恢炉あおいの悪習 統合版
僕の部屋に黒い染みがいくつかある。
隣の部屋――妹のあおいの部屋との境の壁で、勉強用の机が中央に据わり、小さな本棚が両脇に並び、その上の壁には何も遮るものがなく、そこに点々と黒い染みがある。
いつからあっただろう。わからない。
ただ、最近になって染みが大きくなっている気がする。そんなふうに見えるのは、単にここ最近の自分が憂鬱な気分に沈んでいるからであるかもしれない。
飛び降り自殺者が多い。
この一週間で七人死んだ。七日で七人死ぬならひとつきで三十人死ぬのか。
僕の通う高校でもひとりが屋上から飛び降りて死んだ。何人もが彼の飛び降りの瞬間を見ていた。遺書は無かったそうだ。しかしどう見ても自殺だった。施錠されていない屋上にはその時刻彼以外に誰もおらず、殺されたのではないらしいことだけが、救いというか、不幸中の幸いだった。南武線沿いに同じような飛び降り自殺がもう六件あった。
駅ふたつぶんと離れていない地域で、一日にひとりのペースで人が死んだ。本当はそのくらいかもっと速いペースで人は死んでいるのだけれど、不思議と目撃者が多い自殺ばかり相次いだのだった。クラスメイトも、道行く人も、みな少しだけ高いところを見上げているようだった。自殺者を目にするのではないかとこわごわしながら、自分の頭の上に人が落ちてくることがないように。
染みが死者に見えるのかもしれない。
憂鬱なことがもうひとつある。本当に恥ずかしいほど小さなことなのだけれど、先週の土曜日、部屋のゴミ箱からティッシュが消えた。
母さんもいいかげん干渉しなくなってきたし、ゴミを持ち出すなら袋ごと持って行くはずだ。誰も見向きもしないやと、後片付けをしたティッシュをゴミ箱のてっぺんにのせていたのが間違いだった。
その日からあおいの声がいっそう激しくなっている。
集合住宅の壁は薄い――少しでも大きな声を出すと、壁一枚隔てて向こうに聴こえるものだ。
あおい、僕、両親の順で並んでいるおかげで、多分母さんも父さんも娘の醜態を知らない。知らなくていいと思う。
壁の向こうで妹がどんなことをした結果こんな声を出しているのか僕は知らない。
妹と僕の部屋を隔てる壁には人の顔の形の染みがある。
* *
存在の低い底に溜まっているものが、深みから臭ってきて私の鼻腔を犯す。
十の三分の一億の兄の命の片割れが、乾いた紙の上に揮発して死んでいく。
私は濡れる。
張り詰めた陰核亀頭は存在から虚空へ伸びる鋭い針。
覆いの下の前庭膣孔は胎内から虚無へ繋がる暗い口。
ディープ・マゼンタのディルド。
練り込まれたラメの光る222mmのディルドがローションに光る。
跨る。
紛い物の陰茎亀頭が孔状の内蔵へ穿入する。筋肉管を圧し潰しながら進むディープ・マゼンタのディルド。穿たれる、潰れる、喉が
螺鈿の如く輝くディープ・マゼンタのディルドは、吸盤で床に張り付けられている。私のGeschlechtsorganが擬茎を喰う。兄の命の片割れの
両脚に力を籠めてディープ・マゼンタのディルドを引き抜く。筋肉管が陰茎亀頭をしゃぶる。息を吐きながらディルドを喰う。入るだけ入れて脚に力を籠めて私はディルドを撫でる。偽物の睾丸は粘液にぬめり命を生産しない。護謨の海綿体はひとしずくの漿液もかよわせてはいない。敏感だという裏筋には一本たりとも神経は通っていない。膨張して造形された陰茎亀頭は血潮に満ちた本物のように赤くはない。粘液にまみれた指が私の赤熱した針を撫でる。持ち上げていた腰を一挙に落とす。
眼球が燃える。Acmeが弾ける。
改めて死ぬ。暗い場所を脳が見せる。
天の光は白く、それ以外はすべて黑く、私は落ちる。
私は落ちる――暗い部屋のフローリングの床に。
* *
高校に入ってから柔らかいティッシュを持ち歩くようになった。
臭いも味も甘い。
甘い高校生活を夢見ていた。地元の友人も多いとはいえ、新しい環境(そう、十年一緒だったあおいともおさらばしたのだ。幼稚園と小中学校は同じ方角にあった)で新しい何かがあると。
成果はないではなかった。
文芸部に知己を見出したと言えば格好がつく。
