筋肉は裏切らない【KAC2023】-05
久浩香
第1話 筋肉は裏切らない
都市国家から始まり、周辺の小国を植民地の属州として支配していた共和政マッチョの終焉時、百戦錬磨の英雄であった永久独裁官が暗殺され、彼の遠戚にあたる養子が初代皇帝となって帝政へと移行したものの、元老院との対立は長く続き、名実ともにマッチョ帝国となったのは、第6代皇帝ナイスバルクの実子という以外、何の戦果も無い14歳の少年が、第7代皇帝キレテルとして即位したのが始まりといえるかもしれない。
初代皇帝が即位した後、元老院に対抗する為、神殿と民衆の支持を得るデモンストレーションとして行われたのは、カリスマ性のあった永久独裁官の足跡を真似て、当時の属州よりも更に遠く離れた小国を植民地化し、凱旋式を行う事であったのだが、世に"マッチョ軍団"と呼ばれる正規兵達は、マッチョ帝国の都市に市民権を持つ適齢以上の男に限られており、人気取りの為の幾度もの行軍の末、ナイスバルクが新米兵士となった第4代皇帝の時代には、戦死した兵士の家族への遺族年金が嵩み、属州に課した税は高くなり、至る所で叛乱が起きた。
その鎮圧を行うのにマッチョ軍団は出征し、戦死者を増やしたが、そんな中、恵まれた体躯を鍛え上げ、一騎当千の働きをしてみせたのがナイスバルクであった。
これまでの出征や鎮圧で打撃を受けたのは国庫だけではない。市民権を持つ国民の出生率も低下していた。どれほど美人で器量良しでも、嫁ぎ先がなければ嫁き遅れるしかなく、男というだけで引く手数多だった。
ナイスバルクも例外ではない。
彼は、下級貴族の息子であったが、第4代皇帝の姪のデカイヨを娶った。
そして、この頃に彼は、この負のスパイラルを終わらせる計画を秘密裡に開始した。
さて、出征や鎮圧に出向いたのは、マッチョ軍団だけでは無い。属州からの志願者も傭兵として参戦していた。
かといって、属州の出身者は、どれだけマッチョ帝国に尽くそうと、女奴隷の主人と交渉して妻に娶る権利を与えられるだけで、市民権獲得の資格を得られるのは、マッチョ市で生まれた彼女との息子からであった。
ナイズバルクは、手柄を上げた属州出身者本人にも、市民権獲得のチャンスを与えられれば、軍団の下級兵の確保が容易になり、市民同士の結婚しか認めない制度を変える事なく出生率が上がり、次代のマッチョ軍団の上級兵候補も誕生する、と考えていたのだ。
帝政の基盤を盤石にした第4代皇帝が崩御すると、ナイスバルクより10歳も年下のデカイヨの従姉弟が第5代皇帝に即位したが、地位を脅かされる心配のなかった彼は、怠惰な生活を送るようになり、義務として、マッチョ軍団の指揮官も勤めていた頃には、6つに割れていた腹筋はたるみ、治世5年で暗殺され、過去の実績があり国民からの人気も高かったナイスバルクが即位を果たしたのは、45歳の時だった。
トビソーという、属州出身の奴隷がいた。
彼は闘技場の剣闘士で、後7回勝利を飾れば解放奴隷となれるという時に、ナイスバルク皇帝が、僅か2年の統治で病没し、デカイヨ皇太后を摂政とするキレテル皇帝が即位し、ナイスバルク皇帝の悲願であった『属州民の市民権獲得に関する法律』を施行するという話を、仲間から耳にした。
「それは無いだろ。『余所者はすぐに裏切るから』なんつって難癖つけて、死んでも市民権は発行しなかった宮殿が、なんでまた、そんな掌を返してくるんだ?」
「そんなん知るか。だけど…まぁ、新しい皇帝様曰く、『筋肉は裏切らないから』とかなんとか、言ってたらしいぜ」
「は? なんだそりゃ。ムキムキな男なら帝国民になれるってか? 馬鹿馬鹿しい。そんな美味い話があるか」
