本編――恢炉あおいの悪習 Ⅲ

 自殺者は皆不思議と、人目に付く場所を選ぶらしい。必ず一人は居合わせている。目と目がしっかりと合ったわけではない。それでも目撃者はその場に釘付けにされ、人ひとりが高所から落ちて死ぬのを見ることになる。

 ぼくも自殺者を見た。部活が遅くなって午後七時、夜だった。暗い時間は平気だと思っていた。甘かった。

 通学路に工場があり、道路に面した白い煤けたサイロから人が落ちた。その人はそのときチャルメラを吹いていて、ぼくが見上げたので飛び降りた。

 体は何の抵抗もなくアスファルト舗装路に落ちていった。アスファルトに体がぶつかる音の長く響く中に、体の中で多くのものが砕ける音が、ぼくの耳まで届いた気がした。

 首は背中側を向いていた。目は空を見て、うつぶせに倒れていた。背中は、肩甲骨は壊れて、脇腹の背中側あたりまで(といえばいいのだろうか)赤く、黒かった。白いシャツを着ていた。下半身は無事のようだったけれど、命を保つための臓器が、うつぶせになった体の下側でめちゃくちゃになっているからには、どうにもならなかった。

 近くに交番があったので警官を呼んだ。しばらくこの場にいるようにと言われた。あおいと両親に遅くなると連絡した。部活の友達と遊びに行っていると言えば角は立たない。八時半に解放され、マクドナルドに入ってポテトを食べた。


 深夜、ソファでテレビを見ていたとき、あおいが隣に座った。

 親が帰る時間になると妹は長袖のシャツとスキニーに着替える。これも黒い。寝るときにはスウェットに着替える。これは濃い灰色をしている。娘のゴシック・ロリィタ趣味を両親も知らないではないだろうが、あおいはクローゼットに服を架けておいて、親の前ではその服は着ない。

 一張羅、魂の衣服、鎧――むやみに見せびらかすことはしない、らしい。

 窓際に吊られた下着の並びのなかに、あおいの灰色のブラジャーがさがっている。薄青のかわいらしいデザインだった下着が、中学一年の秋から急に大きくなって、今ではこれはこれで鎧のような、かわいげのない色の分厚いものに変わった。

 色白で、機嫌の良さそうな顔はめったにしない。それが灰色の服でいる。

 やつれた? とあおいが聞くので、そうかもしれないと言う。

 それなら、私が肉を付けなければならない――私たちはふたりでひとりなのだから。

 片腕が寄り添って、指の背だけが触れあった。最後に手を結んだとき(いつだろう?)より柔らかい気がした。


   *   *


 いつからだろう。いや勿体ぶらなくても覚えている。

 六月の第二土曜日、兄の部屋へ本を借りに行った。入って右手に寝台、左手の壁際に学習机と本棚がある(『暗黒のメルヘン』『ゴシックハート』『迷宮としての世界』)。漫画の文庫本を本棚に差して、隣の一冊を取る。時計回りに回って部屋を出ようとしたとき、あるものに気付いた。

 いや、這入ったとき既に視界の中にあった。

 部屋に入ると扉の、即ち六時の方面から時計回りに、衣服の入ったカラーボックス、本棚、学習机、本棚、ハンガーラック、寝台と並び、ハンガーラックと寝台の間のデッドスペース、十二時の方面、扉の正面にくずかごがあった。

 そのくずかごが、丸められた紙にあふれている。

 ひとつを拾い上げる。萎れたちり紙を嗅ぐ。――花の臭いがある。

 私は残りの紙くずも拾い上げた。六つの萎れた、腺液を拭き取って乾き、中心にわずかに濡れた感触が残っているちり紙。兄が最近使いだしたティッシュペーパーの、絹めいた滑らかな手触りと甘い匂いに、別のものの臭いが確かに染み付いている。

 私は白い花を持ち帰って抽斗に収納した。


   *    *


 結局部活動は中止されなかった。中止はされたが連続自殺とは関係が無かった。

 一学期の期末試験があって、今日無事に終わった。

 七月の第二金曜日で、駅前から神社の境内にかけて夏祭りの屋台が並んだ。ぼくは伊藤と待ち合わせて回ることになった。

 伊藤は「浴衣は卑俗に過ぎる気配があるから」と藤色のワンピースを着て来た。ぼくは少しきれいめの服を着て行ったが、伊藤の方が綺麗だと思った。素直に褒めた。

 一年に一度か二度浴衣を着る人群れに交じってぼくらは屋台を回り、おみくじを引いた。お祭りらしくどちらも大吉だった。ぼくは「恋愛」の項を見た。

「積極的にせよ」


 そのときぼくたちはかき氷を食べていた。ぼくはブルーハワイ、伊藤は苺だった。救急車のサイレンが聞こえて、それがどんどん近付いてきた。すぐ近くで停まった。救急車が停まった方角だけ、ざわめきがひときわ大きくなったようだった。怪我人らしかった。ぼくたちは一緒に見に行くことにした。浴衣や部屋着に交じってぼくたちも野次馬になった。

 あちらこちらへ進む人でごった返していて、全然進まなかった。サイレンが鳴り続け、負けじと声を張り上げる人が密に集まった。密集、密着、騒ぎの中心にたどり着くまでにおおよそのことはわかってしまった。

