KAC20235 気に入らない人間をぶん殴るとスッキリするぞ

白川津 中々

 突然の自分語り失礼する。


 直近の俺の生活は地獄だった。

 ブラック企業に勤め三年。朝も夜もなく仕事仕事仕事。従業員定額働かせ放題の固定残業代込みで手取り十七万では貯金もできず、生きていくためには上司のパワハラにも耐え働かざるを得ず、死ぬ寸前まで使い潰された挙句ぶっ倒れドクターストップ。訴訟を恐れた企業から会社都合でリリースされたわけだが時既に遅し。自律神経は失調し社会復帰には相当の時間がかかる見込み。失業保険を受け取りながら通院するも改善の見込みなく病院へ行く以外は暗い部屋の中で過ごす日々。食事はおろかトイレや風呂も満足にできず、一日廃人として床の中で丸まる事がほとんどだった。


 救いのない生活は死んでいないのと同義だった。俺は生きる目的もなく死なないようにしていただけだった。


 このまま死ぬのも止む無し。今日で通院も自己判断でやめよう。 


 そんな事を思ったある日、待合室のテレビから流れる放送に興味が湧いた。




「辛い時は筋トレ。トレーニングを日常に組み込み健康的な身心を得よう」



 ナレーターの声で再生されるのはTwitterの投稿本文だった。

 アカウント名“プロゲステロン”

 筋トレを推奨する、所謂インフルエンサーと呼ばれるアカウントを紹介する内容だった。



 普段テレビなど小馬鹿にしている俺だったが、「健康的な身心を得よう」という一文と、トレーニングというワードが刺さった。昔から筋が細く、貧弱な体格がコンプレックスであったためずっと運動などを忌避してきた。その裏にある、強靭な肉体への憧れを刺激されたのである。


 

 やってみるか……




 かくして俺の肉体改造計画は始動された。

 まずは道具と思い立ち通販でプロテイン、ダンベル、バーベル、トレーニングベンチ、トレーニングチューブ、スポーツウェア、スポーツシューズ、加圧ベルト、そしてプロゲステロンのトレーニングテキストを購入(支払いは失業保険からである)。軽度の負荷から取り入れていった。


 最初は気まぐれでどうせ続かぬだろうと自分でも思っていたが、面白もので目的ができると動かなかった身体が動くようになり、辛い時でも「筋トレしないと」と呟けば不思議とルーティンワークをこなせるのだった。その結果筋肉は膨張。吊るしケバブのような大退勤、岩と見紛う腹直筋。鋼鉄仕込みの大胸筋。パジェロが載せられる三角筋と、下手なビルダーを蹴散らす完璧な肉体-パーフェクトマッスル-を手にしたのだった。プロゲステロンのトレーニングテキストは実に効果的であった。


 筋肉は手に入ったが気になる事があった。テキストに差し込まれている自己啓発文言である。


「自分を蔑ろにするような人間の言葉に耳を貸すな」


「気に入らない人間のために使う時間はない」



 もっともだと思うし共感もできるが、妙に上から目線で鼻につく。俺は身体を鍛えたいだけなのだから、そんな月並みのアドバイスなど必要なかった。だが、トレーニングのページに記載されているその言葉を見ないようにする事などできず、俺は筋肉の増強と共にプロゲステロンの思想を刻み付ける事となった。慣れはしたが、不愉快であった。


 また、それ以外にも大きな問題が俺を襲った。精神状態がちっとも良くならないのである。

 一向に回復しないメンタル。日々吐きながらトレーニングを行い内臓系はボロボロ。快調へ向かうどころか刻々と深刻に蝕み始めている。筋トレを始め、加速度的に寿命が縮まっているのが分かった。


 なぜ、どうして。

 浮かぶ疑問。トレーニングをしながら悩む毎日。身体を軋ませ、迷い続け、それでも答えは出ず、ダンベルを上げながら五里霧中。進むべき道が不鮮明なまま月日が経過。筋量だけが闇雲に増大し、鍛え上げられていく。




 体重が十倍になった時、俺はとうとう悟った。奴の、プロゲステロンの言葉は欺瞞だったのだと。筋トレ程度で精神的なダメージが回復するわけがないのだと。

 俺はまんまと口車に乗せられテキストを買い、奴の金儲けに貢献しただけに過ぎなかったのだ。


 感情が噴出した。

 怒りだ、俺を騙し、過酷なトレーニングを強いた挙句心も身体も破壊しつくしたプロゲステロンに対する怒りが湧き上がり細胞を支配したのだ。

 激動するEmotionが俺の魂を突き動かす。バーベルを放り投げダッシュ。向かうはプロゲステロンの事務所。虎ノ門の丘に構えるマンションの最上階。いい部屋住んでるなぁ! 人を騙して得た金でよぉ!?


