本編――恢炉あおいの悪習 Ⅳ

 夏祭りから一週間が過ぎ、七人が死に、夏休み前最終日。

 終業式があって、昼からファミレスに屯し、夕方に帰ると、あおいが先にいる。

 呼吸音が籠もる。ときおり引き攣るように調子が変わる。息をいっそう強く吐いたときは、喉を荒い気体が通ってざらついた音で振れる。

 ゆうべごみ箱の上に置いておいたティッシュは持ち去られている。

 今頃あれを使って楽しんでいるのだろう。

 ファンタジーの中にあおいの声が這入り込んでいる。別の誰を思い浮かべても、声色と息遣いだけはあおいのものが上から被さってくる。少しむくれっ面のあおいの、すっかり大きくなった胸や尻の、なまっちろい色白の肌に、――――――を想像している。


   *   *


 小学校高学年からぼくが中学に上がってすぐの頃まで、あおいの方が背が高い時期があった。

 肌の色も変わらず、髪質も似ていて、まだその頃は胸もふくらんでいなかったあおいとぼくは、おかっぱ風に髪型をそろえてしまえばちょっとした双子のようになった。

 背が伸びたのがうれしくて、あおいは公園に出て走りまわった。鬼ごっこもかくれんぼもした。

 三年以上前のことになる。大昔だ。

 そう、ぼくが中学に上がって、次第に背を抜きなおしてしまって、ちょうどその頃コロナが広がったんじゃないか。

 マスクマスクマスクマスクマスク。

 消毒消毒消毒消毒消毒。

 三密三密三密三密三密。

 ワクチンワクチンワクチンワクチンワクチン。

 そんなことを言っているあいだに、薄い下着を付けていたあおいは、母さんのとほぼ変わらないブラジャーを付けるようになった、大人になってしまった。

 大人に?

 ぼくももう大人なのだろうか。

 声変わりはいつの間にか終わっていた。腋の毛も生えてきた。股の皮が捲れあがるようになったのはいつからだっただろう。生殖もまた可能になっているのか。それが大人に近付くということだろうか。あおいが大人になっているのだとすれば、ぼくもまた。

 あまりにも変わりすぎている。

 自同律に優越する生成の不快。

 ぼくは無時間的存在者を望む伊藤の気持ちに近付けただろうか?

 しかしその近付くということがまさに時間の中での変化であり、

 刻々と死へ近付く現実存在の存在様式そのものだとしたら――


   *   *


 夏休みに入っても、相変わらず人は死に続けているようだったし、妹のふるまいも変わらなかった。

 大人に夏休みは無い。八月に入っても両親は平日は仕事に行き、ぼくは文化祭に向けた文芸部の合評会や美術館巡りに出た。

 上野の美術館には筋骨隆々たる大男と組み合う天使や、六枚の翼を広げて宙に浮く天使を描いた絵が飾られていた。腕を掴まれる天使はしかし涼しげな顔付で、衣服も肌も大理石のように白く、その細いシルエットは菩薩に似ている。六枚の翼の天使はのっぺらぼうであり、翼の色は極彩色で、雲の切れ間から伸びるような光条を、地上の僧服の男に与えている。別の絵では天使は顔だけで、その周りに六枚の翼が生えている。

 それらをよく眺めていた伊藤は、合評会にも、ちょうど美術館のような回廊ばかりの建物を舞台に、ふたりの人物が、展示品のいちいちをとりあげては延々と会話を続けるというものを書いてきた。地質学的な時間が経過して展示品の多くは風化ないし故障しているのだが、会話しているふたりは、これらを使って眠り続ける肉親を揺り起こそうとしているらしい――そしてそれは蘇生と言うべきものではないのか。

 夕方に帰ってくるとやはりふたりきりになる。ただいまと言うとおかえりと返ってくる、部屋の中から。

 一応受験生らしく勉強に勤しんでいる。ぼくも夏休みの宿題を進める。日が傾いてきた頃、低い呻き声が聴こえてくる。ぼくもティッシュを手に取る。桃李――想い出す手の感触――桃李ちゃん――呻き――伊藤も?――末魔の声。


   *   *


 盆休みは両親の実家でみっかずつ過ごす。

 桃李くん、あおいちゃん、ようこそ――そう言って歓迎してくれる。

 そう呼ばれるのが、ぼくもあおいも、少し気恥ずかしい。いやあおいの内心まではわからない。装飾のない服を着て、いささか他人行儀ふうにしているあおいが、はにかんでいるように見えるだけだ。ぼくもあおいの目には同じように映っているだろうか。