 私鉄沿いに敷地を持つ神社の前にはパチンコ屋があり、夜でもビカビカと光を放って明るいハコモノの周りは、強すぎる光を受けていっそう暗くなっていた。その四階建て程度の低い建築群の一角から人が飛び降り、群衆に落ちた。

 頭が砕けた。血が流れた。手足がばたばた動いた。

 ざわめきの中心点に行くまでに、救急車は怪我人(いつまでそう呼べばいい状態にあるかはわからない)を乗せて去って行ってしまった。それでも野次馬は人が落ちたところを囲って離れないでいる。ぼくたちも中心に向かって歩いていき、歩いていくというより人の流れに乗せられて中心へ行き、落ちてきた人と頭を割られた人が倒れていたところを見た。

 血だまりがあって、そこに割れた頭が崩れ落ちたのだとわかった。群衆の中に、ぽっかりと穴があいたように、三メートルほどの楕円の隙間ができていて、人がいなくなった後にも、地面に落ちていた影を踏まないように、あるいは人の肉が占めていた空間に這入らないようにと、野次馬皆が言うともなく警戒しているようだった。

 ぼくは血だまりを見た。20センチくらいの丸い溜まりから流れて、いっそう大きな痕ができていた。首筋や衣服に染み込んだ血が、半端なひとがたに痕を残したらしかった。生乾きの鉄に交じって血でないものが臭う気がして、内心蒼褪めた。横目に見た伊藤は、眉間に深い皺を寄せた。丸い目が剥かれた。血が肉の表面を多く巡っているように、拳が赤くなった。

 ヤコブと格闘し、フランチェスコに聖痕を与えた天使になりたい、と伊藤は言った。

 ぼくと伊藤は現場を離れて、かき氷の残りを食べた。

 かき氷が四分の一ほど残ったあたりで交換しようと伊藤が言いだし、ぼくは苺の、伊藤はブルーハワイのシロップの溶けた氷を飲んだ。舌を見せると端が青くなった。

 帰り道は途中まで同じだった。指の背を少し合わせてみた。伊藤は骨に沿うようにこれに触れた。小指と薬指を傾けた。親指と人差し指、それから中指がこれを捕まえた。二本と三本の指を結んだまま歩いて、あるところで止まると、そこが伊藤の家の裏口だった。

 ――桃李――ありがとう、さっきは。

 伊藤は言った。

 ――何も言わずに、そばにいてくれて。

「またね」と言って別れた。 飛び降りと巻き添えで合計ふたりが死んだらしいと、その翌日に妹から聞いた。


   *    *


 死に臨む存在Sein zum Tode、本来的現存在の先駆的決意性とは人間の死を通時的次元で捉えこれに対してとられるひとつの構えだが、死の事実の忘却に対する意識的把持、非/本来的と峻別される通時的次元を考慮するまでもなく、現存在は共時的次元において既に死に覆われている。

 皮膚は日々外縁の死骸を剥落させ、口は日に三度種々の屍に塞がれる。

 消化器は内部へ嵌入した外部であり、肛門は長い時間をかけて腐らせた滓を絞り出す。

 Tod um Sein.

 屍の中の私。

 六週間で四十五人が等しく飛び降り自殺によって命を絶った。一日二日間をあけた後には埋め合わせとばかりに数時間おきに複数人が死に、平均して一日ひとりの歩調をほぼ完全に規則的に保って一か月半が経つ。

 マスメディアは地域局ですら一週間過ぎたあたりでもう報道しなくなっていたが、ローカルな関心も結局は三週間と保たなかったのではないか。

 兄は部屋の壁の染みを気にしていたが、あれも結局どうでもよくなったのかもしれない。恋愛にこだわっているらしい。穢らわしいとは思わない。私もまた――

 唯一新聞の地域欄だけが、あたかも義務的に、あくまで事実の報告に徹するかたちで、日々の自殺者のあったことを報じ続けている。父が読んだものを確認して、前日の自殺者の場所と数を知る。

 あるいは本当に気にしすぎである可能性。

 Tod um Sein.

 年間の自殺者は三万人。仮に365人死のうと100分の1。全体の1%に過ぎない。

 自殺者三万人に行方不明者八万人を合わせれば、一年間に寿命以外の理由で消えている者の数は十一万にのぼる。

 東日本大震災、観測史上最大クラスの巨大地震と未曾有の津波による死者(関連死、災害の余波を含めて二万余人)の五倍以上の人間が毎年消えている。そのうちの、たかだか、365人――それが何だというのだろう? もし、その原因が――これは全く荒唐無稽な思い付きなのだが――兄の日々の自涜、その帰結としてのtägliche Samenergüsse, und Tod der Spermatozoidenだったとしても。


 連絡。いつも通り、私はクローゼットを開き黒い下着を見繕う。

 絹――蟲が吐く繭糸を採るために、蛹を煮殺して蒐められ織られた布。

 仕立てられた死が黒く染まっている。

 図像は三様。

 Schmetterlingen, 蝶蛾じょうが

 Heidenröslein, 野薔薇のばら

 Höllenhund, 閻狗えんく

 なんぢ、蝶蛾よ、燃え尽きむ、

 わらべは折りぬ、野なかのばらを、

 捨てよ一切の希望を、爾等この門をくぐる者。


 行くのは川崎のヴィレッジヴァンガード。

 そして林立するペール・マゼンタの天井。

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