店に入ると、他のお客さんの姿が見えないので貸し切りであることが直ちにわかった。そこまで不人気ではないはずだ。

 店の奥のテーブルには咲奈が一人座っていて、遅れてしまったのではと思う。


「別に今来たばっかりだから、急がなくてもいいのに」


 そう言って咲奈は分厚い英単語帳を捲った。

 学校で配布される基礎的なそれとはまた違うもの。

 やはり、大学受験を意識しているのだろう。


「柚さんから聞いた?」

「……うん」


 僕は咲奈の向かいに座った。咲奈の発言からして昨日の話らしかった。心のどこかでわかってはいたけれど、少し気持ちが沈んだ。


「もうそんなのやってるんだ……」

「……やれって言われないの、親に」

「言われないけど……。国立の芸大だから、そこまで単語力無くても問題ないし」

「そう、だったね。一緒の大学に行くっていう約束守れなくてごめんなさい」


 仕方のないことなのだと、僕は思った。なんでも、僕の思い通りに行くことは無い。


「ううん。それより、なんでここに呼んだか、教えてもらっていい?」


 咲奈が僕のことを呼び出すなんて、余りにも珍しい。それ相応の理由があるはずだ。


「君のことも言ったんだ。東京の大学なんていったら、もう会えなくなるかもしれないって」


 確かに、ここから東京ははるかに遠い。咲奈が一人暮らしするならば、最低でも四年間、帰って来ることは無い。


「でも、お母さんは私のことを一番に考えてくれて、期待してくれてる。だから私は、お母さんの為に、自分の最善を尽くしたいと思うんだ。それは、わかって欲しい。決してこの町から離れたいとかじゃない」


