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ちわみろく

第1話 痴話喧嘩

 朱鳥あすかの夫は、いわゆる体育会系だ。

 国内でも有数の体育大学を出て、今は隣町の高校の体育教師をやっている。朱鳥も同じ大学出身で、当時は彼のその筋肉モリモリでマッチョでストイックなところが魅力的に映っていたから、気になるどころか歓迎していたのだ。

 しかし、結婚して所帯を持つようになると、ところ構わず筋トレを行う夫を少しうっとおしく感じるようになった。

 それでも、子供が出来るまでは、許容範囲内だったと言えよう。

 娘の聖美まさみが生まれてからも、彼の筋トレ熱は変わらなかった。

 まあ、それは別にいいのだ。浮気をするとか、浪費をするとか、そういうことに比べたらはるかにマシなのだから。

 だが、プロレスラーばりに鍛え上げられた胸板と上腕二頭筋に挟まれた生後2ヶ月の赤ちゃんを見たときには、ある意味衝撃が走った。

 あたしの子が壊される・・・?

 相好を崩して娘を愛でる夫の姿はとても微笑ましいものであったけれども、ほんのちょっぴり、そんな恐怖に怯えた瞬間があったのは否めない。

 いや、いいんだけどね、彼は娘が可愛いから抱っこしたいんだし、可愛いから愛でたいんだから、当然なんだけど。

 無邪気にそのちっちゃな手をひらひらさせて動かす娘の姿は、愛らしく、なんとも言えない可憐なものだったけれど、その手をぐっと掴んだ夫のデカイ掌には、ぎくりとする。

 握りつぶされやしないか。

 いやいやいや。そんなことはあるはずがない。娘はご機嫌だし、夫の顔は溶け崩れてしまいそうにニタニタと笑っている。

亮太りょうた、そろそろ、代わるわ・・・。」

 朱鳥は両手を差し出して娘を受け取ろうとするが、

「大丈夫大丈夫。ほーら、高い高いだぞぉーお!」

 などと言って思い切り空中に放り投げてキャッチする遊びなどと始めたりするので、もう、動悸が止まらない。やめてぇぇぇ、まだ首も座っていないのに!!

「そういうの、まだ早いからっ!!やめてっ!!怖い怖い!!」

 朱鳥の必死の形相と訴えが効いたのか、夫は渋々赤ん坊を母親の手に戻した。

「まちゃみちゃん、おおきくなったらパパと筋トレちまちょうねぇ。」

 嬉しそうに幼児語で娘に語りかける夫の姿は、ちょっと奇妙だった。というか、変だった。いや、ズバリ言って、ちょっと気持ち悪かったけれど、さすがに口には出さなかった。


 家での筋肉トレだけでは飽き足らず、ジムに通ってまでさらに筋肉増強に努める夫。仕事にも真面目に取り組み、家でも幼い娘に溢れんばかりの愛情を注ぐのだが、その筋トレへの姿勢もまた暑苦しい。

 朱鳥はリビングに転がる筋トレグッズに足を取られ怪我をした。夫が家具を使ってトレーニングをするものだからその怪力によって本棚を破壊された。あろうことか、まだお座りも満足に出来ない幼い娘を抱えたまま筋トレの際に体にかける負荷として扱って、背中から床に落っことし、大泣きさせた。

「筋トレ禁止!!鉄アレイやらダンベルやらも、全部片付けて!!」

「ええーっ!!そんな、無理だよ。俺から筋肉を取ったら何も残らないよ。」

 それはどうかと思う。夫の言葉を聞いて、すぐにそう思った。

 仮にも人に教えを説く教師の言うセリフではない。

 筋肉しか残らない教師って、一体なんなんだ。

 しかし、現在の論点はそこではなかった。このまま夫に筋トレを続けられては、幼い子の命に危険があり得る。そんなことは、母親として許すわけに行かない。

「この子になんかあったらどうするのよ!!こんなに泣かせて!!」

 さすがの夫も、可愛い娘の命が危険に晒されるとまで言われては、返す言葉がない。大きな背中を丸めてしゅん、と俯く姿は少しばかり可哀想に思えるけれど。

「で、でも・・・聖美もよろこん」

 確かに、何もわからない赤ん坊は、亮太の荒っぽいあやしにきゃっきゃと笑うこともあるけれど。

 今回ばかりは、危ないと思った。

「でないっ!!泣いてるって言ってるでしょうが!」

「今回は、たまたま」

「そのたまたまが、とんでもない大事故に発展したらどうするの!?

