【KAC2023】筋肉

だんぞう

筋肉

 一番星、公園の鐘、夕餉の支度の匂い。

 道端にたくさん居た日向はみな居なくなり、夜は黒猫のように背を伸ばす。

 駅から溢れる人の波は静かで足早で。

 足取りの重い僕だけが逆向きに流されているみたい。

 あいつに出遭ったのはそんなとき。

 いつも笑顔で挨拶してくれるコロッケ屋の角を曲がったところにあったダンボールの中に居た。

 どこが顔なのかはわからなかったけれど、寂しそうにしているってのはすぐにわかった。

 僕はあいつを抱え上げた。

「お前、一緒に来るか?」

 あいつは嬉しそうに震えた。


 誰かと歩く帰り道なんてどれだけぶりだろうか。

 あいつは時折、端っこをぴくぴくさせて甘えてくる。

 そんな他愛もないことが嬉しい。

 腕の中に温もりがあると、いつもは羨ましく見える団地の灯りも、その向こうの夜空の星のように落ち着いて眺めていられる。

 家に着くと、あいつは僕の肩へと乗っかった。

 僕は鍵を開けて暗い家の中へ。

 もちろん母さんはまだ帰っていない。

 というか今夜も遅いだろう。

 いつものようにテーブルの上にある夕飯代をポケットに詰め込んで、もう一度夜の中へ踏み出した。


 夜の温度、夜の匂い、夜の湿度。

 あいつは僕の肩がすっかり気に入ったみたいだった。

「お前、何食べるんだ?」

 あいつは答えなかった。

 そりゃそうか。人間の言葉なんてしゃべれないよな。

 誰かと一緒、そんないつもとは違う贅沢は、いくつもの我慢で厳重に封印していたはずの寂しさの箱を、いつの間にか開いていた。

 商店街が近づいてきて、雑踏の中に紛れる幾つもの会話が、僕にまで届く。

「なあ、なんかしゃべれよ」

 僕は会話に飢えていた。

 なのにあいつは相変わらずぴくぴくするだけ。

 ぴくぴく、ぴくぴく、ぴくぴく。

 あれ?

 いつもより多めにぴくぴくしてる?

 もしかして、僕を慰めようとしてくれているの?

 僕はあいつをぎゅっと抱きしめた。

 そうだよな。

 反応してくれるってことは、会話みたいなもんだよな。

 僕はあいつを優しく撫でた。

 相変わらずどこが顔なのかはわからなかったけれど、嬉しそうにしているのは伝わってきた。

 そんなささやかなことが、本当に癒やしだった。


「おう、坊主。可愛い筋肉だな」

 商店街まで戻ると、八百屋のおじさんが声をかけてきてくれた。

「うん。拾ったんだ。僕の友達」

「ちゃんとプロテインあげてるか?」

「ぷろていん?」

「あー、薬局か、あっちのスーパーなら売ってるかな」

 八百屋のおじさんは、様々なポージングを決めながら僕に筋肉のことを色々と教えてくれた。

 おまけにタダでブロッコリーまでくれた。

「ありがとう、八百屋のおじさん」

「いいってことよ!」

 僕は夕飯代でプロテインを買った。

 その夜は僕とあいつとでブロッコリーとプロテインとを分け合った。


 あいつはプロテインでどんどん大きくなっていった。

 ネットで種類を調べたら、『上腕二頭筋』だってこともわかった。

 なのに僕の肩が好きだった。

 変なやつだな。

 片側だけ盛り上がるのも変だからと僕は自分自身をも鍛え始めた。

 あいつに負けないように、あいつに釣り合うように、って。

 始めのうちは、あいつと見せつけ合ったりしながら楽しく鍛えていた。

 でも、気付いてしまった。

 鍛えている間は孤独を忘れられるって。

 僕はどんどんのめり込んでいった。

 そして。

 トレーニングに夢中になっているうちに、あいつはいなくなっていた。

 僕の机の上に、世界の名山の写真集を残したまま。

 チョモランマのページが開かれたまま。




 あれからあちこち探したけど、あいつは見つからなかった。

 探しながらもトレーニングは忘れなかった。

 でも、体にどんなに負荷をかけても、ぽっかりと空いた胸の中は満たされることがなかった。

 月日はどんどん過ぎていった。


 ある晩、風呂上がりに、唐突に見つけてしまった。

 こいつはどこかで見たことあるぞって。

 僕は自分の上腕二頭筋をさすってみた。

 ぴくぴくと動いた。

 ああそうか、お前はここに居たのかよ。

 今夜は子守唄代わりに、ずっと世界の名山に例えてやるぞ。

 こいつは嬉しそうにぴくぴくした。

 これからは、ずっと一緒にいような。




<終>

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