「埴谷雄高は」と伊藤が言う。「ヘーゲル的存在即同一性の自同律に対する不快という実存的な感情を表明したわけだけど」――伊藤愛梨という。部長が伊藤なので口頭では愛梨と呼ばれている。でも伊藤と書けばここでは伊藤愛梨だけだ。
『死霊』は読み進めているが僕はこれならドストエフスキーの方が読みやすくて好きだ。夜遅くまで帰ってこない両親のような大人に比べればいくらでも時間がある僕たちは、授業が終わると部室に集まって黙々と本を読んだり話したりした。
「ドストエフスキーの登場人物はいささか演劇的に過ぎるんだよね」と伊藤が言う。
「翻訳の問題もあるのかもしれないけれど。『死霊』のや、あるいはそれこそ推理小説の登場人物みたいな、人間味のない方が私は好きかな」
「人間じゃないみたいな感じ?」
「身体が無いみたいな」
身体が無くても生きていけるなら、それって最高じゃない?
言葉が砕けて彼女は笑った。にっこりと。
楽しい話題ばかりならいいのだけれど、ティッシュのように甘い見通しだったということにも気付きつつある。
世界は普段僕が思っているよりも不安定で、いつ何が起こるかわからない。
今日も昼休みに生徒が飛び降りて死に、明日はきっと別の誰かが武蔵小杉のあたりで飛び降りて死ぬだろう。連続飛び降り自殺は終わらないのではないかと僕は感じている。
テレビを点ければウクライナの戦争は続いていて、中台海峡はいつも通りキナ臭く、コロナ騒ぎは収まっているのかいないのかもよくわからない(しかし学校ではマスクと黙食の徹底がまだ布かれている)。
不安定さが不安定さのままでいつの間にか安定している。
それは――少し、怖い。怖い?
いや怖くはない。怖いなと言えばそれっぽいなと思ってはいる。けれどそれはそれっぽいだけで、怖さではない。何かを明確に怖がっているわけじゃない。今の僕の気持ちは、むしろ、不安じゃないだろうか。それもかなり薄まった不安。しかし不安とは対象を持たないのであるから、もとより曖昧としたものであるのかもしれない。
今日も妹は楽しんでいる。――午後六時。
ステレオタイプな声ではない。呻いているとか、唸っているとか言う方が近い。
本当にどういうことをしてああいう声を出しているのだろう。
流石に自重しているのか、高まったときにいっそう声を上げるということもない。そもそもがファンタジーなのか。どのみちぼくにはわからない。
ゴミ箱の袋を取り換えて台所のゴミ袋に放り込み、新しくティッシュを入れてやった。六時半。妹は僕より下校が早い。明日の夕方にはティッシュは無くなっているだろう。
壁の染みは昨日よりも大きくなっている気がする。多分、明日も人が死ぬ。
* *
授業が終わると全校集会が開かれた。体育館に生徒が集められた。じめじめした広い場所に衣替え間近の黒い服の人間が密に詰め込まれた。密閉を防ぐために窓が開放されて、湿気の多い空気がこれでもかと中に入ってきた。
一週間足らずのうちに同じ学校でふたりの生徒が自殺する。異常事態――明らかに良くないことだった。電球のように頭が光っている校長先生が、悲しいことがありました、と言って、生徒を慰め、宥めるようなことを話す。
校長の話は決まり文句だけでできていて、ほんとうに重要なことには触れていない。
なぜこのようなことが起きるのか。そもそもこの二件の自殺は、一連の連続自殺の一環なのではないか。だとしたら、この連続自殺はなぜ起きているのか。
疫病と世界戦争への不安。未来の見通せなさ。
でも、ぼくたちはもう慣れっこになってしまった。生憎と、敷かれたレール、ジェンダーロール、確かな未来が見えているという経験は、旧世紀を知らない子どもたちには、初めから縁が無かった。不安がっているのは大人たちで、自分の不安を若者に投影して何か言っている。
今日は伊藤とは会わなかった。クラスが違うと放課後の部活以外では会う機会がない。
午後六時――妹は今日もひとり楽しんでいる。両親は今日も八時過ぎに帰ってくる、夕方の家には僕らふたりしかいない。呻くような声が黒い染みの向こうから聴こえてくる。
* *
おととい三人が飛び降りて以来、この二日は自殺者が無い。
黒い染みは広がっているような気がする。横死した人の全身を象っているように見える。重曹とクエン酸で拭いてみても落ちる気配がない。
もしかすると目の錯覚だろうか?