トビソーは、半ば呆れた様に吐き捨てて、(だが、それが本当なら…)と強く頭の中で呟きながら、彼の出番を急かすように降りてくる人力エレベーターの方を睨んだ。
彼は天涯孤独であった。
父親は強制的に傭兵部隊に入れられて戦死した。
志願兵扱いであったので、もちろん、保証などあるわけがない。
家長となった兄と二人、母親の分の人頭税と、食べて行くのに必要なお金を、どうにかこうにか稼いでいたものの、ある日、突然、物価が高騰した。ギリギリだった生活は、更に追い込まれ、打開策を考えているうちに、母親が倒れた。
トビソーとその兄に食べさせる為に、自分は殆ど、食べていなかったせいだ。薬など買えるわけもなく、それまでの苦労が祟り、間もなく、息を引き取った。
彼の兄は、いつの間にか、反乱軍の一員に名を連ねており、運が良いのか悪いのか、ナイスバルクの指揮するマッチョ軍団に鎮圧され、大半の者は生け捕りにされたものの、彼の兄は、無名の兵士と相打ちとなって、死んだ。
叛乱に加担していなかったトビソーは、強制労働こそ免れたものの、犯罪者の家族として奴隷となった。
皮肉にも、奴隷になってからの方が、腹一杯、飯が食えた。
闘技場に集る市民達の歓声を受け、トビソーは腹の中では憤りつつ、愛想よくそれに応えた。
トビソーの主人は、第3代皇帝の頃には既に軍団長を務めており、普通ならば、とっくに退役している年齢なのだが、人材不足と、衰え知らずの隆々たる筋肉のせいもあり、未だ現役であった。
それは、キレテルの戴冠式が宮殿の奥で行われてから、1ヶ月程過ぎた頃だった。
「おお。来たか」
寝椅子に横たわって骨付き肉を頬張っていた主人は、食堂に入ってきたトビソーを見止めると、機嫌良さげに骨を床に捨ててから、身体を起こし、
「今から、宮殿に行くぞ」
と、着崩れたチュニックを直しながら立ち上がった。
主人が言うには、今日、行われている市民権審査会の受験者の一人が怪我を負い、まだ奴隷身分ではあるものの、先週のライオンデスマッチにおけるトビソーの肉体美なら、充分、審査を受ける資格がある、と、通達が届いたのだそうだ。
「私が…ですか?」
困惑し、思わず問いかけるトビソーに、主人は機嫌を損ねる事なく、女奴隷にトガと外套を着させて貰いながら、
「そうだ。幸運だったな。どうせ残り後1勝…来月のには申請資格が整う予定だったんだ。大した誤差じゃない。
と、豪快に笑いながら答える主人は、属州出身者の息子に市民権を出すのにも反対するぐらい、ゴリゴリのマッチョ人至上主義者だった。
午後2時頃に宮殿に到着したトビソーは、他に集められたがっしりとした体格の解放奴隷や自由人達と一緒に、陰部を隠す布以外は、全て剥ぎ取られ、身体検査を受けた。
「流石だな」
彼の筋肉のつき方を審査したのは、かつて、彼に剣術を教え、共に練習していた元先輩剣闘士だった、解放奴隷のカタメロンだった。
彼もまた、目の前でマッチョ軍団に父親を殺され、母と姉妹が凌辱される中、奴隷として都市に送られてきた男だった。
彼は、
『解放奴隷となった暁には、
と、密かにクーデターの計画を練っていた男だった筈だ。それが、
「お前なら、即戦力、間違いなしだ。一緒に身の程知らずな蛮族共に鉄槌を下せる日が楽しみだ」
などとキラキラと目を輝かせ、何かの顔料を筆でトビソーの乳首に塗り、『市民権獲得申請書』と『マッチョ軍団入団願書』と『忠誠誓約書』の3枚の羊皮紙を押し付けた。
「この後、大広間で説明会を兼ねた親睦会が行われるから、案内が来るまで廊下で待ってろな」
彼は、そう言い残すと、羊皮紙を持って上官の元へ向かった。
ふともよおした彼は中庭に向かって、茂みに隠れて用を足し、それから、なんともいえぬモヤモヤに、首を捻った。
(なんだ、これ?)