 母親のことを裏切ることはできない。切実で健気な女の子の言うそれだった。


「うん。それを承知で此処に来たから、わかってるよ」

「ありがとう」


 ところで、話とは何のことなのだろうか。まさか、これを言うためだけに呼んだわけではないだろうし。


「本題なんだけど」


 ここからか。今のは前振りであって、次から始まる一言は僕にとって良いニュースであっても悪いニュースであっても、重大なものであることは間違いない。


「私に、別れるときに泣く方法を教えてほしい」

「えっ……」


 咲奈は、泣けなかった。あの雛罌粟の咲く花畑で。

 恐らく、今は刈り取られている最中だろう。


「泣く方法……。僕も、あんまりわかんないよ。寂しくなるなって思ったら、自然と涙が出るような」


 咲奈は多分、泣かないといけないとき。泣きたいときに涙が止まってしまうような、そんな体質なのだろう。

 親や友達の前で強い人を演じている余り、そうなってしまった。そんなところだろうか。


「別に、泣かなくてもいいと思うよ。自分が悲しいと思えれば、それで」

「ダメなの」

「えっ?」


 食い気味に言われたそれに、僕は少しばかり衝撃する。


「どうして?」

「卒業式で君や柚さんと別れるとき、泣けないなんて嫌だ。私にとって君は大切な人だから。だから、泣きたいの。絶対」


 それは本当にありがたい言葉だった。僕や柚が大切に思われているという証拠他ならないだろう。

 だけど、別れ際に泣くということ自体が、僕にとってそこまで難しいことじゃないし、まず困難とか簡単とかなく、自然に泣いてしまうものだ。


「うーん……」


 自分が自然に、無意識にやっていることについて教えろと言われるとは思わず、すこしまごつきながら考える。


「別れる人やものとの想い出とか、やればよかったと思える後悔とかを思い出してみれば、いいんじゃないかな。多分、僕もそれが頭によぎって涙が止まらないんだと思うから」

「いや……。ポピーと別れる時も、そういうこと考えたよ。でも、無理だった。どうやっても、泣けなかった」


 咲奈は強いし、泣いてしまったところも見たことない。

 だからこそ、なのだろう。泣けないという信念を折り曲げることができず、同時にプライドがそれを許さない。

 きっと僕の反対で、泣きたいと思っていても、無意識が涙を止めてしまう。そういうことなのだろう。


「じゃあ、決めた」


 僕は刹那的な思案の結果、決断した。

 それはきっと、覚悟だろう。

 咲奈に想いを伝えるというか、咲奈に振り向いてもらうというか。


「なに?」

「僕、咲奈を泣かせるよ」

「えっ」


 客観的に聞いたら物騒他ならないだろう。女の子に対して、男が泣かせると言っているのだから。


「そ、それって……」

「あ、あの、そういう泣かせるじゃなくて……。僕が咲奈に何かして、僕と別れるのが本当に悲しいって思えるように……っていうことで」

「うん。わかってるよ」


 僕が泣かせると言った。その約束を果たすためにも、やはりあの絵を卒業式まで完璧に仕上げねばならない。


「根本的な解決にはならないと思うけど……。でも、絶対に泣かせてみせるから」

「ありがとう。頼りにしてるよ」


 僕は目の前に置かれたコーヒーを飲み干し、ハンバーガーを頬張って、店を出た。

 別れ際に咲奈は、笑顔だが切ないような顔をして、僕を見送った。



 卒業式当日は雨だった。咲き誇っていたはずの桜は大粒で急激な雨に打たれていた。最悪の天候。外でみんなと写真なんて撮れるはずもない。

 咲奈は無事というべきか、東京の国立大学に合格した。共通テスト当日の咲奈は見ていないけど、張り切っていたことは間違いない。

 合格発表を見た後のスマートフォンは、いつもより少しだけ通知が盛り上がっていた。まるで、これも合格を祝うかのように。

 僕も目指していた国立の芸大に合格し、今春から通うことになる。


「お母さんにすごいって言われてよかったね」

「……」


 本来なら仲睦まじいはずなのに、これほどもなく空気が悪い。


「咲奈ちゃん、もう引っ越しの準備してるって」


 柚は哀しそうに言った。


「引き留めなくてごめん」

「……」

「でも、これが僕の本望だし」

 僕は玄関でローファーを履きながらこう言った。

「咲奈の為にもなるから」

 玄関を開けた。雨音が騒がしくて、思わず耳を塞ぎたくなる。まるで、梅雨の一日みたいに五月蠅い。

「おはよう」


 まるで外の雨が無くなってしまったかのように、その聞きなれてしまった華奢な声が周囲に響き渡る。


「咲奈……?」

「咲奈……ちゃん……」


 いつもとはまた違う髪型だ。黒髪のロングではなく、長めのポニーテール。服はいつもの真っ黒なセーラー服に青いリボンを織り交ぜたものなのに、何故か雰囲気が違っていて。


「こうやって会えるのも、もうしばらくないのかなって思って。だから、つまらないものだけど、これを……」


 近くの大型百貨店の紙袋を咲奈は僕に手渡した。中身は箱のようなものがふたつ入っている。

 これはあとで開封すると言って、柚に渡し玄関のドアを閉めた。


「遠いのに、ありがとう」

「大丈夫だよ」


 今お返しとして、絵を渡そうと、そう思った。

 だけど、これは別れ際に渡すのが一番だ。そこで自分の想いを伝えて、泣かせる。それが、僕にできることだから。


「この急な山道も、桜並木ですごくきれい」


 その発言はきっと、吐血してしまうほど気まずくなったこの空気を紛らわすため放った苦し紛れのそれだろう。

 だって今は雨が降っている。本当はそれのように落ちている桜も、地面にたたきつけられる。