隣にいる妹を呼ぶ。宿題を終わらせてからと言って、ややあって来る(これは本当らしい。壁越しには何も聞こえなかった)。いつも通りの全身ゴシック・ロリィタ姿。黒ずくめのレースとフリルに身を固めてあおいは部屋の壁を見た。ちゃんと見えていると言う。本当にある染みなのだろう。あおいはぼくの本棚から古い怪奇漫画を借りて部屋に戻った。いや勿体ぶらないでも楳図かずおだ、最近文庫になった。
ギャーーーッ
ギャーーーッ
ギャーーーッ
と、同じ顔、同じ台詞が何コマも続くが、自殺、これも同じように何日も何日も続いてきた。どうせまた始まるだろうとぼくは思っている。続くんじゃないか、あおい?
黒い染みは落ちず、自殺は続き、ティッシュは一昨日も昨日も消えなかったが、今日になって持ち去られた。
黒いと言えばあおいの服も黒い。中学一年生の冬頃から着ているように思う。
それまで小学生の服を着ていたのが、急に真っ黒けになり、それまでかわいらしい絵の表紙に描かれた少女小説(いや、時代がかっていてかわいらしくはなかった)を読んでいたのが、分厚く黒い表紙や装丁の本に走り出した。服が高いのでぼくの小遣いでほしい本を買ってくれと言う。ときおり引き受けた。古本屋の棚の埃臭い本だった。自分でもたまに読んだけれどあおいの方が詳しい。そのおかげで伊藤と話したことについてあおいに聴くと結構な割合で答えが返ってくる。永遠的な存在に対する時間的有限的な実存という観点は、云々。
ちょうど伊藤とそんな話をした。
時間は、時間による変化は、地上的な事物に特有の存在様式、実在の欠如である。天使や神は時間による摩耗をうけつけない永遠的な真実在であり、人の魂の永遠性もかれらの実在に由来した。方法的懐疑は自我の実在の論証に真実在する神を密輸したが、次第に自我が独立していき、かつて存在論的基礎だった神を失った。自同律の不快は密輸された根拠の消失による。
――基礎との関係を失ったから自我は浮遊する自分しか持たない、それで不快だと。
近代人の神の喪失というのは信心の希薄化というレトリックではなくて、自我の存立基盤に関する存在論的な変容の謂である、らしいんだ。
「天使になりたいんだ」――時間の無いものになりたい、と伊藤は言った。
「キューピッドじゃなくて、旧約聖書の
部活動はまだ問題なく続いている。これ以上自殺が連続するとどうなるだろうか、コロナとは違うから自粛する必要はない気もするけれど、自粛というのは合理的な理由があってするのではないからわからない。
ここ一年少々、あおいは服といい言葉といい、まるで武装だと思う。ぼくをよそよそしく兄さんと呼ぶようになったのも同じ頃だ。休日はあの服でどこかに出かけている。同じ趣味の知り合いがいるのだろう。どこのどんな人なんだろうか、ぼくは知らない。
* *
呼気と吸気の韻律を首尾一貫したものにする。
ひとたび息を吐くごとに肉を人造陰茎が貫く。
裁尾――いや裁尾ではない。
雌の器官を引き裂くように自涜。裁雌か。
筋肉管の全体を潰す。腺液が噴き出して股が焼ける。
痛みにも馴れた。もはや痛みではなかった。
ディープ・マゼンタのディルド。
鼻先には新鮮な、兄の命の片割れの底深い臭い。
噎せる。鼻を犯す。死せる兄の命の、十の三分の一億の片割れたちが、揮発して私の鼻粘膜を知る。片割れのいない粘膜に沈み、分子のひとつまで今度こそ死に絶える。死せる命が滲出液に溶け、全身を巡り、目指すべき場に辿り着くとき最早かれらはかれらではなくなっている。私は十の三分の一億の兄を、もう十二殺して、四十億の兄の命の片割れを殺して、叫びを殺して、再び死ぬ。Acme。意志的な自殺。
