泣きたい君の、そこここに咲く。
佐倉花梨
上
白とブルーが入り混じった夏服のセーラー服が強い風に吹かれて靡く。足元に咲いている
「あっ」
花畑に立てたスタンドから、ボロボロになったスケッチブックがこぼれる様に落ちた。そこには、靡くスカートと雛罌粟の多くがパラパラと描かれている。
鉛筆で描かれた線一本一本が生きているかのように踊っている。
此処は色とりどりなお花畑のくせに、そこには白と黒の色しかなくて。でも、確実に色が生まれている。赤や黄色、緑に白。
「どう? できた?」
このスケッチブックに描かれた女の子。僕から見たら驚くほどに下手なそれで、最悪だった。
―――才能なんてない。
雨上がりの空を見上げる女の子を、画家の母親に見せてからそう言われた。
個人的に大作だと思った。コンクールに出したら最優秀賞確定だとか、そんなことまで思ってた。
僕が覚えたのは、怨恨だった。
「できた……と思う」
雛罌粟のカーペットに手を伸ばし、スケッチブックを拾い上げる。
「……素敵」
「本当?」
「うん。こことか、服の質感がしっかり描けてて、動きがある感じがする。お花もかわいい。黒い鉛筆なのに、まるで色があるみたい」
こうやって褒めてくれるのは彼女……。
「こんな下手な絵なのに」
「下手じゃないよ。少なくとも、私は好きだよ」
「……ありがとう。嬉しいよ」
また強い風が吹いている。
七月の美しくも儚い夕焼けを背にして、咲奈は笑った。
高校二年生も終わって、もう受験生なんだから、夏休みの勉強を怠らないように。そんな教師の言葉を腐るほど聞いて、飽きてしまった学校を忘れたかった。
それに、僕が頑張って引っ張ってきた美術部の存続の夢は散り、僕が卒業すると同時に廃部になると生徒会との話し合いで決まったのだ。
「咲奈、ありがとう。色は家で塗るから、もう帰ろうか」
「うん。そうだね」
学校の裏庭に雛罌粟の美しい花畑があるというのは、絵描きとして至高だ。僕みたいにモデルを立てて花畑を背景に青春を描くのも良し。雛罌粟のみの風景画を描くのも良しという、最高のアトリエだ。
「この花畑、なくなっちゃうなんて。信じられないね。もう私とポピーの絵、描いてもらえないなんて」
「うん……ほんとに、残念」
本校舎の老朽化が進み、生徒数の増加による教室の不足が後を絶たないこの学校は、ついにそのトレードマークたる雛罌粟の畑を潰し、新校舎を建てることを決定した。
夏休みのうちに全てが無くなるらしい。
僕や咲奈はこの美しい景観を生で見たくてこの学校に来たのに。
「ん。咲奈、どうしたの?」
僕が後ろを振り向くと、咲奈は一輪のそれを撫でていた。
「……この子も死んじゃうんだ、って。死にたくないはずなのに」
「仕方ないよ。今の校舎じゃ、まともに授業も部活もできないんだから」
「でも……でも……!」
「咲奈……」
咲奈は屈んで、体躯を震えさせていた。
でも……。咲奈は泣いてなかった。
「泣けない……」
「咲奈?」
「なんで……なんで!」
いつも、クールな振る舞いを僕や友達に見せ続けているのに、今はどうだ。
涙が出ないことに困惑して、錯乱している。
「咲奈……もう行こう」
「嫌だ!」
「あうっ……」
今まで見たことのない、怒りとか全て混ぜ合わせたような顔。今日で最後なのに、泣けない。
それが、本当に悔しくて堪らないのだろう。
それほどにも、この花畑への想いが強いのだ。
「どうして……。どうしてお別れなのに泣けないの!」
「きっと疲れてるんだよ……。ほら、写真でも撮れば……」
「勝手に撮っておけばいい! 私の気持ちも知らないくせに!」
「そんなこと……」
咲奈の気持ちなんて、分かるはずがなかった。
それもそのはずだろう。僕はこの夕焼け色に塗られ、これから死にゆく雛罌粟たちを見て、今の今まで泪を流していたのだから。
咲奈は、家族にも、友達にも、他人にも、強いふりをしていて、泪を見せたことなどこれっぽっちもないのだと、帰りのバスの中で語った。
確かに、咲奈が小学校二年生で転校してきたときの第一印象は、真面目そうな人だった。
実際本当に真面目だったし、勉強もすごくできていた。