 こんなに咲奈との距離を遠ざけるビニール傘が憎らしい。もっと近づきたいのに。最後の瞬間なんだから。


「別に、もう一生会えないとかではないから。これまでよりずっと、難しくなるかもしれないけど」


 僕だってわかっている。別に一生会えないわけではない。だけど、もうチャンスをつかめない感じがして、惜しい。


「……新校舎の工事、進んできたね」


 傘も新校舎も、憎らしかった。

 僕らの大切なものを、簡単に踏み荒らして。何もなかったかのように居座っているのだから。


「この学校も生まれ変わるのかな」

「将来来るのが楽しみだよ。ほんとに」


 僕の渾身の皮肉だった。

 卒業して嬉しいとか、クラスメイトと別れるのが悲しいとか、そういう気持ちをこねくり回して搔い摘んで、憎悪という感情が湧き上がってくる。

 雨の喧騒が響く母校に足を踏み入れ、卒業証書授与式の看板を一瞥し教室へ速やかに進んだ。



 クラスメイトとの最後の時間も、卒業証書授与式も、すべてが僕の心に残らず終わった。

 だけど、その後、体育館での自由時間がカギだろうと確信した。

 雨音響くそこに、みんなワイワイと思い出を語り合ったり、記念写真を撮りあったりしていた。

 普段はスマートフォン禁止の学校だけれど、教師は黙認しているどころか、一緒に映り込んだり、大学生になる生徒たちとメッセージアプリのIDを交換していた。


「ずっとずっと、好きでしたッ!」


 友達と写真を撮っていると、雨音なんかよりずっと響く、そんな女の子の声が聞こえてきた。

 どうやら、みんなの前で好きな人に告白しているようだ。前々から噂になっていた二人。こんなところで結ばれるのも悪くない。

 周囲の女の子はキャッキャ言って盛り上がっている。相手の男も、満更でもなさそうな顔をして嬉しそうだ。

 咲奈じゃなくて、良かった。


「付き合って、くださいッ!」


 女の子は頭を下げてそう言った。

 みんなも、盛り上がりを一度止めて、静かに見守っている。

 成功してほしい。

 誰もがそう思っていた。


「こんな俺で、いいなら」


 女の子の手を握り、男はそう言った。どちらも顔を赤らめ、少しだけ目を合わせる。

 カップル誕生の瞬間。みんなにとって最高の瞬間。

 拍手が巻き起こった。



「あの子たち、よかったよね」


 僕が体育館のステージ上。誰からも見られず静かな場所に来てと、先ほど教室で言った。咲奈は約束通り、来てくれた。

 短い階段上に座り込む咲奈はどこか哀しそうだ。


「私、みんなに寂しいって言われた」

「それは、咲奈がそれほど大切だったってことで……」

「違う。嬉しかった。自分がそれほどクラスにいなくてはならない存在だって、友達が証明してくれたから」


 じゃあ、どうしてそんな哀しい顔をするんだ。涙も流さずに、白と黒で描かれた絵のように暗くて、どこか迷いのある表情。


「でも、でもね」

「うん……」

「あの子の告白が始まった途端だった」

「……」

「だって……。でも、きっと見たかったんだもんね。そうだよね。あんなイベント、興味がないわけないよね」


 その拳は強く握られていた。


「なんで……私を見てくれないの……」


 咲奈は足を延ばし、俯いた。いつもクールで、真面目な咲奈のこんな姿を見るのは二回目だ。

 パサ、という紙の音と共に、咲奈の眼前に現れたのはスケッチブックから一ページだけ切り離したそれ。


「これは……」


 咲奈はそれを拾って、よく凝視した。

 黄色や赤などが混じった、美しい花畑が一番際立っている。

 すべてその色だけど、一本一本細かく色が違って、やっぱり何カ月も手を込んで色を塗った甲斐があった。


「あの時の……」


 花畑の色は、二年以上ずっと見ていたから、その鮮明な記憶を限りに色を付けた。咲奈の色も、白と黒と制服のリボンの水色だけど、きっと本当はこんなに色がある。


「遅くなって、本当にごめん。自分史上最高傑作で、ずっとため込んでた。咲奈に今、渡すために」

「ありが、とう……」


 それが入っていたクリアファイルは中が見えないようになっていて、僕の厳重さがわかるだろう。


「立って、咲奈」


 すっかり絵に見入ってしまった咲奈の手を掴んで、そう言った。

 今日で、最後なんだ。今言わないで、いつ言うんだ。


「咲奈、」


 僕の眼と向き合ったその瞳は、少し水分を含んでいるようだった。それは紛れもなく、泪。

 それに、すこしまごつくけど、僕は一歩踏み出した。


「えっ」


 困惑するのも当たり前で、僕は慣れない手つきで咲奈の可愛らしい身体を強く抱きしめた。


「好きだよ」


 僕がずっと、咲奈に対して思っていたことだ。ずっと、ずっと。

 でも言えなかった。心の底に隠し通して。すぐに言いたいと、何度も想ったし、何度も繰り返した。

 それを、今言えたのだ。

 咲奈は僕の腕の中で震えている。細かくだけど、確実に。


「……うっ……。あぁ……」


 耳元で聞こえるその静かな嗚咽と共に、咲奈の顎が乗る右肩に、少しだけ冷たいものが当たった気がした。

 厚い学ランでもわかる。

 きっとそれは、僕の体にずっとずっと浸透していって、奥へ奥へと進んでいくものだろう。

 僕に色を付けるように、その絵の具は体を侵した。


 白黒の恋愛は、今終わりを告げた。

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泣きたい君の、そこここに咲く。 佐倉花梨 @Karin_1109

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