあ、鈴木さん。こっちの名前に書いてある『S』ってのは?」

「ああそれは、フィロさんが入社する前に付けられていたコードネームみたいなものです。今日時点で『フィロ』として登録されていますが、今後も『Sサルファー』として名乗っても通じます……場合によっては『S』の方が伝わりやすいかもしれません」

「他の……例えばかぼちゃ先輩とかにも?」

「はい。かぼちゃさんは『Liリティアム』です。ですが、カジュアルな場では『かぼちゃ』と呼んであげれば良いですよ。まあ、そのあたりの呼び分けはそのうち……」

「……わかった」


 カードを合わせて『哲夫』の状態にしてケースに入れて、哲夫は首にかけた。

 それだけで、VRQという会社の一員になったような気分になる。


「ああそれと、これは社員用の携帯端末です。明日の予定などはこちらに送りますので……」

「最新機じゃないか。こんなものまで貰えるのか、至れり尽くせりだな……」

「念のため言っておきますが、許可なくアプリをインストールしないでくださいね。会社の備品ですから。必要なアプリは入っているはずですし、申請を出せば許可が出ることが多いですから!」

「あ、ああ。わかった、もちろんだ」

 過去に何か問題でもあったのだろうか、鈴木の真摯な態度に哲夫は少したじろいだ。


「さてこれで、事務的な話は終わりました。次は……オフザレコードな話を少しさせてください」

 鈴木は急に声を潜め、ぐいと身体を乗り出した。

 哲夫の返事を待たずに周囲に、他に誰もいないことを改めて確認して言葉を続ける。

「……実は、哲夫さんが『フィロ』であることは、我が社の極一部のものしか知らされていません」

「極一部……?」

「具体的には私と哲夫さんとかぼちゃさんだけ。他の社員には、社長でさえ、フィロというダイバーと、賢木哲夫という技術スタッフが二人入社した。ということになっているのです」

「なんで、そんな面倒なことを?」

「理由はいくつかあります。まず第一に、哲夫さんのように『こちら』と『あちら』で姿が違うというのは、前代未聞のことです。前例を作ってしまうと、余計な混乱が生まれます」

 例えば社員が心象世界にアクセスすると、アクセス時に使われたIDだけでなく、アクセス者の顔を元に権限などが認証される。

 つまり表と裏の顔が同じである。という前提をもとにシステムが構築されているため、その前提が覆された時の影響は甚大になってしまうのだろう。

 だから鈴木は、今はまだその時ではないと判断したのだった。

「そしてそれだけでなく……どちらかというとこちらが理由としては大きいのですが。フィロさんには今後いろいろと暗躍・・してもらう予定でして……そのためには、表の人格が存在しない方が都合が良いのです」


 哲夫はきな臭い話を聞いて目を細めて鈴木を睨み付けた。

 鈴木はそれを察知して、すぐに取り繕うように大げさに手を振った。


「いえもちろん、今のところ哲夫さんに危険なことを頼むつもりはありません。もちろん、悪事に荷担しろとも言いません。ですがとりあえず、どうか秘密を守ってもらうことだけ約束してもらえないでしょうか」

「それぐらいなら、まあ……」

「では、そういうことで。私からの説明は終わりです、何か質問はありますか?」

「いや、特にない……」

「では、今日はこれで。お疲れ様です、私は先に失礼しますね」


 あっという間の出来事だった。

 余熱を冷ましている端末しかない部屋に一人残された哲夫は、小さくため息をついて立ち上がり、部屋を出て会社を出て、電車に乗ってしばらく歩き、気づけば住まいに着いていた。

 オートロックの鍵を開け、上着を脱ぎ捨てた哲夫は、疲れ果てた身体をそのまま布団に沈める。


「風呂は……夕飯は……まあ、一日ぐらい、なんとかなるか」


 明日起きたらシャワーを浴びよう。そう決意して、哲夫は深い眠りに就いた。

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