筋肉を巡って

低田出なお

筋肉を巡って

 その水色の粉を塗り込むと、上腕二頭筋はたちまち膨れあがって赤くなった。そのまま5分ほど待ってから洗い流すと、先ほどまでの熱を持った赤みは嘘のように引いていく。しかし、筋肉は膨れたままだった。

「凄いですね…」

「でしょう? 効能としては3日ほど。大会中は問題なく維持できます」

 博士は誇らしげに胸を張る。その上半身は試験の繰り返しで大きく肥大し、強靭な肉体を実現していた。反面、その表情には睡眠不足所以の疲労感が見て取れた。

 トレーナーは膨らんだ自身の腕を撫でながらしみじみと言った。

「この筋肥大なら、問題はありませんね」

「本当ですか! いやー長かった! 本当に!」

「後はもっとカットが出るように調整してもらえれば完璧です」

「……はい?」

 博士の表情が怪訝なものになる。トレーナーはその反応も意に介さず、笑みを浮かべて語りかけた。

「全体的なビジュアルの話ですよ。もっとこう、皮膚を突き破らんとする筋肉の繊維が分かるような、そんな迫力のあるものにしてほしいんですよね。今はシンプルに筋肉が大きくなっているだけですから」

「ちょっ、ちょっと待ってください」

「待ちませんよ、うちの会員の為なんですからね。それ以外にも、もっと筋肉同士の形がわかるような…」

 トレーナーの口から語られた要望は、時間にして30分。話が終わった時には、もう博士は逃げ出したくなっていた。

 博士は懇願するように言った。

「あのですね、あなた方の要望はもう十分叶えたではありませんか。後から後から注文されてしまっては、たまったものではないですよ」

「ですが約束したでしょう。こちらの要望には全て答えると」

「しかし…」

「まあ無理でしたら構いませんよ、そうなれば我々はあなたの論文の捏造を公にするだけですからね」

「そ、それは」

「じゃあどうするんです」

 博士は悔しそうにトレーナーを睨みつける。が、数秒も立たないうちに目を伏せ、絞り出すように答えた。

「やらせて、頂きます」

「そうですか、ではよろしくお願いします」

 トレーナーはにこやかに笑うと、鞄を手に立ち上がる。そして机の試作品の瓶を手に取ると、背中に博士の視線を受けながら研究所を後にした。


****


 研究所からしばらく歩いていると、トレーナーのポケットから着信音が響いた。その音にびくりと反応したトレーナーは、恐る恐るスマートフォンを取り出す。そこには予想通りの名前が表示されていた。

 彼は苦い顔で画面をタッチした。

「もしもし」

「薬の出来はどうだ?」

 電話の主はいきなり本題をぶつけた。トレーナーの背中に冷や汗が流れる。

「それはもう、順調ですよ。皆様の満足できるものを提供できるかと思います」

「前にも同じこと言われたな」

「い、いえいえそんなことは」

「お前のジムにいくら会費払っているか、分かっているか?」

「もちろん、もちろんですとも! 実は今、新しい試作品をご用意致しまして、よろしければお伺いしようかと」

「ふん、まあいい、なら今すぐ持ってこい」

「はい! すぐに向かわせて頂きます!」

 トレーナーは反射で電話の向こうの男に頭を下げる。それと連動するように、通話は切られた。


****


 通話を終えた会員の男はスマートフォンを傍のベッドへ放り投げた。そして座っていた椅子に再び身を預けた。

 テーブルのパソコンを操作していると、ベッドから着信音が鳴った。男はベッドに目をやり、溜息を吐いて立ち上がる。そしてスマートフォンを確認すると、慌てて応答した。

「もしもし」

「やあ久しぶり、元気してる?」

「もちろんすよ! 元気過ぎて困ってるくらいすね!」

「そっか、じゃあ2週間後の大会出れるね」

「え」

 電話の主はいきなり本題をぶつけた。男の背中に冷や汗が流れる。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよオーナー。いくら何でもいきなりは用意できないっすよ。今はまだ減量途中ですし…」

「それを仕上げるのが、君たち裏のボディビルダーの仕事じゃないの?」

「それはそうっすけど…」

 渋る男に、電話の主は声色を低くした。

「お前さ、もしかして自分の置かれた状況、分かってないの? それとも俺を舐めてんの?」

「いや! いやいや! そんなことはないです!」

「じゃあやれよ、俺が出ろって言ってんだから」

「わ、分かりました。出ます」

「それでいいんだよ」

 電話の向こうのオーナーは鼻を鳴らすと、詳細はまた伝えるわー、と軽く言って通話を切った。ツーツーと音を立てるそれを、男は苛立ちのままベッドへ投げつけた。


****


 通話を終えたオーナーは、そのまま自身の部下の指示を出すため、連絡先の画面をスクロールした。目当ての名前を見つけ、タッチする。

 しかしその瞬間、画面はコール音ではなく着信音を知らせた。表示された名前を見て、思わず顔を顰める。ガシガシと頭を掻いてから応答した。

「もしもし博士、今月の家賃と返済の件ですよね?」

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筋肉を巡って 低田出なお @KiyositaRoretu

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