エピローグ
ガバッと起き上がって、見えた光景に、一瞬息が止まった。
血塗れのゆきがベッドに凭れて倒れていて、急いで首に指を当て顔を近づける。ちゃんと息をしていることを確認して、肩を撫で下ろした。手足の感覚がしっかりとあることを確かめて、私はそっとベッドから降りる。あれから何時間、いや何日経ったのか。カレンダーを見ても、そもそも今がいつなのか、長い間時間の感覚がなかった私にはわからない。確認するにしても、スマホを探さないといけない。けれど、体が自由に動くということは、全てが終わったということだ。しかも、もう次を待たなくてもいいように、ゆきがやり遂げてくれたみたい。ゆきが着ている血塗れのパーカーを捲ると、どこも怪我はしてなくて心底安心した。致死量に見えた血は全て、返り血だったようだ。
……本当に何をしたんだ、ゆきは。ひとりで無茶するなんて。それはいつものことか。
「ねぇ、ゆき。起きて」
疲れているのか、ぐっすりと寝てしまっていて、揺すっても起きないので手当をすることにした。かすり傷があるところは、消毒液で拭いてからガーゼを貼って、打撲痕があったところには湿布を貼った。染みてそうなのに起きないということは、よっぽど気が抜けたんだろうなと思う。ない力を振り絞り、頑張ってゆきをベッドの上まで引っ張りあげようとしたが、数か月ベッドに寝ているだけの生活で筋肉が衰えた体では、流石に自分より大きいゆきを持ち上げることはできなかった。床に枕を置いて、寝かせて、私がかけていた布団をゆきにかけた。病み上がりにこんなことしたら、体がびっくりする。明日は絶対筋肉痛だ。久々に立ったわりには、意外と動けることにも驚いたが、ゆきが何をしたのか、私に何を飲ませたのか、知りたくない気がする。
ゆきの部屋に行って荷物を漁ると、ノートが出てきた。開くと、中にはこの一年のことが事細かく書かれていて、相変わらずマメだなぁと思いながらペラペラとページを捲る。
月曜日 つきちゃん 舞台 水族館(ジンベイザメとペンギン)
火曜日 かあくん ジム ゲーム 料理
水曜日 すいさん ジャズ バー 散歩
木曜日 もっちゃん 絵 海外ドラマ 車椅子
金曜日 きんくん 自殺願望 コンビニのおでん カラオケ
土曜日 つちさん ビーズアクセサリー カフェ キャラメルマキアート
日曜日 ひいくん ボードゲーム 怪異
その単語の羅列には、覚えがあった。ゆきとふたりで行った場所や、行きたいと言っていた場所。見たいものに、やりたいこと、食べたいもの。お気に入りのものに……これは。
「自殺願望って……。ゆき、あのこと根に持ってるのね」
私は過去に一度だけ、飛び降りようとしてゆきに止められて、物凄い剣幕で怒られたことがある。いつも表情豊かなゆきだけど、そんなに怒った顔を見たことがなかったから、初めてそんな顔を見れたことが嬉しくなって、笑っていたら「次やったら、その前に俺が殺すから‼」と脅された。結構昔のことだけど、過保護なゆきのことを思うと当然な気もする。ふたりで見ていた海外ドラマの続きはどうなっただろう。舞台の新作や、ボードゲームも新しいのがいっぱい出てるかもしれない。久しぶりにあの曲を聞きたいし、コンビニのおでんも食べたい。カラオケに行く前に、肺活量を上げないと。絵を描くのも、アクセサリーを作るのも、センスが鈍ってないといいな。多趣味な私に付き合って、色んなところに連れて行ってくれたゆきは、展示を見るよりも、いつも私を見て楽しそうにニコニコしていたけれど、水族館のジンベイザメだけは口を開けて眺めていた。その姿がかわいくて、今でも覚えている。早くゆきと出かけたいな。
ゆきの仕事用のスマホを見ると、ロックがかかっている。ゆきは四桁のパスワードを全部私の誕生日に設定しているから、簡単に入ることができた。日付と時刻は十二月三十一日の朝九時になっていて、曜日は月曜日になっている。ゆきは週の始まりを月曜日だと思っているから、日曜日が最後で、多分昨日、完全に終わったのだろう。それで安心していて、揺すっても起きないくらい爆睡しているのかもしれない。
電話の履歴は不在着信が何回か入っていて、その番号以外は全て同じ番号にかけたものだった。不在着信の中で入っていた留守番電話を聞くと「お前何したんだ⁉」とか「無事なのか?」とか、聞き覚えのあるような声が入っていたが、深くは考えないことにした。
「りっか、おはよう」
突然後ろから腕が伸びてきたかと思うと、強く抱きしめられ、体重が重く圧し掛かる。わざと体重をかけてくるゆきを支えきれなくて、そのまま倒れ込んだ。
「……おはよう、ゆき。重いからどいてくれない?」
「最初に言うことがそれ?」とゆきは不機嫌そうに、私の背中に頭をぐりぐりと押し付けてくる。言いたいことは沢山あるけれど、今はどいてほしいが一番だ。それが伝わったのか「仕方ないなぁ」と言って、ゆきは起き上がって、私を抱き起してくれた。
