人面筋【KAC2023】

近藤銀竹

人面筋

   三月十日


 二、三日前から、左の二の腕が痛い。

ひと月サボってしまったいたジム通いを再開した時期と重なるが、筋肉痛になるほどは追い込んでないし、たかがひと月のブランクで痛めるはずはない。



   三月十一日


 痛む場所が少し腫れてきた。寝返りを打って体重がかかると疼くような痛みを感じる。鏡を見ると楕円形に腫れていて、中央部が特に盛り上がっている。整形外科に行って診てもらったが、「ただの筋肉痛でしょう」と言われた。ひふかにも行ったが、異常はないとのことだ。



   三月十二日


 痛みは変わらないが腫れが酷い。患部を鏡で見ると、出っぱっているところと引っ込んでいるところがあって、まるで人間の顔のようだ。気味が悪い。



   三月十三日


 目の凹み、口の凹みがある。これはもう、顔としか言いようがない。いったいなにがどうなっているんだ?


 こんな気味悪い腫れ物があるんじゃあ、これからの半袖の季節、外も歩けない。


 ……削るか。


 私は引き出しからカッターナイフを取り出すと、腫れ物の鼻にあたる場所に当てる。


 急に口の部分が開き、刃先に噛み付いた!


 ……なんてことは当然ない。


 が、


「やめろー!」


 叫んだ。

 腫れ物の口が。


 私は驚いてカッターナイフを取り落とした。


「あ……あ……」


 言葉を失う、ってのはこういうことか。


 そんな私の狼狽などお構いなしに、腫れ物は言葉を続ける。


「俺はお前の筋肉だ。切りつけたとしても御前の筋肉が傷つくだけだぞ」

「じ……人面瘡……?」

「傷じゃあない。筋肉だ。だから、言わば『人面筋じんめんきん』とでも言うべきかな」


 二の腕が自慢げに高笑いする。

 あー。

 なんだろ。

 幻聴かな。


 俺は引き出しから救急箱を取り出し、そこからさらに包帯を出すと、左の二の腕にきつく巻き始めた。


「なにをす……むぐぅ」


 人面筋の抗議を無視して、包帯を巻き続ける。口の辺りは特に入念に。

 そして端はきつく縛る。血の巡りが悪くなるから余り良くないのだろうかこの際仕方がない。


 うん、とりあえず走ろう。

 頭を空っぽにして。

 運動靴を履くと、夜の街へと駆け出した。


 ……

 …………

 ふう。

 よく走った。

 二十キロは走ったな。

 すっきりした。じゃあ、寝る……


「凄いな。二時間切ってるじゃん」

「!」


 恐る恐る、二の腕を見る。

 包帯が解けた下には、未だ人面筋が居座っていた。


「本当に……いるのか」

「そうさ。お前の二の腕に、確かにいる」


 自慢じゃないが、私の二の腕は結構綺麗に筋肉が付いている。そこにヒトの顔のような喋る筋肉。

 筋肉は、ニヤリと笑った。


「カッターで削ぎ落とそうとしたって、無駄だからな。よろしく頼むぜ、相棒?」



   三月十四日


 ホワイトデー。

 ようやく付き合えた楼蘭ろうらちゃんとのデートを、体調不良を口実にキャンセルする。

 人面筋のせいだ。


「まあまあ。そう落ち込むかよ」

「誰のせいだよ」

「俺、だな」


 人面筋が答える。


「ま、気を取り直して、走りに行こうぜ」


 奴は随分呑気だ。

 半ば自棄になり、私は家を飛び出す。


 ……

 …………

 また二十キロも走ってしまった。


「また二時間切りか。いいペースだな」


 人面筋は呑気にそんなことを言う。


「なんで、私なんだ……」


 自宅のアプローチに仰向けに倒れ込み、独りごちる。


「分からねえ」


 左の方から答えが返ってきた。


「気付いたら、ここにいたんだ」

「どうしたら、ここからいなくなる?」

「それも分からねえ。この筋肉の居心地がいいことは確かなんだが……」


 人面筋の声色は、のんびりくつろいでいるかのようだ。だが、僅かに苦悩を孕んでいた。


 それからというもの、私は人面筋がいる恐怖と不安を紛らわすために、しばしば夜の街を走った。それで人面筋が消えるわけではなかったが、走っている間だけは頭を空っぽにすることができた。

 だが、当の人面筋は、私の二の腕がよほど気に入ったのか、消えることはなかった。


「いいペースだ」

「その調子だ」


 結局人面筋は居座り続けた。



   五月二十六日


 私は今、多摩川横から離れて、某陸上競技場へと走っている。トラックを回ってゴールだ。人面筋を隠すために上半身は長袖。季節柄、さすがに暑い。汗も鬱陶しい。


 なぜだ?

 なぜ私は、趣味のトレーニングがエスカレートして、マラソンまでしているんだ?

 疑問を何度も反芻しながら、ゴール。


「お疲れ様でした。三時間切り……素晴らしい記録です」

「あ、ありがとうございます?」


 左腕に違和感を覚え、競技場の陰に駆け込む。

 左腕の袖をまくり上げる。


 人面筋は消えかけていた。


「消えるのか」

「おう」

「なんで、そんなに急に……?」

「分からねえ。多分……」

「多分……?」


 人面筋は清々しく笑った。


「多分、お前とマラソンを走りきったからだ」


 二の腕の凹凸は徐々に消え、もう顔を判別するのも難しい。


「人面筋……」

「短い間だったけど、お前と走れて楽しかったぜ」


 その言葉を最後に、人面筋は跡形もなく消え去った。

 僅かに寂しい気もするが、これでようやく、言葉どおり憑き物が落ちたということだ。


 人面筋はどうなったのだろうか。

 未練を満たして、消滅したのか。

 別な誰かと走っているのか。


 今も誰かの筋肉で、笑っているのかも知れない。

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