 オートロックを蹴破り階段駆け上がる。後ろからは警備員の声。知った事か。俺はプロゲステロンを殺すのだ。あの詐欺師に人を欺いた報いをくれてやるのだ!

 


「プロゲステロンはどこだぁ!」



 最上階。扉をぶっ叩き強制入場。どこだぁプロゲステロン! 



「なんだね君は!」



 いた。

 今の俺なら分かる。そのマッスル、貴様がプロゲステロンだ!



「プロゲステロン。俺はお前に騙され筋トレをしてきた者だ」


「騙す? なにを騙したというのだ。見事な筋肉じゃないか」


「筋トレをする事によりメンタルも改善するとお前は言ったな? その言葉を信じて、俺は今日まで死ぬ思いでお前のトレーニングテキストの内容を続けてきた! その結果がどうだ!? 逆流性食道炎に胃潰瘍に肝臓不全! そして重度の自律神経失調症だ! 筋トレを始めてからというもの俺はどんどん人としての機能を失っていった! 残ったのはこの筋肉だけだ!」


「私のテキストを読んだのか。では、同時にメンタルマッスルのための格言も読んだのだな?」


「読んださ! 毒にも薬にもならないありふれた駄文だった!」


「そうか。では問おう。君は、何を目指してマッスルとなった」


「健康的なメンタルだ!」


「健康的なメンタル。そうか、君は病んでいたのだな。初めから」


「だからどうした!」


「君は病んでいた。病みながらトレーニングを続けた。トレーニングにより、病みが治ると思った。そうだね?」


「……そうだ」


「そのトレーニング中、君は楽しいと思った瞬間はあったか? 筋肉が増強されていく事を喜ばしいと思った事はあったか? 日々のトレーニングに充足感を得ていたか?」


「……」


「ないだろうね。だって君は、私が記したメンタルの筋トレを実戦してこなかったんだから。ただ蒙昧に身体だけを鍛えて、心の方を疎かにしたのだ。メンタルのマッスル軽視した結果、病症が悪化したのだ」


「ふざけるなよ!? あの駄文に何の意味があるのだ!」


「分からないなら分からないなりに努力しようとしたのかね、君は。“なんだこのベタな内容は。くだらない”などと一蹴し小馬鹿にしていた。そうだろう?」


「あんなものに価値などあるものか!」


「その先入観と凝り固まった思考がまず駄目なんだ。筋膜炎のように君の心を摩耗し続ける。さぁ、来なさい。私が一からメンタルマッスルを教えてあげよう。まずは心から喜ぶ事から始めようじゃないか。君の素晴らしい人の主役は誰だい? 君だろう? そうさ。まず、君は人生の主役であるという事を理解しなければならない。今日から君の人生を演じよう。君はこれから……」



「うるせぇ!」 




 右ストレート一閃!

 プロゲステロンは肉の塊となった。




 やってしまった。俺もとうとう人殺しだ。人生The・Endってわけか。

 しかし、なんだこの高揚感、胸の底から湧き上がる爽快感は。今まで感じた事のない愉悦、快楽、心躍る楽しい気分。他人をぶっ殺してしまったってのに罪悪感なんて一つもなく、まるで生まれ変わったような心地よさがある。身体が軽い。なんだこれは、なぜだ。



 ……そうか、分かった。ムカつく奴をぶん殴るとスッキリするんだ。これまでずっと抱え込んできた鬱屈の正体はこれだったんだ。俺を虚仮にした連中に報復できなかったから、俺はずっと不調だったのだ。

 なんだ、そうかそうか。そうだったのか。簡単な話だったんじゃないか。これならもう病院に行く必要もない。叡智を得た。



 何もかも理解した俺は退職した会社へと向かった。

 目的は勿論、鍛えた筋肉で上司をぶっ殺すためである。

 これから気に入らないやつは全員ぶっ殺していこう。俺にはそれが可能だ。この筋肉さえあれば、全てが、思うまま……


 

 


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