【書籍紹介】狸の本棚

矢田川怪狸

第1話【ノルウェーのアレとか】村上○樹というコンテンツ【アソコのカフカとか】

 村上○樹といえば知名度で言ったらおそらく生存している日本人作家の中で五本の指に入る超有名大御所作家――作家志望の方が多いカクヨムユーザーであれば、「有名な作家さんだから」ということでその作品を手に取った経験もあるのではないだろうか。

 で、ここからが大事。

 その時に「村○春樹って素晴らしい! 文学的でエロくて、なるほど大作家!」と思った方は、俺が今から書くハ○キ評に頷いてはくれないと思う。なぜなら俺の個人的なハ○キ観が『真面目だけど話好きで隙あらば自分語りをするおっちゃん』という方向に偏っているから。

 そもそもが俺、村上○樹は好きでよく読んでいるが長編に関しては面白いと思ったことは一度もないし、途中で挫折するし、なんなら読み終わった後で腹立ちまぎれにハードカバーの本を床に投げつけるぐらいに憎んでいる。ガチの村上春樹信奉者が「そんなことはない、かの作家の良さは長編にあるんだ、彼は第三の新人世代以降の正当な文学者で……」とか言い出したらくってかかって泣くまで追い詰めて完全論破しかねない勢いのガチアンチ勢。あまりにもマジでガチでアンチがすぎるものだから、家族や知り合いからは「それって愛情の裏返しだよね」とまで言われる始末。

 まあ、何が言いたいかというと、ここからは村○春樹の長編をそこまで嫌悪する俺がなぜハ○キを読むのかって話と、長編から入ってハ○キって難しいわ〜ってなっちゃった人はもったいないぞ、という話。それも完全なる俺の主観と浅い知識と文学的要素の排除によって村○春樹という作家そのものをコンテンツとして楽しむという、超絶邪道な楽しみ方をご紹介しちゃおうという、文学エンタメ化計画第一弾、村○春樹、here we go!


 これは村○春樹作品に限らずだけど、実は読書って百人いれば百通りの『読み方』があって然るべきなんだけど、どうしても読み方に偏りが出る。例えば「この作品は教科書にも載っていてね!」って誰かから勧められたら、どうしても「教科書に載っているような作品なんだから真面目で難しいことが書いてあるに違いない!」って思い込んで読んでしまう。そういう読み方をすると、無意識のうちに「真面目で難しいところ」にピントを合わせて読んじゃうんだよね。

 例えば、うちの娘の高校の教科書に、それこそ村○春樹の短編が載っていたんだけど(興味のある人のために、タイトルの前半は『夜中の汽笛について』)これを教科書通りに読もうとするなら、かなり真面目な文学的な作品として読み解けないこともないんだよね。実際教科書には「『女の子』と書かれていたのが途中から『少女』に変わった理由を述べよ」みたいな設問があったし。俺だって実際に国語のテストなら「告白によって恋を自覚して女になったから」的な、いわゆる設問者の読解に寄り添った答えを書く。

 だけど俺と娘はこの短編を別の角度からたっぷりと楽しんだ。この短編は「私のことどのくらい好き?」って聞かれた男の子が「夜の汽車くらい」好きだって返答をする、ほぼ男の子の自分語りで成立したお話なんだけど、娘はこれを読んで膝から崩れた。

「ま、待って、『夜の汽車くらい』って、結局どのくらいなんよwww」

 アンチハ○キストの俺は両手を打って大喜び。

「出た! お得意の自分語り! 隙あらば自分語り!」

 ここで大事なのは、国語の教科書みたいな読み方も間違っちゃいないし、俺や娘みたいな読み方も間違っちゃいないってことね。ただ、文章を読むときのピントの取り方が違うってだけ。世によく見る解釈の違いってやつだね。

 この解釈っていうのは個人の心による偏りだ、そして読書レベルの高い人ほど自分が『自己解釈』で本を読んでいるということに自覚的だったりする。ところが今の世の中、十分に読書レベルが上がる間もないくらい、読書に変わる面白いコンテンツが溢れかえっている。ゲームとかアニメとかね。