自殺――
半月で何人死んでいるのだろう。
兄は部屋の壁の染みを気にしている。憂鬱に覆われているらしい。
彼の高校では既にふたり死んだ。
部活動が無くなること、学級が別の人に会えなくなることが寂しいと、兄はそう思っていると私は感じる。
兄が日課のようにしているとき、きっと彼女を想っているのだと思う。
もう一度跨る。暗い中を落ちていくのが見える。再死。
* *
妹の鼻歌が移ったらしい。部活中に「野ばらなんて歌うの」と言われた。
ぼくは曲名を知らなかった。曲名というより詞の名前だった。
「21世紀育ちに言わせると、いささか気味の悪い詩だね。なに簡単な歌なんだが」
ひとりの少年が一輪の薔薇、野に咲く薔薇を見出す。若々しく朝露に輝く野ばらを近くで見るべく少年は走り寄り、たいそう楽しんでこれを見る。
少年は言う。「野に咲く薔薇、きみを折っていこう」。薔薇は言う。「きみを刺そう、
酷薄な少年は野ばらを手折る。薔薇は自らを守って手指を刺すが、痛みも呻きもこれを救い出すことはなく、その手に落ちることを免れない。
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
「茎を折られて根から切り離されれば――薔薇はすぐに死んでしまうだろう」
伊藤は言った。
「二十歳前後、法学生時代のゲーテが、エルザスのシュトラースブルクで逢瀬を重ねたフリーデリケという少女に重ねたと言われる詩なんだが、ふたりの関係は一年ほどしか続くことがなかった。破局だったようだね。 エルザス のフリーデリケは終生独身を貫いたそうだが、詳しいことはわからない。ロシアのエカチェリーナ二世は十人以上の愛人を生涯抱えていたそうだし、そういうこともありうる」
「別れてしまった女性と添い遂げたかった、生まれ育った土地から根こぎにしてでも一緒にいたかったという――願望充足――のようにも見えるよ」
伊藤は頷いて、しかしね桃李(
「それでも見ての通り、粗野な少年がヴォルフガングであり、荒れ地の薔薇がフリーデリケであるとすると、いささか慄然とせざるをえない含みがある。語のいかなる意味転義においても、まさか殺したわけではあるまいよ。しかし――彼は何を手折ったのだろうね?」
* *
自殺者は皆不思議と、人目に付く場所を選ぶらしい。必ず一人は居合わせている。目と目がしっかりと合ったわけではない。それでも目撃者はその場に釘付けにされ、人ひとりが高所から落ちて死ぬのを見ることになる。
ぼくも自殺者を見た。部活が遅くなって午後七時、夜だった。暗い時間は平気だと思っていた。甘かった。
通学路に工場があり、道路に面した白い煤けたサイロから人が落ちた。その人はそのときチャルメラを吹いていて、ぼくが見上げたので飛び降りた。
体は何の抵抗もなくアスファルト舗装路に落ちていった。アスファルトに体がぶつかる音の長く響く中に、体の中で多くのものが砕ける音が、ぼくの耳まで届いた気がした。
首は背中側を向いていた。目は空を見て、うつぶせに倒れていた。背中は、肩甲骨は壊れて、脇腹の背中側あたりまで(といえばいいのだろうか)赤く、黒かった。白いシャツを着ていた。下半身は無事のようだったけれど、命を保つための臓器が、うつぶせになった体の下側でめちゃくちゃになっているからには、どうにもならなかった。
近くに交番があったので警官を呼んだ。しばらくこの場にいるようにと言われた。あおいと両親に遅くなると連絡した。部活の友達と遊びに行っていると言えば角は立たない。八時半に解放され、マクドナルドに入ってポテトを食べた。