先ず、市民権の申請が簡単すぎた。
親睦会にトビソーが出席できるという事は、その時に彼は市民権を得ていて、マッチョ軍団の一員になっているという事だった。
そして、こんなに簡単に市民になれる事を知っている筈の主人が、妨害もせず、トビソーを宮殿に連れて来る事も異常だった。
また、彼の父と違い、本当に志願して傭兵となっている筈のカタメロンの目の輝きは、演技だとしたら迫真に迫りすぎる程に、帝国への忠誠心が感じられた。
最後に、乳首に塗られた顔料。
マッチョ文字を書けない属州民が、掌や指先に顔料を塗って、契約書に拇印を押す事は珍しくは無いが、それを乳首でするのは、ささいな事ではあったが、意味が解らなかった。
思いつく違和感を数えた後、
「なんだ、これ」
と、今度は、口をついて声に出した。
来た道を戻っていたつもりが、それが真逆の方向で、悪い事にそこが皇帝の私的空間であった事に気づいたのは、ガゼボの入口の傍に植えられた低木に蹴躓いて、はたと我に返った時、袖口や裾を金で縁取った踵丈のチュニックを着て、煌びやかな装飾品を身に着けた妖艶な美女と、禁色のトガを巻いた大人しそうな青年が連れ立って、向かって来ていたからだ。
二人は、まるで恋人同士のように、じゃれ合い、笑い合っていたので、互いしか目に映っていないように見えた。
「マズい」
その二人が、デカイヨ皇太后とキレテル皇帝だと、すぐに気が付いたわけではなかったが、トビソーは、本能的に、ガゼボの壁と壁の横に植わった中木の幹の間に隠れた。トビソーから、その姿は見えなかったが、ガゼボ内のベンチに腰かけたデカイヨは、キレテルに膝枕をしていた。
他愛無い話が続き、トビソーが、どうやってここから離れるべきかを思案していた時、
「…そういえば母上。どうして、父も殺したんですか?」
というキレテルの素朴な疑問が、トビソーの耳に届いた。
「あら。なあに?」
「いえ。どうせなら僕が、もう少し大人になってから…と、思ったものですから。それに、母上は、父上を心から愛しておられたでしょう?」
キレテルは、布越しのデカイヨの腹に顔を埋めた。
「そうねぇ。あの人…ナイスバルクは、最高に素敵なパートナーだったわ。見た目だけでなく、彼の持っていた野心も、私への愛情も、情熱も、どれをとっても最高級で、とても美味しかったわ」
キレテルの髪を梳きながら、ナイスバルクを追憶するデカイヨは、うっとりと目を細めた。
それから、少し沈んだ声で、
「途中で怖気づかなければ、殺さずにすんだのに…本当に惜しかったわ」
と、残念がった。
「いきなり、人道がどうとか言い出すんですもの。私の見込み違いだったわ」
「それなら、父上も"脳筋"にしてしまえば良かったんじゃないですか? 父上が生きていれば、こんなに急いで"脳筋"を増やす必要はなかったんじゃ…」
キレテルは、デカイヨの腹から顔を外して上を向き、自分を見下ろす彼女の目を見つめた。
「…あっ…ごめんなさい。その…責めてるんじゃなくて…その…あれを造るのに、僕の…がいるでしょ。気持ちいいんですけど、一日に何度もするのは疲れるし、瓶に向かって出すのに、母上の口が僕から外されちゃうのが寂しい…っていうか…わっ」
デカイヨは、キレテルの頭を抱きしめた。
「私こそ、ごめんなさいね。無理をさせてるわよね。…でも、ナイスバルクを”脳筋”にするのは、無理なのよ。だって、あの”脳を筋肉にする顔料”は、ナイスバルクの精液…細胞から造り、私と彼、それから彼の遺伝子を持つ男の命令だけに絶対服従するように作ってあるんですもの。思考を失った彼が、実験に使った奴隷達と一緒に、どんな馬鹿をしでかすか、解らなかったわ」
「…母上。苦し…」
息が出来ないとキレテルは藻掻いた。デカイヨは、はっとしてキレテルを離し、「あら、やだ。ごめんなさい」と謝って、横に座らせた。
「ああ。早く、もっと大人になりたいな。父上の息子だもの。大人になったら、きっと絶倫になる。そしたら、何度、射精したって、疲れないよね。そしたら、あの甕の中身が増えて、今みたいに元から筋肉隆々な男達に限らなくても、少しでも筋肉があれば、それが脳を動かし、誰も僕に逆らえなくなる。早く、そんな世界を見たいよ。思考は僕を裏切っても、考える事をやめた筋肉は僕を裏切らないもんね」
そんな野望を語るキレテルを、デカイヨは温かな眼差しで見つめた。
「さぁ。キレテル。そろそろ大広間に向かいましょう。今日、薬を塗った者達の脳に筋肉が回り、貴方の命令を待っているわ。そこにいるお前。お前もついていらっしゃい」
トビソーは、
「かしこまりました」
と、木の影から出てきて、土下座した。
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