 読書レベルの低い人は何を指針として本を読み解くか、そこで他人の『解釈』を借りてくるわけだ。作者は教科書に名前が出てくるような作家だから、とか、有名な文学賞を取っているから、とか、今時ならAmazonのレビューで高評価だったからってのもあるのかな。無意識のうちにこうした前情報を取り入れて、『そこにピントを合わせて』読んでしまう。いやいや、全部無意識の成せる技だもの、自覚してのことじゃない。

 だからこそ俺は、俺個人の解釈という偏った前情報をここに書くことは全く無意味じゃないと思っている。誰か一人くらいはこれを読んで、「へえ、そういう解釈の仕方で読んでみるのも面白いじゃない」って思ってくれることもあるだろうから。そしてこれを読んで「おお、こういうのなら自分にも書けそう」と思った人はぜひ、自己解釈100%によるレビューを書いてみてほしい。俺がそれを読みにいって「なるほど、この角度から読むと確かに〜」と他人の解釈を楽しみたいので。

 閑話休題、村○春樹の話に戻ろう。

 村○文学の最大の特徴は自分語りだ。ともかく登場人物が唐突に自分語りを始めてしまうパターンが多い。最近映画化したドライブマイカーという短編、あれなんかは緑内障で車の運転を禁じられたおっさんが、ドライバーとして雇った若い女の子に車中での暇つぶし感覚で「うちの嫁不倫してたんだよね〜、その不倫相手とコンタクトとったことがあってさあ」と、まさに自分語りをして聞かせる話だったりする。

 自分語りそのものは、別に悪いことじゃない。小説というのは大抵が自分語りで構成されているのだし。ただ、それが目に見えるほどあからさまで、しかも話の緒が唐突であるというのが村○文学のイメージ。だから読む人によってはすごく言い訳がましく見えてしまうってわけだ。

 村○春樹ってどんな人っていったら、言い訳がましい人。これは多くの村○文学に前書きという形で表れている。総じていつも前書きが長くて、その内容がめちゃくちゃ言い訳がましい。だけどその言い訳って意地悪だったり悪事を誤魔化そうとするものじゃなくって、なんていうのかなあ、他人を気遣う小心者って先回りしていろんな言い訳をするじゃない? 「これは意地悪で言ってるわけじゃないんですけどね」とか。まったく全体アレなのよね。

 だから俺なんかはあの長い長い前書きに嫌悪感は全くない。むしろ村○春樹を買ってくると、まず前書きを堪能しちゃう。

 特に前書きで秀逸だったのは東京奇譚集、これは自分が実体験を語っても本気にしてもらえない、理由は小説家だから、「作り話でしょう」って言われちゃうってことがしょっぱな書いてある。だから前書きとして自分が体験した不思議な出来事の中で「些細な方の不思議」をここに書くよという……俺としては「なんで些細な方なんですかwww」と、そこですでに面白かったんだけど、そう前置いて書かれた些細な出来事っていうのがまた……いや、詳しくはご自分で読んで確かめてほしい。だけど俺なんかは「いや、それ単なる嬉しかった話やん、しかも言い訳してまで自慢しちゃうほど嬉しかったのね」とほっこりしてしまうのである。

 つまりはそういう小心ゆえの言い訳が楽しめる人には、村○文学ってとてつもなく面白い。何しろこの人、素直というか純真というか、ちょっと読み慣れてくると文章に込めたその意図が面白いようにわかるのである。それが如実に現れているのが独特の比喩表現。

 村○春樹の比喩表現はいかに奇異であるかを見せつけるためのものではなく、おそらく本人は大真面目に自分が持つ感覚を「いかに表現するのか」に起点を置いている。

 俺が愛蔵しているふわふわという子供向けの小説には「長い間使われていなかった風呂場のようなひっそりとした広がりのある午後」という表現が出てくるが、俺なんかは一撃で感覚を持っていかれて「長い間使われていなかったひっそりとした広い風呂場」を思い浮かべるけれど、じゃあそれをもっと万人が分かるような言葉で言い表してみなさいよと言われたら、ちょっと代案が思いつかない。