深夜、ソファでテレビを見ていたとき、あおいが隣に座った。
親が帰る時間になると妹は長袖のシャツとスキニーに着替える。これも黒い。寝るときにはスウェットに着替える。これは濃い灰色をしている。娘のゴシック・ロリィタ趣味を両親も知らないではないだろうが、あおいはクローゼットに服を架けておいて、親の前ではその服は着ない。
一張羅、魂の衣服、鎧――むやみに見せびらかすことはしない、らしい。
窓際に吊られた下着の並びのなかに、あおいの灰色のブラジャーがさがっている。薄青のかわいらしいデザインだった下着が、中学一年の秋から急に大きくなって、今ではこれはこれで鎧のような、かわいげのない色の分厚いものに変わった。
色白で、機嫌の良さそうな顔はめったにしない。それが灰色の服でいる。
やつれた? とあおいが聞くので、そうかもしれないと言う。
それなら、私が肉を付けなければならない――私たちはふたりでひとりなのだから。
片腕が寄り添って、指の背だけが触れあった。最後に手を結んだとき(いつだろう?)より柔らかい気がした。
* *
いつからだろう。いや勿体ぶらなくても覚えている。
六月の第二土曜日、兄の部屋へ本を借りに行った。入って右手に寝台、左手の壁際に学習机と本棚がある(『暗黒のメルヘン』『ゴシックハート』『迷宮としての世界』)。漫画の文庫本を本棚に差して、隣の一冊を取る。時計回りに回って部屋を出ようとしたとき、あるものに気付いた。
いや、這入ったとき既に視界の中にあった。
部屋に入ると扉の、即ち六時の方面から時計回りに、衣服の入ったカラーボックス、本棚、学習机、本棚、ハンガーラック、寝台と並び、ハンガーラックと寝台の間のデッドスペース、十二時の方面、扉の正面にくずかごがあった。
そのくずかごが、丸められた紙にあふれている。
ひとつを拾い上げる。萎れたちり紙を嗅ぐ。――花の臭いがある。
私は残りの紙くずも拾い上げた。六つの萎れた、腺液を拭き取って乾き、中心にわずかに濡れた感触が残っているちり紙。兄が最近使いだしたティッシュペーパーの、絹めいた滑らかな手触りと甘い匂いに、別のものの臭いが確かに染み付いている。
私は白い花を持ち帰って抽斗に収納した。
* *
結局部活動は中止されなかった。中止はされたが連続自殺とは関係が無かった。
一学期の期末試験があって、今日無事に終わった。
七月の第二金曜日で、駅前から神社の境内にかけて夏祭りの屋台が並んだ。ぼくは伊藤と待ち合わせて回ることになった。
伊藤は「浴衣は卑俗に過ぎる気配があるから」と藤色のワンピースを着て来た。ぼくは少しきれいめの服を着て行ったが、伊藤の方が綺麗だと思った。素直に褒めた。
一年に一度か二度浴衣を着る人群れに交じってぼくらは屋台を回り、おみくじを引いた。お祭りらしくどちらも大吉だった。ぼくは「恋愛」の項を見た。
「積極的にせよ」
そのときぼくたちはかき氷を食べていた。ぼくはブルーハワイ、伊藤は苺だった。救急車のサイレンが聞こえて、それがどんどん近付いてきた。すぐ近くで停まった。救急車が停まった方角だけ、ざわめきがひときわ大きくなったようだった。怪我人らしかった。ぼくたちは一緒に見に行くことにした。浴衣や部屋着に交じってぼくたちも野次馬になった。
あちらこちらへ進む人でごった返していて、全然進まなかった。サイレンが鳴り続け、負けじと声を張り上げる人が密に集まった。密集、密着、騒ぎの中心にたどり着くまでにおおよそのことはわかってしまった。