「じゃ、じゃ、じゃあ、触らないから。筋トレしてるときは聖美には触らない。傍でやるだけ。」

「赤ん坊はなんでも触ったり手を出したりするものよ!?目を離したスキに、あなたの下敷きになったらどう責任取るの!!」

「うっ・・・」

 亮太は仕方なく、自宅での筋肉トレーニングはしないと約束した。



 外でのジム通いに熱中するようになった亮太は、今度は帰宅が極端に遅くなった。なにせ、最近のジムは24時間営業なのだ。仕事が遅くなっても、あるいは逆に早出出勤前であっても開店していて、いつなんどきでもトレーニングできる。

 ジムにはシャワーもついているので、夫は家に帰ってくれば夕食を食べて寝るだけ。入浴すらしない。

 しかも、プロテインやチキンしか食べなくなってきているため、朱鳥の作った食事さえ残すようになった。

 娘と二人きりで過ごす日常は、ワンオペ育児。

 食事まで満足に一緒に取らなくなった夫に対して、不満が募っていく。

 けれども、筋肉トレーニングを禁じたのは自分なので、夫に文句を言う筋合いでもない。

 元々、育児や家事に積極的な男ではなかった。

 しかし、自宅にいさえすれば、事細かに朱鳥が指示をする。指示したことは、なんでもやってくれる夫だった。

 夫の亮太は、気が利くタイプでもないし、器用な方でもないけれど。

 頼んだことは大抵なんでもしてくれる、優しい男だった。

 ワンオペ育児に疲れ切った自分を鏡で見つめて、情けなく思う。

 はじめての育児に疲弊し、不安を夫と分かち合え無い辛さ。家に閉じこもって社会的に閉鎖された空間でたった一人、言葉も通じない赤ん坊とだけの世界は、思いの外堪える。

 リビングの床をハイハイする娘を眺めながら、朱鳥はため息をつく。

 思い返してみれば、筋肉トレーニングくらいは、多目に見てやるべきだった。

 娘の聖美のことだってあんなにも可愛がってくれていたのに、この頃は、幼い娘を怪我させることを恐れて寝顔しか見ない父親となっている。このままでは父親に懐かない子供になりかねない。

 要は、母親の朱鳥がもっと気をつけて見てやればよかったのだ。夫が筋トレしている時間くらいは、付きっきりで、危険がないようにずっと。夫に任せようなどと思うからいけなかった。

 最初の頃は、おっかなびっくりしながらも、おむつを替えたり、ミルクを上げたり、抱っこして寝かしつけなどもしてくれた。見ているこっちも不安だったけれど、不器用な夫なりに一生懸命やってくれていたのだ。

 悔しいけれど、ここは朱鳥が夫に頭を下げて然るべきかもしれない。

 朱鳥は何も悪いことをしていない。娘を守るために仕方なく、夫に筋肉トレーニングを自宅でするなと約束させたのだ。

 だから、筋肉トレーニングと称して自宅に余り寄り付かなくなった夫が悪いと言えばそうなのだが・・・。

 しかし、それは余りにも自分が狭量過ぎるだろう。

 その程度には、朱鳥も自分を知っているつもりなのだ。



 3日後、捨てたと思っていた筋トレグッズが、リビングに復活していた。捨てたと思っていたのに、ちゃっかり隠していたらしい。

「道具はちゃんと片付けるから。なぁ〜。まちゃみちゃん。そろそろ、パパと一緒にお風呂入ろうかぁ〜。」

 おすわりして、夫の腕立て伏せをじぃっと見つめている小さな娘にニタニタと話しかける亮太。

 家で筋肉トレーニングしてもいいから、もっと早く帰宅してくれないかと頭を下げた妻に、娘に見せるのと同じくらいのニタニタ加減で笑顔を見せたのだ。

「やっぱさ、他人に見せても楽しくねぇんだよね。俺が筋肉自慢したいのって、やっぱ朱鳥と聖美にだからさ。」

 その返事には、朱鳥も少しばかり呆れたけれど。

 亮太が筋トレを好きなのは、己を鍛えるためであることと同時に。

 鍛えた己を、妻と子供に自慢したい。それだけのことだったらしい。


まあ、よその女に自慢したいとか、モテたいとか、そういう理由じゃないのだから、良しとしよう。

 夫がトレーニング中は片時も目を離さないようにしている朱鳥は、安堵のため息をついた。

 今夜の夕食は、夫の希望を聞いてやろうと、思いながら。


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