第2話:パーソナルトレーナーの特権
「おはようございます」
眠気眼を擦ると、ぼんやりとした視界のがはっきりとしてきた。
なぜか私のベッドの脇に見たことあるような、ないようなお姉さんが立っている。
クリアになった目で何度あたりを見回してもここは私の部屋だし、この人以外変わったことはない。
「……、誰でしたっけ?」
「失礼ですね。貴女のパーソナルトレーナーになった、
ああそう言えば昨日勢いに負けて一か月だけフィットネスクラブに入ることを決めた気がする。
「なんとなく思い出しました……」
「よかったです、覚えてないとか言われなくて。それじゃあ早速――」
「え、いやなんでここにいるんですか?」
徐々に動き始めた頭をフル回転させるが、何かおかしい。
パーソナルトレーナーの契約は結んだ記憶はあっても部屋に入る契約を結んだ記憶はない。
「いやだからパーソナルトレーナーだからですって」
「それがおかしいでしょって!」
思わず声を荒げると、頭の中で何度も反響する。
(頭痛い……)
思わず頭を抱えながら布団に潜り込むと、テーブルの上にチープな酎ハイの空き缶があるのが目に入った。
「昨日あの後二人で飲んだの忘れちゃいました?」
「いやそれはなんとなく思い出しましたけど」
「それにほら鍵だってありますし」
そう言って彼女は見たことあるキーホルダーがついた鍵を見せてきた。
「それ私のじゃ……」
「そうですよ、昨日酔った時に私に預けるって言ってくれたじゃないですか」
「そんなこと言った覚え……」
「別に言ってないってことにしたいなら返しますけど、独りで生活して見返せるぐらいいい女になれる精神力があるんですか?」
そう言って彼女は見下すような冷たい視線を向けてきた。
なにか言い返そうと思ったが、なにも言い返せる気はしない。
「それは……」
「めんどくさいって言われるのが常の幼稚な精神を持ってる人が自己管理能力とか持ってると思えないんですけど、どうします? ここでほかの人と同じように扱って段々と来なくなって、振られたという結果しか残らなくても満足って言うなら、もう私から言うことは何もないですよ」
「なにそれ……」
「選んでくださいよ、
その目は気迫にあふれていて、適当な答えで逃げるのは許さないというのが容易に伝わってきた。
どうせ一か月はお金かからないし、独りでいてもやることなんかないしな。
「わかった……、鍵持ってていいよ……」
「そう言ってくれてよかったです、じゃあこれからよろしくお願いします」
◇
そう言って、葵さんが住み着いてから一週間、彼女は私にトレーニングから逃げる時間を与えなかった。
「ほら、そもそもで運動習慣がないんですから、まず習慣付けからしましょう!」
「好きなものを食べるなとは言いません。ただ深夜に食べるのは止めませんか?」
「いつまで思い出の品なんか取ってるんですか? 吹っ切れてないうちに見返しても傷を広げるだけですよ。捨てられないならせめて目に入らないところにおいておきましょう」
彼女のアドバイスは筋トレだけでなく、食事やメンタル管理など多岐に渡った。
正直なんでここまでって思ったけど、そう聞くたびに「パーソナルトレーナーですから」とはぐらかされた。
ただそこまで徹底的にやってくれたおかげか、少しだけ、本当に少しだけ筋肉が付いてきた気がした。
(ほんと、筋肉って裏切らないのかな)
別れた時より少しだけスタイルのよくなった体を見ながらそう考えるが、嫌な思い出がフラッシュバックしてくる。
最初はみんなそう言っていい顔してくるんだ。
「そのままの佳奈が好きだよ」
「大丈夫どんなわがままでも受け入れるよ」
みんな、みんな、最後はめんどくさいとか言って消えて行く。
葵さんだってどうせいつか……。
葵さんがいなくなったら筋肉にも裏切られるんじゃないかな。
葵さんもめんどくさいとか言っていなくなってしまうかもしれない。
そう思っただけで、涙が溢れてくる。
もうさんざん泣いて、最後の一滴まで出し尽くしたと思ったのに。
「私は、何をしたらいいの……」
「大丈夫ですか?」
私が膝を抱えながらしゃくり上げることしかできないでいると、後ろからそっとタオル地の物を掛けられた。
「葵さん? なんで?」
「大きな音がしたから何かあったかと思って」
彼女はそう言いながら念押しするかのように「大丈夫ですか? 私なにか今まで無理させてましたか?」と尋ねてくる。
「そんなことない。ただ葵さんがいなくなったら、葵さんにも見捨てられちゃうんじゃないかと思って」
「そんなことしませんよ」
「それは契約だから?」
彼女は少し微笑んだ後、ぎゅっと抱きしめながら耳元で囁いて来た。
「まあいまだに私が言わないと早寝早起きはしないし、私が行くって言わないとランニングもウェイトもなにもしないんだろうなとは思いますけど。一緒に居ていいところがいっぱいあるのも知りましたし大丈夫ですよ」
(違う、そんな言葉がほしいんじゃない)
彼女のその言葉をきっかけに、堰を切ったかのように心の奥底からドロドロと真っ黒い感情が沸き上がってくる。
「佳奈さん?」
彼女はそう私の顔を覗き込もうとしてきたが寸でのところで目を逸らす。
(ダメ、今顔を合わせたら絶対にまためんどくさいって思われること言っちゃう)
「私はもう大丈夫だから、もう部屋戻ってもらって大丈夫ですよ」
体育座りのままそう言う。
ただ彼女は出る気配を見せるどころか、なぜか私の頭を無理やり持ち上げた。
「佳奈!」
「……なに」
鏡を見なくてもわかる。
絶対目は真っ赤だし、人に見せられるような顔じゃない。
「ねえ黙ってないでなんか言ってよ……」
「佳奈はよく頑張ってるよ」
葵さんはそう言って軽くキスをすると振り返らずに部屋に戻ってしまった。
「え、なに……」
恋人は私を裏切ったが、筋肉は決して私を裏切らない! 下等練入 @katourennyuu
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