本編――恢炉あおいの悪習 Ⅴ

 扉が開いた。兄が私を見た。兄? ――見たことのない目をして私を見る。

 私は飛び起き、寝台の毛布を取って身を覆った。起き上がれば後退あとずさることにもなる。歩調を合わせるかのように、一歩、二歩、兄は私の部屋へ踏み込んでくる。兄は足許を見る。粘液と腺液に濡れたディープ・マゼンタのディルド。222mmの擬茎は床に転がったまま、兄の視線に釘付けにされている。取れない。手を伸ばせない。

「は――」私はほとんど言葉にならないような声を張って兄の暴挙に抗議した。「はぁ!?」

「あおい、おまえ、おれのごみ箱を漁ってくれてるよな、ほぼ、毎日」

 擬茎を避けて一歩二歩、またも進んでくる。その目はまた私を見ている。怒りとも憎しみとも違う、しかし見たことのない色をして。これは何だ、切迫?

「は、いや――出て、今! 這入んな! ねえ!」

「わかってるんだぞ、おまえが裏で何をしているのか」

 抗議の声が止まる。あおいの顔が情けなく、少しだけ笑っているように引き攣った、ように見えた。そんな表情を、ぼくは今まで見たことがなかった。ぼくは薄い毛布越しにあおいの肩をつかんだ。あおいの肩は伊藤のよりも柔らかく、下腹に流れ込んだ血が針のように尖った。あおいは少しだけ身を捩ろうとして、やめた。

「壁越しにずっと聞こえてたんだ、おまえがほとんど毎日、自分でしてるときの声が。ほとんど毎日、おれの部屋のごみ箱から無くなっていた。それを使って、していたんだろ? ずっと」

 あおいの顔の引き攣りが弱まって、いつものむっつりした表情に少しだけ戻った。何か言ったように唇が震えた。前後はわからず、ほんの一言だけが聞こえた。

「それ?」

 それきり兄は何も言わなかった。ただ私の肩をつかんで、まっすぐ私の目を見た。

「それが――何。兄さんだって、ずっと、これ見よがしにあんなものを置いていた。あれは、あれは――持って行けってことでしょ、使えってことでしょ。責められる謂われなんて無い!」

 その通りだ。あおいを責めるつもりも、責める権利もぼくにはない。

 こうして現場を見てしまった以上、言わなければならない――ぼくは一度あおいの顔から目を逸らした。少し下を見た。薄い毛布の向こうの裸の胸、腹、尻、脚。これだ、ぼくは思った、ひとつになるべきなのはぼくたちなんだ、他の誰とでもなく。

「ごめん、あおい。おれもそうだった。この二か月、いやもっと、隣の部屋で想像していたのはおまえだった」

 懺悔――告白――少し俯いた兄はまた目を合わせた。嘘は無かった。

「おまえなんて言わないで――兄さん」

「兄さんなんて言うなよ」

 胸を打たれる。いや修辞ではなくて拳だ。あおいが毛布の裾から拳を突き出して胸を殴った。そのまま全身で前に向かってくる。ぼくは後ろに転がる。あおむけになったぼくに馬乗りになって、両手で肩をおさえてあおいが言う。

「あおいちゃんって呼べ!」

 目に涙が光った。その顔が滲んだ。

 あおいちゃん! 桃李ちゃん!

 泣き笑いでじゃれあう。布越しに抱きあう。あおいはいつの間にか床に置いてあったものをベッドの下に蹴り飛ばして、桃李は頬に鼻先に耳にむやみやたらと唇でふれる。

 顔を見合わせる。唇どうしが触れあう。

「桃李ちゃんも脱いで」

「うん」

 衣服と毛布を脱いでどちらも裸になる。桃李は私の胸を、手をめいっぱい開いて包み込むように触り、あおいはぼくの胸や腹をぺたぺたと指の腹で撫でる。舌先が交わる。唇を合わせたまま目が開く。視線が交わる。

 どちらももう準備はできていた。

 寝台に互いの正面を合わせて転がる。鮮やかに血の通った葵の花弁の色の肉に、どんな擬茎よりも熱く口先を腺液に濡らした陰茎亀頭が触れる。あおいが口を開くように腰をわずかに動かし、桃李が開いた口に餌付けするように腰を前へ差し出す。

