心中の獅子
「それではフィロさん、早速ですが、少し歩きましょうか」
雨露坂はゆっくりと顔を上げ、街の中をゆっくりと歩き出した。
「不思議ですよね……始めてくる場所のはずなのに、何がどこにあるのか、手を取るようにわかるのですから」
「ここはあんたの深層心理、そのものだからな。それで俺達はどこに向かっているんだ?」
「……この世界に入りたいと頼んだのは、思い出したい記憶があるからです。忘れてしまった、とても大切な記憶です」
まっすぐ前を向いて進む雨露坂を見て、フィロは「そうか」と答えて彼の背中を追うことにした。
不気味なほどに静かな通りは、進むほどに荒んでいくようだった。
がたつく石畳から雑草が顔を出し、薄汚れた漆喰に亀裂が走る。
静かすぎる空気に耐えきれなくなったフィロが、雨露坂の顔に視線を向けた。
「なあ、その記憶って、どんな記憶なんだ?」
「そうですね……子供頃の、小さな思い出。祖母が私に遺した言葉です」
「おばあさんが? どんなことを?」
「それが、なぜか思い出せないのです。私が政治を目指すきっかけは、まさにその言葉なのですが……」
雨露坂は、今は亡き、懐かしい祖母の顔を思い出していた。
雪が降る寒い冬、暖房の効く部屋のこたつでくつろぎながら、テレビを眺める祖母の姿。
明瞭な記憶の中で、祖母が何かを話す。その言葉だけが、思い出せずにいた。
「私は、政治家になるという目標を達成しました。前に進むために一度、原点に返りたいのです」
「それで、昔のことを思い出したいってことか……」
「そう。そしてその記憶はどうやら、この先にあるようですね」
雨露坂は立ち止まり、脇道を指さした。
人が並んで通れるほどの細道は長く続かず、背の高い建物によって閉ざされているようだった。
「ん? 俺には何もない、ただの袋小路に見えるんだが……?」
「そのようです。正確には、目的地を阻む壁があるようですね。フィロさん、この壁を破壊出来ますか?」
雨露坂の質問を聞いたフィロは、この世界に来る前に鈴木から聞いていた優先順位を思い出す。
まず第一にフィロ自身の安全確保。
そして次に優先されるのが、中の物体の破壊の禁止。
それは雨露坂自身の命令や、彼の身の安全よりも優先される。
「出来るかもしれないが……物を破壊するのは駄目と、禁止されているからな」
「そうですか。ならば私自身が、打ち破るしかないわけですね」
「……まあ、自己責任なら、俺は止めないよ」
「では、お言葉に甘えて……」
雨露坂が目の前の空間を掴むと、その手には金属製のステッキが握られていた。
優雅な構えから突き出された杖の先端は、壁に数センチだけ埋まり、押し返されるように弾かれる。
レンガ造りの見た目に反して目の前の壁は、弾力のある素材で出来ているようだった。
「うわっと……では、これならどうですか!」
上下から、左右から、やけくそのように振り回されたステッキは、すべて「ぽよん」と柔らかくはじかれる。
当然壁には傷一つとしてついていない……
「はぁ……はぁ……」
「雨露坂さん、大丈夫か?」
「フィロさん、やはり、少し手伝ってもらうわけにはいきませんか?」
「手伝うと言っても……」
壁に近づいたフィロは、両手で壁面に触れてみた。
ひんやりと冷たく、押し込むと数センチだけ沈み込む、綿の詰まったクッションのような手触りだった。
更に力を強めると、壁全体がズズズ……と後ろに下がる。同時に、壁の向こう側から隙間風のように冷たい空気が流れ込み、フィロと雨露坂に悪寒が走る。
それはまるで、世界自体がフィロの行為を拒絶しているかのようだった。
「雨露坂さん、下がってくれ!」
そう言いながら、フィロ自身も、後ろ向きに飛ぶようにして脇道から大通りに戻る。
慌てて振り返った雨露坂の視界には道を塞ぐ壁が消え、その場所には勇猛な
ゆったりと歩み出でる獅子の獣に、背丈の倍ほどはある大剣を軽々持ち上げながら向き合うフィロを見て、
「ああ……」
神話の一場面を切り取ったような光景を目前に、雨露坂はただ言葉を失っていた。
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