恥ずかしくて顔を赤らめるとか、思いっきり笑うとかそういうことも無く、ただただ淡々と物事をこなしていくだけだった。
そんな咲奈が大好きだった。
「じゃあね……。今日はいろいろとごめんね」
「全然、大丈夫だよ」
田舎特有の、バス停の目の前にある小屋。
朝と夕方はいつもここで咲奈と話しているけど、今日はお互いその気にはなれなかった。
今日提示された夏休みの宿題に対して嫌悪感を覚えているだけだったら、愚痴で盛り上がれたのに。
「色は今日中に塗って、明日ポストに入れておくよ」
「うん。ありがとう」
そう言って、咲奈は立ち去った。
スケッチブックを強く握る僕は、その背を見守るしかなかった。
咲奈の気持ちは痛いほどわかる。
人でなくても、愛着の沸いたものとの別れは辛い。
自分の部屋。もうほぼアトリエで、そこら中絵の具だらけだ。
スタンドにスケッチブックを立てて、筆を執る。
「咲奈……」
スケッチをしているときは、鉛筆を転がすのに夢中で気付かなかったけど、咲奈の顔は笑顔であっても哀愁しかなかった。
折角色とりどりの花と一緒なのに、微かな苦笑を描くなんて、咲奈が可哀想だ。せめて、絵の中だけでも笑顔に……。
「いや、笑顔じゃ、ないだろ」
消しゴムで咲奈の顔を取り払ってから、僕はそう呟いた。
別れを悔やみ悲しんでいる人間が、笑顔を保ち風に靡かれるだろうか?
泣かずとしても、咲奈のように微苦笑でこちらを見るだろう。
「早く、描き上げないと……」
色塗りだけでなく、表情の手直し、影の調整、服の質感の改善など、To Doリストは腐るほど存在する。
それを一つ一つ潰して初めて、この絵が完成したと言えるだろう。
「違う……この色じゃない。これじゃあただの夕焼けだ、もっと、もっと悲哀を強調するような……」
幾度もパレットに試して、その都度洗い流していく。
母親に才能がないと言われたあの絵も、こんな感じで仕上げていったっけ。
雨上がりの街の雰囲気とか。どうやって出してたっけ。
それはきっと、水そのものから出していたんじゃない。
太陽とか、空とか。そういう背景から雰囲気を醸し出してたんだ。
「強くも寂しいオレンジ色……難しい……」
徒に描き続けるのも、集中力が切れて最低な絵ができるかもしれない。だから今日はもう終わりにした方がいいかもしれない。
でも、今日中に完成させないと……。きっと明日、間に合わない。
「おーい!」
ふと我に返った瞬間。聞きなれたそんな声と共に激しいノックの音が聞こえてきた。
僕が信頼する唯一の家族、姉の
「ごめん、入っていいよ」
「はぁ、もう何回ノックさせんのよ」
「あはは。絵描くのに夢中で」
「へぇ。また絵」
「うん。今日も咲奈にモデルになってもらって」
「咲奈ちゃん可愛いもんねー。モデルになるのも納得だわ」
柚はスケッチブックをのぞき込んで、僕の絵を感慨深そうに凝視する。
「よくできてんじゃん」
「え?」
「まだ色塗りは途中だろうけど。ほら、この日差しの色とか。とっても強い気持ちが感じられる。どこか寂しくて……。でもどこか、怒ってるような気もする」
「怒ってる?」
「うん。でも、この咲奈ちゃんの表情は、微苦笑って感じだよね。少なくとも怒ってはいないと思う」
「じゃあ、その怒りっていうのは……」
「多分、
そんなわけない。僕がこの色を塗った時は、ただ寂しさを重視しただけだ。背景に雰囲気を隠して、絵そのものを強調する。そんな役割のはずなのに。
「まだお母さんのこと根に持ってるの?」
「だって……」
「気持ちはわかるけどさぁ。あの人の才能も努力も本物だから。説得力は馬鹿にならないと思うよ」
「そんなの分かってる……。だから、何」
「気にしなくていいんじゃないかな」
「えっ?」
「だって、そんな正論、お前なら全部わかってるでしょ。お前がコンクールに出して何の賞も取れなかった作品、何個も見てきたけど、やっぱりどこかに怒りは隠れてる。選考委員はそういうところを見て落としたんでしょ。お前がいつまでもお母さんのこと気にかけてるから、そんな絵になった。このままだと才能が廃れていくよ」
―――もっと気持ちを込めて書かないと、画家になんかなれないわよ。
―――うるさい! 僕は僕の描き方で、賞を取るんだ!