私鉄沿いに敷地を持つ神社の前にはパチンコ屋があり、夜でもビカビカと光を放って明るいハコモノの周りは、強すぎる光を受けていっそう暗くなっていた。その四階建て程度の低い建築群の一角から人が飛び降り、群衆に落ちた。
頭が砕けた。血が流れた。手足がばたばた動いた。
ざわめきの中心点に行くまでに、救急車は怪我人(いつまでそう呼べばいい状態にあるかはわからない)を乗せて去って行ってしまった。それでも野次馬は人が落ちたところを囲って離れないでいる。ぼくたちも中心に向かって歩いていき、歩いていくというより人の流れに乗せられて中心へ行き、落ちてきた人と頭を割られた人が倒れていたところを見た。
血だまりがあって、そこに割れた頭が崩れ落ちたのだとわかった。群衆の中に、ぽっかりと穴があいたように、三メートルほどの楕円の隙間ができていて、人がいなくなった後にも、地面に落ちていた影を踏まないように、あるいは人の肉が占めていた空間に這入らないようにと、野次馬皆が言うともなく警戒しているようだった。
ぼくは血だまりを見た。20センチくらいの丸い溜まりから流れて、いっそう大きな痕ができていた。首筋や衣服に染み込んだ血が、半端なひとがたに痕を残したらしかった。生乾きの鉄に交じって血でないものが臭う気がして、内心蒼褪めた。横目に見た伊藤は、眉間に深い皺を寄せた。丸い目が剥かれた。血が肉の表面を多く巡っているように、拳が赤くなった。
ヤコブと格闘し、フランチェスコに聖痕を与えた天使になりたい、と伊藤は言った。
ぼくと伊藤は現場を離れて、かき氷の残りを食べた。
かき氷が四分の一ほど残ったあたりで交換しようと伊藤が言いだし、ぼくは苺の、伊藤はブルーハワイのシロップの溶けた氷を飲んだ。舌を見せると端が青くなった。
帰り道は途中まで同じだった。指の背を少し合わせてみた。伊藤は骨に沿うようにこれに触れた。小指と薬指を傾けた。親指と人差し指、それから中指がこれを捕まえた。二本と三本の指を結んだまま歩いて、あるところで止まると、そこが伊藤の家の裏口だった。
――桃李――ありがとう、さっきは。
伊藤は言った。
――何も言わずに、そばにいてくれて。
「またね」と言って別れた。 飛び降りと巻き添えで合計ふたりが死んだらしいと、その翌日に妹から聞いた。
* *
死に臨む存在Sein zum Tode、本来的現存在の先駆的決意性とは人間の死を通時的次元で捉えこれに対してとられるひとつの構えだが、死の事実の忘却に対する意識的把持、非/本来的と峻別される通時的次元を考慮するまでもなく、現存在は共時的次元において既に死に覆われている。
皮膚は日々外縁の死骸を剥落させ、口は日に三度種々の屍に塞がれる。
消化器は内部へ嵌入した外部であり、肛門は長い時間をかけて腐らせた滓を絞り出す。
Tod um Sein.
屍の中の私。
六週間で四十五人が等しく飛び降り自殺によって命を絶った。一日二日間をあけた後には埋め合わせとばかりに数時間おきに複数人が死に、平均して一日ひとりの歩調をほぼ完全に規則的に保って一か月半が経つ。
マスメディアは地域局ですら一週間過ぎたあたりでもう報道しなくなっていたが、ローカルな関心も結局は三週間と保たなかったのではないか。
兄は部屋の壁の染みを気にしていたが、あれも結局どうでもよくなったのかもしれない。恋愛にこだわっているらしい。穢らわしいとは思わない。私もまた――
唯一新聞の地域欄だけが、あたかも義務的に、あくまで事実の報告に徹するかたちで、日々の自殺者のあったことを報じ続けている。父が読んだものを確認して、前日の自殺者の場所と数を知る。
あるいは本当に気にしすぎである可能性。
Tod um Sein.