 挿行。

 血漿に熱く燃える陰茎の注挿運動が、先刻の余韻に平仄を合わせて脳髄にまで響いてくる。

 体内の熱がぬらぬらと濡れて密着する。ゆるゆる動くとあるところであおいが息を詰めるのがわかる。

「我慢しないで、あおいちゃん」ぼくは囁く。「あおいちゃんの声、もっと聞きたいな」

 私は頷く。圧迫のたびに背骨が溶ける、肺が震える。

 やがて陰嚢は熱を帯びた動きを止めて硬く縮小し、呼気が針のように尖りだす。動きが少し緩む。

 高まってくる。熱さで包まれる、これではすぐにも――浅いところへ腰を浮かす。あおいの脚が脇腹を撫でて、腰骨に触れて閉じる。

「我慢しないで、桃李ちゃん」私は囁く。「桃李ちゃんの精液スペルマ、ぜーんぶちょうだい」

「うん」

 ぼくは頷く。一滴も零れないように、いちばん奥まで深く差し込んで、両腕であおいを抱き締める。柔らかい胸に胸をぴたりと合わせる。

「あーげー、る――――」

 律動。開門。播種。

 あおいを真似て、上手く真似られているだろうか、小さく喘ぎながら種を撒く。熱い泥のような培地に撒く。律動のたびに搾りあげられるようにわずかに茎の芯が痛む。耳元で兄の末魔めいた高い呻きが聞こえる。耳元であおいの熱い吐息の音が聞こえる。離れないで、ひとつのままで。何も言わなくてもわかった。ふたりははじめからひとつだった。


 両親は今日明日と箱根まで旅行に出ている。ぼくたちは夜遅くまでぴたりとくっついてすごした。すっかり疲れて、少し話して、いつの間にやら眠っていた。


   *   *


 晩の黒い乳、ぼくらはそれを宵に飲む。

 娩を鎖す橙、ぼくらはそれを朝に呑む。

 橙色のシートの上の、朝焼けの端の薄青い空の色の錠剤を私は摂る。

 女を免じること――いや、女であることをゆるされる要件を鎖で閉す。

 胡散臭い素人解釈では恐らくそういうことなのだが、今朝は私は十の三分の一億の子どもたちの死をいっそうはっきりと感じ取って晴れやかな心地でいる。

 膣は酸の湖沼。

 pHペーハー4、葡萄酒よりやや低い弱酸性の環境は少なからぬ微生物にとり致命的で、免疫機構と相俟って99%の配偶子を死滅させる。

 それでも、十の三分の一億の百分の一、即ち三百三十三万三千三百三十四、のSpermatozoidenが、既に排卵されたOvumへ殺到する。ひとつは受精に至るだろう。三百三十三万三千三百三十三のSpermienが弱酸の沼の中に融解し、0.15mm、0.06mmのSpermiumの2.5倍大の細胞がひとつ、子宮に落着する。

 しかしそれもまた、空の色の錠剤によって、地へと流されて墜ちる。

 十の三分の一億の兄の命の片割れのすべてが死に絶える。

 私は澄んだ空のような心地で、橙色の薄い合成樹脂を手の内に握り潰した。


 あおいは一足先に部屋を出て、裸のまま窓際に立って、いつものようにインスタントコーヒーを飲んでいる。

 昨日ぼくが犬のような姿勢で縋りついた、あおいが器用に打ち下ろした尻が、素裸で朝の空気に曝されている。今朝の気候ではそれは湿り、澱みさえしないだろうか? 空一面の曇り空は、西に行くにつれて灰の色を濃くしていくようだった。

 ぼくもインスタントコーヒーを入れてあおいの隣に立ち、マグカップで軽く乾杯して、同じに飲んだ。

 ――ゆうべ、眠る直前に、自殺騒ぎのことで話をした。

 ぼくはずっと、あおいのひそかな楽しみのために人が死んでいるのではないかと思っていた。

 私はずっと、桃李の用意する白い花のために人が死んでいるのではないかと思っていた。

 振り返ってみれば、ばかばかしい、くだらない思い違いだったのだ。

 ぼくたちふたりがはじめからひとつであるなら、答えもただひとつだけだった。

 ぼくはあおいの隣で、インスタントコーヒーの最後の一滴を啜りながら、ゆうべ自分は何度あおいに播種しただろうか数えた。

 私は桃李の隣で、インスタントコーヒーに濡れた唇を舐めながら、鼻粘膜に触れた何倍の配偶子が私の中で死ぬだろうと考えた。


 78 × (1,000~100,000(?)) × (4~6)


 旅客機が雲を割ってほとんど直角に落ち、武蔵小杉のタワーマンションのひとつを直撃する。

 旅客機の片翼は既に砕けていた。切り離されていた左翼が隣接するタワーマンションを両断する。機首から突っ込まれたタワーマンションは屋上近くの部分にはじまって五割ほどの長さを旅客機に抉り取られる。上下に分断されたタワーマンションは、支えを失った上部は自然に傾きながら倒れて地上へ落ち、下部は墜落する旅客機に圧し潰されて乗客と共に爆発した。まっぷたつになったタワーマンションが遅れて倒壊し、ばらばらと胡麻粒のように見える瓦礫と人間を吐きながら、高層住宅は南武線の駅舎へ崩落していく。

 ――どれほど少なく見積もっても、万単位の人が死ぬ。

 十の三分の一億の人間が死ぬのだ、ぼくは思った、そして世界は滅びないだろう。

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