僕は言うことを聞かなかった。
絵に愛情を込めることなく、ただ一心不乱に、画家という夢を追い続けて、何枚も何枚も描いた。
自分でも、これじゃダメだとわかっているはずなのに、もう歯止めが利かなくなっていた。
―――それで、賞は?
―――全部、落選。
―――もう、やめたら?
―――やめない。
―――僕には才能が……。
―――才能なんてない。
絵を何枚も、何枚もごみ箱に捨てて、そのたびに咲奈や柚に泣きついた。
僕は最低だった。性格も絵も。
「そういえば。この部屋に来た理由を忘れるところだった」
「えっ? 絵を見に来ただけじゃないの」
「違う。大切なことを報告しにきた」
「何」
さっきまで笑顔だった柚が途端に真顔になって、僕の眼を見た。
「あんまり言いたくないんだけど……」
「うん」
「咲奈ちゃん、東京の大学行くんだって」
「東京の、大学……?」
「うん。もう通信教育の契約して、勉強してるらしい」
「ま、まって」
「正直、私もショックだよ」
「僕と咲奈は、地元の国立の芸大に進学しようって……」
「家族が反対したんだろうね。ほら、咲奈ちゃんって真面目で頭良くてクールじゃん。親がそれほど投資する理由がわかるよ。こんなド田舎に住むあんま金無い人なのに」
「ほんと、なの?」
僕は絶望した。僕が地元の大学に行って、咲奈が東京に行ったら、当分会うことなどできないだろう。
「うん。本当だよ。全部」
「僕も、今から勉強して―――」
「だから、蓮は咲奈ちゃんに思いを伝えて」
「え?」
「私だって、遠くに行ってほしくない。だから、想いを伝えて、引き留めて」
柚は、僕の肩を強く握ってそう言った。
咲奈と僕たちは長い付き合い。それほどに、好きになってしまったのだろう。二人が一緒に買い物に行ったりしているところもよく見かける。
「いや、って言ったら?」
「それは……」
「僕は、嫌だよ。想いを伝えるのが嫌なんじゃなくて、咲奈のことを引き留めることが、嫌なの」
「なん、で……? 咲奈ちゃんのこと、大好きじゃないの?」
「大好きだよ。昔から咲奈は家族みたいで、すごく楽しく過ごしてた。だから、このまま別れるのも、確かに腑に落ちないところもある……」
「じゃあ!」
「ううん……。咲奈は、咲奈が決めた道に行くべきだと思うから。それを僕の勝手な事情で止めるのは、卑怯だと思う」
僕はそう、思い切って言った。
無論、離れるなんて死んでも嫌だ。だけど、僕や柚の身勝手な都合を押し付けて咲奈を束縛するなんてこともできない。
「きっと、咲奈が悲しむから……。咲奈は東京の有名大学に行って、良い旦那さんと結婚して、きっと素敵なお嫁さんになれる。僕は、このまま芸大に行って、ただ卒業して……。才能のない僕な何も成果を残せず……。この町を離れて、どこかに就職して、暮らせばいい」
咲奈と別れるのがこんなにも悲しいことだとは思わなかった。僕の人生観なんて柚は今聞きたくないはずなのに。
でも、真剣に、聞いていた。
「なら、卒業式に、想いを伝えて。それまで、絶対に悟られないようにして」
「え、卒業式……?」
「うん。卒業式」
卒業式というと、言わずと知れた学校の卒業を祝う祭典。確かに、告白などする人が多いというイメージはある。
「……わかった。とりあえず、この絵を仕上げないと」
そう言って、紅い筆を執る。