 いや、「長い間使われていなかったのだから水っけはなくて……」とか、細かな分析はできるが、そうじゃない。長い間使われていなかったひっそりとした風呂場にポツンと佇んだ時の寂寥と安堵の絶妙なバランスを言い表す言葉が他に存在しないのだ。

 そしておそらく、村○春樹はこういった独特な表現を万人に理解してもらおうとは思っていない。本当に共感覚として他者の心に落とし込むつもりならば他にいくらでも上手い表現があるだろうに、あえて「長い間使われていなかったひっそりとした風呂場」に立つことのできない人にはわかってもらわなくて結構だと、そう思っているに違いない。つまり村○文学における独特の比喩表現とはハ○キの感覚を直訳したものであり理屈や文法で読み解くものではなくそれをそのまま感覚化して読み解くための単なる絵文字的なものであると、これがわかっているだけで村○文学は断然面白くなる。

 しかして、それを差っ引いても村○春樹の長編は面白くない。まあ、理由は色々あるのだろうが、それをわざわざ言語化する必要はないし、「世の中では評価が高いのに、これを理解できない俺って……」とか落ち込む必要もない。俺ら読者は読んだもの全てを「作者の努力の結晶」として好評価をあたえる義務もなどないのだし、自分自身の偏った個人的解釈で面白くないと判断したのならば、それは何も間違ってはいない。

 だけど長編だけを読んで村○春樹を見限ろうとしているのなら、それは大間違い、騙されたと思ってエッセイを一度読んでみてもらいたい。

 実は村○春樹、スペックとしては「ちょっと大袈裟だけど面白い話をしてくれる親戚のおじちゃんクラス」である。ほんとか嘘かわからない話を得意そうにしてくるから「いや、それは大袈裟でしょー」って言いやすい、しかもちょいちょい可愛い自慢話をしてくる、人はいいけど大人の中ではちょっと浮いちゃうせいで隅っこにいる可愛いおじちゃん、まさにこれ。

 そういうおじちゃんの話って、正座して理屈で理解するんじゃなくって、その場限りの感覚でゲラゲラ笑いながら聞くでしょ、それで十分、難しいことは何もないっていうのが村○春樹のエッセイのいいところ。

 普通のハ○キストなら村○ラヂオをお勧めするのかな、でも俺のおすすめは断然村○T。これは村○春樹が某ファッション雑誌に連載していたコラムをまとめたものなんだけど、体裁としては自分が愛蔵しているTシャツを紹介するって形になってる。だけど自分が西海岸で暮らしていた頃の話をお得意の「自分語り」したり、自分の小説のノベリティTシャツの話はやたらいきいき書いてあったり、ともかく素が隠せていない感じがなんとも可愛らしい。

 つまり、村○春樹を楽しめるかどうかというのは、そうした親戚筋にいるちょっと変わり者のおっちゃんを愛せるかどうかという感覚に似ているのだ。そして俺はそういうおっちゃんがすごく好きな子供だった。だからおっちゃんの素が見えるエッセイが大好きだし、毎年ノーベル賞の時期に残念会があるとか、ラジオで話した蕎麦屋で後ろの席に座った若者が自分の作品を貶していた話とか、そういったハ○キネタが大好きなのである。

 つまり俺が好んでいるのは村○春樹作品ではなく『村○春樹というコンテンツ』であると、ここで今回のタイトルを回収。

 だけど、人には相性というものがある。特に親戚の大人たちに相手にされなくて、子供に与太話を聞かせるようなおっさんが万人誰にでも好かれるなんてあり得ない。むしろ胡散臭いおっさんだな〜って警戒する方が普通だと思う。

 だから、どうしても村○春樹好きになってね〜、これが嫌いなら君の感覚はおかしいよ〜とかいうつもりはこれっぽっちもない。ただ、長編で挫折したからってエッセイを一作も読まないのは勿体無いよ、ということは間違いない。だって『村上春樹というコンテンツ』の良さは、そこに全てが集約されているのだから。

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