散歩
「このまま寝てしまうのがもったいない。」
ふとそう思ってしまうことは幾度とあった。
普段は「それでも明日は仕事だから。」と、無理やり布団をかぶる。
でも今日はなぜか、気づくと家の扉のドアノブを回していた。
俺の人生は、何もない。
地方の国立大学を卒業し、地元の中小企業に入社して3年。
毎朝7時に起きて会社に行き、帰ってくるのは21時過ぎ。
定時上がりが当たり前で仕事も私生活も充実している今時のキラキラ社会人でもなければ、深夜まで仕事に明け暮れる社畜でもない。話題にもならない至って普通の社会人。
特に趣味があるわけでもなく、土日は寝ていたら終わる。
この生活が、残り30年以上続くのかと気づいた時、ただただ呆然とするしかなかった。
だからかもしれない。時計がてっぺんでいよいよ合わさる、そんな時間に家を出てきたのは。
いつもはしない深夜の散歩道、何か俺の人生にイベントが起こるんじゃないか。
車に轢かれて異世界転生だとか、不思議な少女に声をかけられて世界の闇との戦いに巻き込まれるみたいなフィクションが。
そんな予感を抱いて目的地もなく彷徨い歩いていると、気づくと隣駅まで歩いてきていた。
そこには、終電間際の別れの前に最後の会話を楽しむ人々の姿があった。
久々に会った友人とじゃれ合う若者。
上司にお礼を言う部下。
つかの間の別れを惜しむ若いカップル。
飲みすぎたサークルの先輩を介抱する後輩。
数々の物語がそこにはあった。
それらを外から眺めるのは意外と楽しかった。
そのどの輪にも入れないことには気づかないフリをした。
20組ほど見送ったけれど案の定何もある訳がなく、元来た道を帰る。
帰り道は、行く道よりも静かで夜が深くなったように感じた。
時折現れる街灯と自動販売機が、嫌になるほど煌々と光っていた。
「ミー。ミー。」
何か音がする。
昼間の喧騒の中なら絶対に気づかなかったか細い鳴き声。
声をたどると、アニメでよく見る段ボール箱の中に仔猫が1匹顔を出していた。
「ミー。ミー。」
鳴けるほど元気がまだあるようだが、朝になればどうなるか分からない。
こんな寒空の下にいたら余計に。
「お前もひとりぼっちか。まだ小さいのに。」
「ミー。ミー。」
確かにその目は俺をしっかりと捉えていた。
気づくと俺はその段ボールを持って家に帰っていた。
車にも轢かれなかったし、不思議な少女にも出会わなかった。明日も、朝6時に起きて21時過ぎに帰宅するだろう。
それでも明日からの毎日は、少しだけ、違うような気がした。
ささやかな日常 あいりす @Iris_2052
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