年間の自殺者は三万人。仮に365人死のうと100分の1。全体の1%に過ぎない。
自殺者三万人に行方不明者八万人を合わせれば、一年間に寿命以外の理由で消えている者の数は十一万にのぼる。
東日本大震災、観測史上最大クラスの巨大地震と未曾有の津波による死者(関連死、災害の余波を含めて二万余人)の五倍以上の人間が毎年消えている。そのうちの、たかだか、365人――それが何だというのだろう? もし、その原因が――これは全く荒唐無稽な思い付きなのだが――兄の日々の自涜、その帰結としてのtägliche Samenergüsse, und Tod der Spermatozoidenだったとしても。
連絡。いつも通り、私はクローゼットを開き黒い下着を見繕う。
絹――蟲が吐く繭糸を採るために、蛹を煮殺して蒐められ織られた布。
仕立てられた死が黒く染まっている。
図像は三様。
Schmetterlingen,
Heidenröslein,
Höllenhund,
捨てよ一切の希望を、爾等この門をくぐる者。
行くのは川崎のヴィレッジヴァンガード。
そして林立するペール・マゼンタの天井。
* *
夏祭りから一週間が過ぎ、七人が死に、夏休み前最終日。
終業式があって、昼からファミレスに屯し、夕方に帰ると、あおいが先にいる。
呼吸音が籠もる。ときおり引き攣るように調子が変わる。息をいっそう強く吐いたときは、喉を荒い気体が通ってざらついた音で振れる。
ゆうべごみ箱の上に置いておいたティッシュは持ち去られている。
今頃あれを使って楽しんでいるのだろう。
ファンタジーの中にあおいの声が這入り込んでいる。別の誰を思い浮かべても、声色と息遣いだけはあおいのものが上から被さってくる。少しむくれっ面のあおいの、すっかり大きくなった胸や尻の、なまっちろい色白の肌に、――――――を想像している。
* *
小学校高学年からぼくが中学に上がってすぐの頃まで、あおいの方が背が高い時期があった。
肌の色も変わらず、髪質も似ていて、まだその頃は胸もふくらんでいなかったあおいとぼくは、おかっぱ風に髪型をそろえてしまえばちょっとした双子のようになった。
背が伸びたのがうれしくて、あおいは公園に出て走りまわった。鬼ごっこもかくれんぼもした。
三年以上前のことになる。大昔だ。
そう、ぼくが中学に上がって、次第に背を抜きなおしてしまって、ちょうどその頃コロナが広がったんじゃないか。
マスクマスクマスクマスクマスク。
消毒消毒消毒消毒消毒。
三密三密三密三密三密。
ワクチンワクチンワクチンワクチンワクチン。
そんなことを言っているあいだに、薄い下着を付けていたあおいは、母さんのとほぼ変わらないブラジャーを付けるようになった、大人になってしまった。
大人に?
ぼくももう大人なのだろうか。
声変わりはいつの間にか終わっていた。腋の毛も生えてきた。股の皮が捲れあがるようになったのはいつからだっただろう。生殖もまた可能になっているのか。それが大人に近付くということだろうか。あおいが大人になっているのだとすれば、ぼくもまた。
あまりにも変わりすぎている。
自同律に優越する生成の不快。
ぼくは無時間的存在者を望む伊藤の気持ちに近付けただろうか?
しかしその近付くということがまさに時間の中での変化であり、
刻々と死へ近付く現実存在の存在様式そのものだとしたら――
* *
夏休みに入っても、相変わらず人は死に続けているようだったし、妹のふるまいも変わらなかった。
大人に夏休みは無い。八月に入っても両親は平日は仕事に行き、ぼくは文化祭に向けた文芸部の合評会や美術館巡りに出た。
上野の美術館には筋骨隆々たる大男と組み合う天使や、六枚の翼を広げて宙に浮く天使を描いた絵が飾られていた。腕を掴まれる天使はしかし涼しげな顔付で、衣服も肌も大理石のように白く、その細いシルエットは菩薩に似ている。六枚の翼の天使はのっぺらぼうであり、翼の色は極彩色で、雲の切れ間から伸びるような光条を、地上の僧服の男に与えている。別の絵では天使は顔だけで、その周りに六枚の翼が生えている。