「眠りから目覚めた気分はどう?」
「ゆきが死んで、この世が終わったかと思った」
「はは。ごめん、ごめん。返り血だったし、いいかと思ってそのまま寝ちゃった」
ゆきの綺麗な顔には、返り血がべったりとこびりついていて、もう乾き始めている。
「顔洗ったほうがいいよ。手も」
「じゃあ俺はお風呂入ってくるから、りっかはお茶でも飲んで待ってて」
私からスマホを取り上げて、テーブルの前にある座椅子に座らせ、キッチンからお茶の入ったコップを持ってきたゆきは「大人しくしててよ?」と言って、お風呂に向かった。
少しだけお茶を飲んで、ゆきがお風呂に入ったことを確認してから、私はまたゆきの部屋に戻る。ゆきの様子と留守電からして、ゆきはきっとやり遂げたんだろう。しかし何でもできる完璧なゆきでも、私のこととなると詰めが甘い時があるから一応……と思って、ゆきがつけていたノートをもう一度見る。そして、気づいたことがあった。
「土曜日のつちさんは日記をつけてる。これはまずい」
つちさんの両親は他界していて、兄妹も配偶者もいないようだが、ゆきがあれをやったなら、いずれ今回の人達が居なくなったことに気づかれて、警察が家を調べに行くだろう。その時につちさんがつけていた日記が見つかれば、私達はまた危険を冒さなければならなくなるかもしれない。
だとすると、つちさんだけではないかも……。もし、全員が日記をつけていたら? 実家に職場、行きつけのカフェやバー。色んな人が目撃している。今までの効果がなくなれば、気づかれてしまうかもしれない。そうしたら、私達以外にも危険が及ぶ。それだけは避けなくては。
「ゆき、まだ終わってない」
お風呂の扉を開けるとゆきは「寒い。閉めて」と言ったが、私が言ったその一言に「急いで準備する」と言い直した。
この街には、昔から語り継がれているおとぎ話がある。そのお話は、子供がちゃんと家に帰ってくるようにと願った先人達の知恵であったが、時代を追うごとに変化して、ある時からそれは、本物になった。人々の願いが強すぎたのかもしれなかった。
「ある街には、昔からとても美しい兄妹が住んでいて、その兄妹は普段滅多に外に出ないけれど、稀に街に現れる時がある。街に現れるのは決まって冬で、その時期には七人の人が居なくなる。だが不思議なことに、誰もそれに気づけない。気づいてはいけない。気づいたら、連れていかれるから。
幽霊か妖怪か、あるいは神様か……。まぁ何にしても、お外は危ないからねぇ。お友達と遊んでも、日が暮れる前には、家に帰ってくるんだよ。わかったね?」
「ほら、やっぱりあった」
つちさんの家に入ると、机の上に置いてあった本に紛れて、日記があった。事細かに書かれたその日記の中には、あのおとぎ話に関しての記述と、ゆきのことが書かれていて、先に見つけられてよかったと安堵する。
「これだけ書かれてるのは回収しないとまずいよ。他も調べないと」
「ひいくんは怪異譚が好きだったし、俺のこと怪しんでたから、書いてるかも。あ、もっちゃんは俺の絵描いてたんだ。毎回回収してたけど、俺が知らないのもあるかも」
なんとか全ての家ともっちゃんの病院を回り、忍び込んで、日記や絵・データを回収した。ネットに上がっていたものは削除して、ネット掲示板には削除依頼を出すくらいしかできなかったが、この程度であれば、問題はないだろう。山かどこかで燃やさないと。
「私に似た人を選んだんでしょ? だからだよ」
「……あー、りっかも日記書いてたっけ。最近見てないから忘れてた」
この街にやってくる前は、まだ私も普通に生活を送るくらいはできていたから、それまでの習慣で日記を書いていた。この街に来たのは、それすらできなくなったからで、ゆきも仕事が忙しくなって、私と話すこともできなかったのだから、忘れていても仕方ない。
「その兄妹は、宝石のように綺麗で、危険な瞳を持っている。その瞳に見られたら、ああ、死んでもいいや、と思ってしまう」
ネット掲示板に書かれたその記述に、内心ひやひやした。人の口に戸は立てられぬ、というが、ネットが普及してから情報の速さは昔の比ではない。既におとぎ話の域を超えて、怪談や怪異譚、あるいは都市伝説として語られていると言ってもいい。それ自体に問題があるかはわからないし、逆に利用できる可能性も否定はできないだろう。
私達が何代目かなんて知らないけれど、少なくとも私達になる数十年前は、どうやって生活していたのだろうか。特定の条件に合った人をある場所へ連れて行く、それだけと言えばそれだけだから、難しいことはないのかもしれないが、ゆきのように長期間接した後で連れて行くほうが、報酬も多く受け取れるというのは、私がこうして普通に動けていることで証明された。
「まぁでも、これで終わり、だよね?」