 ぼくたちも、あおいちゃん、桃李ちゃん、と呼びあっていた時期が確かにあった。

 いつの頃までだったか、はっきりと思いだせない。


   *   *


 八月の末の土曜。

 夏祭りの晩に通った裏口からぼくは伊藤の家に通された。

 周りはみなブロック塀の中、そこだけが歳月を経た木板の垣だった。板は厚くまっすぐだった。その上には黒い瓦葺きの屋根があり、軒先の平らなへりが白く浮きあがるように光っている。

 塀の内側に這入ると、家の陰になって湿った土のうえに、丸い石を並べた通り道があって、そこを過ぎると屋内への入口があり、伊藤は鍵を開けて招き入れた。

 廊下の脇の襖は開いており、暗い部屋の中に低い机や、漆塗りの黒に黄金色で飾られた仏壇が見える。

 くすんだ畳。濃い色の箪笥。等間隔に並んだ五葉の遺影。

 廊下の頭上には、時間の黒く降り積もった丸木の梁、薄暗さに染まった天井の木板。

 曇り硝子の窓の内側も暑く、人の気配はなかった。

 足の裏に触れる板張りの床だけが冷たかった。

 厚い踏板で組まれた狭い階段を昇ると、伊藤の部屋があった。

 まず正面の本棚が目に入った。天井まである、これも木でできた本棚に、函入りのもの、焼けていかにも古めかしいもの、装丁が布で貼られたもの――が並んでいる。

 床は芝生の色の敷物、よく見ると薄い色でいちめんに紋様が描いてある、アラベスクらしい。這入って左に学習机、右にベッドがあるのはぼくの部屋と同じだ。本棚の横にはプラスチックの衣服ケースがあり、そこだけが現代的に見えた。

 ベッドに腰かけ、ペットボトルの麦茶を飲んだ。伊藤が蓋を開けて飲んだものをぼくに手渡す。飲む。300mlの小さなボトルはすぐに空になった。

 ぼくたちは手を繋いだ。唇の触れあうキスをした。

 背に腕を回して抱き締めあった。伊藤が耳たぶをんで囁いた。

 Breche mich, mein Pfirsich. Denk ewig, an nur mich.

 ――私を手折って、私の桃李。永久とこしえに想って、ただ私だけ。

 ぼくたちは腕を解いて、顔を見合わせた。伊藤の手がぼくの肩に触れる。ぼくの手が伊藤の肩に触れる。伊藤の肩は柔らかくぼくのより骨張っていない。

 キスをした。舌先で触れあって、上着を脱いだ。

 伊藤の下着には翼を象った紋様があった。胸に二枚、下履きの前に二枚、後ろに二枚。素肌のような色の下着に六枚の翼があった。六枚の翼のそれぞれの羽毛の輪郭は薄く虹色に輝いているように見えた。

 ぼくたちは互いに触りあった。伊藤は全身が柔らかく、人の体温というのはこんなに暖かいのだとぼくは知った。総身の血が心臓に集まって、今にも破裂しそうだった。胸ばかり熱く膨れあがった。だから――

 ぼくたちは裸のまま、胸から腹を合わせて、脚を互いに絡みつかせて、何も言わず抱きあった。伊藤の体は暖かかった。互いの汗が交じった。透明な腺液だけがわずかに伊藤の下腹に、腿に流れた。

 伊藤は何か言うこともできた。一般的な事実について話す、月並みな慰めの言葉をかける。それでも言わなかったのは、いつかのことへの返礼か。ぼくたちはただ抱きあいつづけた。

 日が傾きだしたあたりで服を着て、部屋を出た。

「またね」と伊藤は言った。ぼくも「またね」と言った。

 裏口の前で、五十メートルほど先にある角を曲がるまで、伊藤は胸の前に手を掲げて別れの挨拶に振ってくれた。ぼくも同じように手を振りながらできるだけゆっくり歩いた。

 角を曲がって、ぼくは走りだした。

 異様な考えが頭の中を埋めて離れなかった。

 ぼくはこんなところで何をやっているんだろう?

 伊藤と唇を触れあわせたときから、背を抱き締め、肩を撫で、全身で抱きあっている体を離したそのときまで、ずっとずっと、と思っていた。

 血が全身に逆流していた。指先まで酸素が巡った。道に陽炎の出る炎天下を全力で走った。家の隣のアパートから人が落ちて行った。それを尻目に階段を駆け上がった。家へ入り、ぼくはあおいの部屋の扉を開け放った。あおいは部屋の中央に転がって、裸を晒して喘いでいた。喘鳴の音が止まった。

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