緊急残業
学校の教室のような、コンクリートの壁と板張りの床に囲まれた空間に、まったりとした音楽が響く。
教壇の隣でうつ伏せに寝ていたかぼちゃが起き上がり、両手を挙げて大きく伸びをした。
「よし、これで今日は、おしまい!」
その様子を見たヌルメラは、呆れたようにして、フィロとナタリアに向き直る。
「この放送は、勤務時間の終了時に設定されています。二人とも、今日はお疲れ様でした」
ヌルメラの指導は的確で、丁寧な教え方ではあったのだが、半日ほどぶっ続けで座学が続いたこともあり、フィロもナタリアも満身創痍といった様子だった。
ちなみに世界の背景が学校の教室になっているのは、やる気を失う前のかぼちゃが気まぐれで設定したものだった。
かぼちゃなりの、少しでも集中出来る環境を。という気遣いだったのか、それは本人にしかわからない。
「ねえかぼちゃさん。このあと、どうしますの?」
「このあと?」
「いえ、せっかくですので、四人で居酒屋にでも行きませんこと?」
「いいね……と、言いたいとこだけど、フィロは駄目ね。うん、駄目」
「俺?」
きょとんとしているフィロを見て、ヌルメラはかぼちゃに詰め寄った。
「なぜ、フィロさんは駄目なんですの?」
「だってほら、フィロは……ほら」
「ヌルメラ先輩、フィロちゃんは未成年ですから、飲みに誘っては駄目ですよ!」
「まあたしかに、それなら仕方ないですわね……」
ナタリアがヌルメラに指摘するのを見て、かぼちゃは「そう、それそれ」と頷いた。
フィロは自分の小さな手の平を見つめて、三人に向かって笑顔を向ける。
「わかった。俺のことは気にせず、三人で楽しんでくれよ」
「ええ……残念ですが、そうさせてもらいますわ。それでは私たちはこれで……ナタリア、戻りますわよ」
「え、あ、はい。ヌルメラ先輩」
ヌルメラが身体の前で軽く手を合わせると、二人の姿は粒子状になってこの世界から消滅した。
二人の肉体が完全に消え、空間移動が完了したのを確認すると、かぼちゃはフィロに向かって手を合わせた。
「ごめん、そういうことになった」
「ああ、むしろ助かったよ。よく考えたら俺の場合、直接顔を合わせるのは気まずいからな」
「うん。フィロは男の人だから。ごめんね、ヌルは若干、男嫌いっていうか、そういうところがあるから」
「まあ、女子ばかりの飲み会に俺が混ざっても。ってところはあったから」
「とりあえず、ヌルが上手いことやってくれたから、研修は今日で終わり。明日からは実務やるから。今日と同じ時間に会社に来てね」
「ああ、わかった……わかりました、かぼちゃ先輩」
「よろしい。じゃあ外に出ようか。やり方は覚えてる?」
「ヌルメラ先生に教えてもらったからな」
フィロが身体の目の前で右手の人差し指を立て、その先端をじっと睨み付けると、フィロの目の前に半透明の画面が現れた。
そのまま指をゆっくりと動かして、画面右下のアイコンまで指の先端を移動させると、画面が切り替わりカウントダウンが表示される。
5……4……3……2……1…………
世界が暗転し、プシュという音と共にカプセルの蓋が開き、椅子が浮き上がる。
ほぼ同時に、すぐ隣にあったカプセルも蓋が開く。
証明の光に目を細めながら確認したその人は、きっちりとしたスーツを身に纏ったかぼちゃだった。
背の高さから、顔の形まで、メタワールドで見たのとまったく同じ姿の女性は、よっとカプセルから飛び降りて哲夫の元へと近づいてくる。
「やあ、こっちでは初めましてだね。かぼちゃだよ。それにしてもフィロは、こっちだと本当に男性なんだね……」
重い身体に力を込めてカプセルから起き上がり外に出て、哲夫は改めて目の前の女性を観察した。
「かぼちゃ先輩は、こっちでもかぼちゃ先輩なんだな……」
「これが普通だよ。ヌルもそうだし、他の人達も。変わるのは服装とか、少し背が縮んだり伸びたりとか……あとは、少し顔が良くなったり悪くなったりぐらいだよ」
「そうなのか……」
哲夫は「だったら俺はなんなんだ」という言葉を口には出さず、黙って天井を見上げた。
かぼちゃはそんな哲夫を見てクスッと笑い、エレベーターに向かって歩きだした。
「それじゃ、私は先に行くね。上でヌル達と合流して外に出るから、フィロは十分ぐらいしてから帰ってね」
「そうだな、わかった。お疲れ様でした、かぼちゃ先輩」
「はいはい、お疲れ様。また明日ね、フィロ!」
電子音が鳴って扉が開き、かぼちゃをのせたエレベーターは、地下から地上へ向けて上昇していった。
一人残された哲夫は、改めて広い地下空間を確認した。
他の端末はもぬけの殻となっており、ナタリアやヌルメラの姿はそこにはない。
どうやら彼女たちは別の部屋からあの世界にアクセスしていたらしい。
「さて……そろそろ俺も、帰るかな」
かぼちゃに言われたとおり、十分ほど何もせず、ベンチに座って時間を過ごした哲夫は、ゆっくりと立ち上がりながらエレベーターへと向かった。
ボタンを押してしばらく待つと、地下階層まで到着した箱の扉が開く。
空室だと思った中から、見知った顔の男性が慌てた様子で飛び出してきて、驚いて立ち止まった哲夫とぶつかりそうになる。
「ベ……鈴木さん?」
「賢木さん! よかった、間に合っ……かぼちゃさんは?」
エレベーターから飛び出した鈴木は、地下室全体を見回してから、かぼちゃが居ないことに気がついた。
哲夫は困った顔で頭を掻きながら鈴木の問いに答える。
「かぼちゃ先輩は、一足先に帰ったよ」
「そうですか……仕方ありません、哲夫さん、入社早々で申し訳ないですが、作業お願い出来ますか!?」
「え? あ、ああ……」
鈴木は、困惑したままの哲夫の手を引いてエレベーターに乗り込んで、更に下の階層へと向かうボタンを押した。
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