パレットは汚いけど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。早く終わらせて、一秒でも早く咲奈に届けなくちゃいけないんだ。
だけどその想いを、手首につながったそれに邪魔された。柚の手だった。僕の手を、完全に静止している。
「……なに」
「それ、まさか一日で仕上げる気なの?」
「そうだけど、それが何か?」
「無茶だよ。あの雨上がりの女の子の絵だって、色塗りに何日もかかったくせに。こんな大作、一日で色塗るなんて」
「じゃあ、さっきした約束を破るっていうの?」
「約束を破ったのは咲奈ちゃんも同じでしょ。その絵は、何日もかけて描きなさい。それで、お母さんを驚かせて、卒業式の時咲奈ちゃんにプレゼントする。一石二鳥でしょ?」
柚の言っていることは正論だった。もうどうせ部活もなくなるんだから、描かなくったってどうもしない。だったらこの大作を、何カ月もかけて徐々に徐々に完成させていけばいいのだ。
「……やってみる」
「あ~! はははっ!」
脈絡のない柚の爆笑に、若干肩が震える。
相変わらずおかしな笑い方だ。
「え、何?」
「いや、絵のことに関しては誰の指図も受けないお前が、まさか私の意見を採用するなんて! ははははっ!」
「っ! それは! 柚の意見が良いと思ったからで!」
「それが可笑しいんだって! いーひひひっ!」
手を叩きながら爆笑していて、さすがの僕も少し腹が立ってきた。
「もう! 今日は絵描くの終わりにする! だから出てって!」
爆笑しながら柚は立ち上がって、爆笑しながらドアに向かって歩き、爆笑しながらうるさいと母親に怒られていた。
ベッドに置いてあるスマートフォンをとって、トークアプリを開く。
世界的にも有名なそれだ。
『絵なんだけど、もっと時間をかけてすごい作品にしたいと思ってる。だから、明日は無理かもしれない』
そう、咲奈に送る。
咲奈とのトーク履歴は、そこまで特別なものではなかった。次いつ会えるとか、頻りに僕が送っているだけ。
そのたびに塩対応の返信が帰ってくるから嫌なのかと思うけど、実際会ったら楽しそうで、なぜか安心する。
そんなことを思っていると既読がついて、息をする間もなく返信が来た。
『わかった』
やはり塩対応だ。このまま話を続けるのも如何なものかと思うので、スマートフォンを閉じて羽休めをしようかと自らに提案する。
『明日、お父さんの喫茶店に来てほしい』
咲奈のお父さんは、少しおしゃれな喫茶店のオーナーだ。こちらも親しいので、稀に割引してもらったりしている。
いやそれより。と、声を出して驚く。
まさか咲奈の方から提案をしてくるなんて。
『わかった。何時ごろ行けばいいかな』
『お昼ごはん一緒に食べよう』
了解! とベルーガが叫んでいるスタンプを残して、アプリを閉じる。
咲奈と一緒にお昼ご飯を食べれると思うと、一気に気分が高揚する。こんな経験はあったけど、でも久しぶりだ。
今日の出来事があったから、少し心配なのだが。
今更気にする必要はない。明日の為に服を決めよう。少しでも振り向いてもらいたいから、おしゃれをしないといけない。
楽しみだ。ものすごく。
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