「終わったって言ったのはゆきでしょう? もうすぐこの名前ともお別れね」
「ゆきとりっかも終わりか。俺達みたいな誰かが気づいたら、また復活するかもしれないけどね」
「次のふたりも、私達みたいに上手くいけばいいね」
「昔のふたりも、そうやって願ってくれたから、成功したのかも」
家に戻って、出ていく準備をする。
一年という月日は、短いようで長い。慣れ親しんだ……いや見飽きた天井も、よくゆきが立っていたキッチンも、テーブルと座椅子も、全部最初の状態に近づけて、次のふたりに書置きを残した。私達が来た時に置いてあった本も、書置きの横に置く。
「爪のお手入れだけしてから行こうよ」
「このくらい平気だって言ったのに」
「私がそうしたいの」
「じゃあお言葉に甘えて」
月曜日、ゆきの右手の人差し指の爪が折れて、血が滲んでいた。傷は塞がっていて、もう不便ではないだろうが、ゆきには完璧で居てほしい。私はゆきの手を取り、爪やすりで綺麗な形に削っていく。相変わらず冷たい手だ。
「ありがとう」と笑うゆきは本当に綺麗で、昔と変わらない笑顔に胸が締め付けられる。
ゆきがつけたイヤリングを見て「かわいいね。似合ってる」というと、ゆきは「つちさんがくれたんだ」と言った。ゆきの瞳と同じ翡翠のような緑色で、私が知らない間もゆきが愛されていたことを知る。ゆきは「そうだ」と言って、鞄の中から何かを取り出した。
「りっかにプレゼント。作ったのは結構前だけど、ここを出ていく時に渡そうと思ってて。願掛けが成功したから。つけてくれる?」
ゆきはイヤリングと同じ翡翠色のブレスレットを私にくれた。いまは私の瞳の色でもあるそれは、ふたりのこの一年を象徴するような物だった。
「ゆきがつけて」
「喜んで」
左手を差し出して、ゆきにブレスレットをつけてもらう。窓から入ってきた夕日に照らされて、翡翠色が眩しく輝いた。
「綺麗。ゆきみたい」
「でしょ」と得意げに笑うゆきがかわいくて、ゆきの背中に腕を回して、抱きしめる。
「ずっとこうしたかった」
「……りっかが助かってよかった。俺、ずっと寂しかったんだ」
「もう寂しくないよ。貴方には私が居る。だから大丈夫」
「うん。うん……」
この前みたいにぐずぐず聞こえてきて「ゆきはこういう時すぐ泣くんだよな」と笑ってしまった。世界を敵に回しても、なんてそれこそおとぎ話みたいなことを、ゆきは私達がふたりで居る為だけに叶えてくれた。強くて美しい、私の大好きな人。
犠牲はいつも付き物だ。全てが結果の上に成り立っているというのなら、これだって正しいことだと思う。誰かにとっては間違いでも、私達にとって正解であればそれでいい。家族や友人、仲間、今まで関わってきた人全てと天秤にかけて、私はゆきを選んだ。そして、ゆきも私を選んだ。それだけが事実で、あとは粗末なことだろう。
私にとってはゆきが世界で、ゆきにとっては私が世界。誰にも理解されずとも、そういうエンディングを望んだ人達は、私達の他にも居るのだ。それがすごく心強かった。
だからこそ思う。
次のふたりがどうか、ふたりの思い描く形で、幸せになれますように、と。
最低限の荷物だけ持って「お世話になりました。ありがとう」と言ってから、ふたりで手を繋いで家を出た。雪が積もった道を、ふたりで手を繋いで歩いていく。街の境界を超えると、ふたりの髪は白から黒へ色を変え、宝石のような瞳も黒く染まった。
この冬最後の雪を見ながら、ふたりは、ふたりだけの道を、真っ直ぐに、前を向いて、歩いていく。もう二度と、誰にも邪魔されずに。
「……今日から、お前の名前はゆき。そして、連れをりっかと名付ける。こちらが指定した人物を、ある場所に連れてきてほしい。その人物達に、名を付けろ。曜日になぞらえた名であれば、何でも構わない。最大七人、最短一日だ。しかし、長期間であればあるほど、その効力は強くなる」
「前回のゆきとりっかは、我々に大きな損害を与えた。しかし、等価交換が原則のこの契約に違反したのは彼らふたりではなく、我々の一部であった。我々は考え直したのだ。
働きの分、対価はきちんと払う。滞りなく進められるよう、手も貸す。だから、どうか、命だけは勘弁してほしい……」
「はい。勿論です。……を、りっかを助けてください」
「承知した。終わりの時はこう言ってくれ。
月曜日が終わりました、と。その文言を聞いた後、報酬が払われる」
「わかりました」
「では本日より仕事を任せる。まず月曜日は、この街の……に住む…………」
ゆきはりっかの為に仕事を始めた。真っ白な雪が降るこの街で、白に身を包み、翡翠色の瞳を宿して。終わり方を決めるのは自分達だと強く思いながら。
完
『ゆき』 佐藤百 @stmm319
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