筋肉痛

茅野 明空(かやの めあ)


「サイアク」


 私は何度呟いたかわからない言葉を吐き捨て、ズビッと鼻を啜った。

 顔を埋めている両腕のセーターは涙でビショビショだ。自分でも汚いと思うのだが、泣いた顔を見られるのが嫌で、私は腕から顔を上げられずにいる。


「ん」


 不意に、隣から腕が伸びてきて、一枚のティッシュが突き出された。私は黙ってティッシュを受け取り、さっと涙を拭ってから鼻をかむ。


「ありがと」

「ん」


 ティッシュをくれた璃子は、棒突きの飴をまるでタバコみたいに咥えながら、いつものつまらなそうな顔で短く返事をする。


 私たちは、誰もいない教室のベランダにいた。ベランダの向こうには鬱蒼としげる森、そのさらに遠くの方には海が見渡せる。片田舎の山の中に立つこの高校のいいところは、こうして他人の目を気にしないですむ場所が多くあることかもしれない。

 ベランダの手すりに置いていた両腕からやっと顔をあげ、私は独り言のように呟いていた。


「あーあ、こんな辛いの、いつまで続くんだろ」


 それは単なる失恋だった。それも、思いっきりダサいやつ。

 涼太は同じクラスの隣の席で、ダンス部に所属してるのも一緒。話が合うし、二人でダンスの自主練に行ったりもするし、休み時間や昼休みにもよくふざけ合ってた。だから、二人でいるのがなんだか当たり前のように感じていた。


 今日、涼太から彼女ができたと告げられるまでは。


 あの時、自分は、ちゃんとうまく返事ができていただろうか。


「苦しい、しぬぅぅぅ」


 璃子の手前、ふざけた口調でそう言いながら、やはり止まらない涙をセーターの裾でゴシゴシと拭う。胸の辺りが捻じ切れそうに痛い。喉が塞がったように感じて、息が苦しい。


 二人でいるのが当たり前に感じていたのは、私だけだったのだ。涼太には私なんて見えていなかった。彼が一緒にいたかったのは、私なんかじゃなかった。そんなことにも気づかず一人浮かれていた自分が、恨めしくてしょうがない。


「きっとさ、心にもさ、あるんじゃない?」


 黙って飴を舐めていた璃子が、突然口を開いた。何を言い出したのだろうと思って、私は訝しげに彼女を見る。

 ショートカットの明るい茶色の髪、長いまつ毛が、夕日に照らされて淡く光っている。綺麗だな、と見惚れながら、私は問いかけていた。


「何が?」

「んー? なんていうか、あれみたいなの。“筋肉痛”」


 彼女の口から飛び出た予想外の言葉に、私はキョトンとした。


「き、筋肉痛? 心に?」

「そ。ダンスした後ってさ、筋肉痛になんじゃん? でもさ、痛みがなくなった時、筋肉は強化されてるでしょ? だから、今めちゃめちゃ辛くても、その分心は強化されてんじゃないのってこと」


 淡々と説明する璃子の言葉は、訳がわからないけどなんだか説得力がある。

 しかし、私はブスッとむくれてみせた。


「別に強くなってようがどうでもいいよ。今のこの辛さをどうにかしたいんだよ、私は」

「筋肉痛はそのうち治るでしょ」

「そのうちじゃ嫌だよ、もうさっさと消えてなくなってよー!」


 駄々っ子のように声を上げながら、私は璃子に八つ当たりしている自分がバカらしく思えてきた。でも、こうやってただ隣にいてくれるだけで、この苦しさがだいぶ和らいでいることにも気づいている。

 どうでもいいような、つまらなそうな顔をしながら、彼女はいつも私のそばにいてくれる。


「筋肉痛治す方法ねぇ」


 ベランダにもたれかかってうーんと思案していた璃子が、「あ」と短く声を上げた。


「揉んであげるとか」

「揉む? 心を? どうやってさ」


 不貞腐れた声をあげて、ベランダから見える夕日を眺めていた私の顔に、璃子の白く冷たい手が伸びる。璃子の指が私の顎をすくい取り、驚いて目をやった私の視界に、璃子の美しい顔が近づいてきた。


「こんなふうに」


 璃子の唇が、私の唇に触れる。信じられないほど柔らかい感触。微かにいちごの飴の味がする。

 たった今起きたことが信じられなくて、私はしばし硬直した後、思わず叫んでいた。


「なっ、何すんの・・・・・・!」


 ニヤリ、と笑った璃子の微笑みは、見たことがない妖艶さを含んでいて———

 気がつくと、私の涙は引っ込んでしまっていた。


 手に持った飴を振りながら、璃子はふざけた口調で歌うように言う。


「痛いの痛いの、飛んでいけ〜ってね」







      了

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