初仕事

 エレベーターが数秒かけて階を二つ降り、静かに扉を開くと目の前には長い廊下が続いていた。

 目の前の地図を見る限り、この廊下は円を描くように続いていて、廊下の先を見るとゆったりと曲がっているようだった。

 鈴木と哲夫は箱から出て、右回りに進んでいく。


「哲夫さんにはこれから、とあるVIPのメタワールドに入ってもらいます」

「VIP? 偉い人ってことか?」

「はい。偉いというか、世間的には有名人です。我が社のパトロンなので、私たちからしたら超重要な人物ですが」


 直接会えばわかりますよ。そう言いながら鈴木が扉を開けると、狭い部屋の中央には一台の端末が設置されていた。

 ついさっきまで哲夫が使用していたそれより一回り大きく、無数のケーブルが周囲のコンピュータに接続されている。

 哲夫は鈴木に続いて部屋に入りながら、ついさっき聞いたヌルメラの説明を思い出していた。


「これが専用機……思ったよりもでかいんだな」

「そうです。哲夫さんに合わせてチューニングするので、そちらの椅子に腰掛けてください」


 鈴木は、椅子に座った哲夫の頭部にヘルメットのような機械を乗せ、哲夫の向かいの椅子に腰掛ける。


「さて、哲夫さん。そのままで聞いてください。注意事項がいくつかあります」

 黙って頷く哲夫に、鈴木はそのまま資料を出しながら解説を続けた。

「まず、これから哲夫さんはVIPのメタワールドに直接入ってもらうのですが、オブジェクトを破壊しないように細心の注意を払ってください」

「オブジェクト……?」

「例えば壁や床、建物やその他、要するに物を傷つけないように……理由はわかりますか?」

「それは、先輩方が言ってたな。確か、その世界にある全ては、その本人の記憶や感情だから……だったか?」

「その通りです! 修復不可能な破壊がある場合、性格が変わってしまうことも、理論上は起こります」

「わかった……気をつけることにするよ」

 性格が変わってしまう。ということの重大さを想像して身震いする哲夫に、鈴木は真剣な顔を向けた。

「哲夫さん。ですが優先順位としては、まずはフィロ自身の安全が第一です。次に物体の破壊禁止。VIPアバターの保護……それらを満たした上で、VIPの言うことを可能な限り叶えてください」

「俺自身、物体、保護、命令……なあ、もし『獣』に遭遇したら、逃げれば良いのか?」

「逃げても良いですし、獣は討伐しても大丈夫です。あれは一時的な感情ですので……さて」


 哲夫の頭上からピピピピと電子音が鳴り、それを聞いた鈴木は椅子から立ち上がる。


「最後に、今回の接続時間は、三十分間限定です。もちろん残業代は出ますし、危険手当も至急されます……」

 話の途中で鈴木は、ブルブルと震える携帯端末の画面を取り出して確認した。

「それと……いえ、これは終わってからにしましょう。哲夫さん、楽しみにしておいてくださいね」

 鈴木は哲夫の頭部から機械を取り外し、カプセル型の端末へと誘導する。


 階段を上り、ソファのように柔らかい座席に乗ると、電源が入って沈み込みながら蓋が閉じる。

 一切の光が届かない狭い暗闇の中。

 哲夫が瞬きをすると、フィロの前にはファンタジー世界のような街並みが広がっていた。


 足元には石畳が敷き詰められており、レンガ造りの建物に囲われている。

 上空を見上げると分厚い雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうな薄暗い雰囲気だった。


『フィロさん、聞こえますか? ベルです。一分後にVIPが到着しますので、対応をお願いしますね』

「対応って言われても、俺は何をすれば良いんだ?」

『基本的に、その人の指示に従えば大丈夫です。何も言われなければ、何もしなくても構いませんし、適当に話をしても。無理を言われたら、断っても構いませんよ。それでは私はこれで……』

 最後はノイズまみれでかすれるように消えていったベルの声を聞きながら、ベルは一人ため息をついた。

「つまりは丸投げかよ……」


 曇天から視点を下ろし、改めて街並みを確認していると、フィロの前方数メートルの空間がパリパリと音を立て始める。

「おや、あなたが今日の案内役ですか? 私、衆議院議員の雨露坂うろさかと申します」

 どこかで見たことのある顔だ。最初そう感じたフィロは、それが少し前に選挙ポスターで見かけた顔だと思い出す。

 雨露坂うろさか磨人まひと。両親が資産家で、三十代前半に無所属で出馬しながら、与野党の候補者を押しのけて見事当選するという、政治に詳しくないフィロでも顔ぐらいは知っている大物だった。

 英国紳士のような気取ったスーツに身を包んだ雨露坂は、シルクハットを胸元に抱えながら、フィロに向かって優雅に頭を下げる。

「今日はどうぞ、ご案内をお願いします」

「あ、ああ……こちらこそよろしく」

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