それらをよく眺めていた伊藤は、合評会にも、ちょうど美術館のような回廊ばかりの建物を舞台に、ふたりの人物が、展示品のいちいちをとりあげては延々と会話を続けるというものを書いてきた。地質学的な時間が経過して展示品の多くは風化ないし故障しているのだが、会話しているふたりは、これらを使って眠り続ける肉親を揺り起こそうとしているらしい――そしてそれは蘇生と言うべきものではないのか。
夕方に帰ってくるとやはりふたりきりになる。ただいまと言うとおかえりと返ってくる、部屋の中から。
一応受験生らしく勉強に勤しんでいる。ぼくも夏休みの宿題を進める。日が傾いてきた頃、低い呻き声が聴こえてくる。ぼくもティッシュを手に取る。桃李――想い出す手の感触――桃李ちゃん――呻き――伊藤も?――末魔の声。
* *
盆休みは両親の実家でみっかずつ過ごす。
桃李くん、あおいちゃん、ようこそ――そう言って歓迎してくれる。
そう呼ばれるのが、ぼくもあおいも、少し気恥ずかしい。いやあおいの内心まではわからない。装飾のない服を着て、いささか他人行儀ふうにしているあおいが、はにかんでいるように見えるだけだ。ぼくもあおいの目には同じように映っているだろうか。
ぼくたちも、あおいちゃん、桃李ちゃん、と呼びあっていた時期が確かにあった。
いつの頃までだったか、はっきりと思いだせない。
* *
八月の末の土曜。
夏祭りの晩に通った裏口からぼくは伊藤の家に通された。
周りはみなブロック塀の中、そこだけが歳月を経た木板の垣だった。板は厚くまっすぐだった。その上には黒い瓦葺きの屋根があり、軒先の平らな
塀の内側に這入ると、家の陰になって湿った土のうえに、丸い石を並べた通り道があって、そこを過ぎると屋内への入口があり、伊藤は鍵を開けて招き入れた。
廊下の脇の襖は開いており、暗い部屋の中に低い机や、漆塗りの黒に黄金色で飾られた仏壇が見える。
くすんだ畳。濃い色の箪笥。等間隔に並んだ五葉の遺影。
廊下の頭上には、時間の黒く降り積もった丸木の梁、薄暗さに染まった天井の木板。
曇り硝子の窓の内側も暑く、人の気配はなかった。
足の裏に触れる板張りの床だけが冷たかった。
厚い踏板で組まれた狭い階段を昇ると、伊藤の部屋があった。
まず正面の本棚が目に入った。天井まである、これも木でできた本棚に、函入りのもの、焼けていかにも古めかしいもの、装丁が布で貼られたもの――が並んでいる。
床は芝生の色の敷物、よく見ると薄い色でいちめんに紋様が描いてある、アラベスクらしい。這入って左に学習机、右にベッドがあるのはぼくの部屋と同じだ。本棚の横にはプラスチックの衣服ケースがあり、そこだけが現代的に見えた。
ベッドに腰かけ、ペットボトルの麦茶を飲んだ。伊藤が蓋を開けて飲んだものをぼくに手渡す。飲む。300mlの小さなボトルはすぐに空になった。
ぼくたちは手を繋いだ。唇の触れあうキスをした。
背に腕を回して抱き締めあった。伊藤が耳たぶを
Breche mich, mein Pfirsich. Denk ewig, an nur mich.
――私を手折って、私の桃李。
ぼくたちは腕を解いて、顔を見合わせた。伊藤の手がぼくの肩に触れる。ぼくの手が伊藤の肩に触れる。伊藤の肩は柔らかくぼくのより骨張っていない。
キスをした。舌先で触れあって、上着を脱いだ。
伊藤の下着には翼を象った紋様があった。胸に二枚、下履きの前に二枚、後ろに二枚。素肌のような色の下着に六枚の翼があった。六枚の翼のそれぞれの羽毛の輪郭は薄く虹色に輝いているように見えた。
ぼくたちは互いに触りあった。伊藤は全身が柔らかく、人の体温というのはこんなに暖かいのだとぼくは知った。総身の血が心臓に集まって、今にも破裂しそうだった。胸ばかり熱く膨れあがった。だから――
ぼくたちは裸のまま、胸から腹を合わせて、脚を互いに絡みつかせて、何も言わず抱きあった。伊藤の体は暖かかった。互いの汗が交じった。透明な腺液だけがわずかに伊藤の下腹に、腿に流れた。
(伊藤は何か言うこともできた。一般的な事実について話す、月並みな慰めの言葉をかける。それでも言わなかったのはいつかの報恩だろうとぼくは思った)
日が傾きだしたあたりで服を着て、部屋を出た。
「またね」と伊藤は言った。ぼくも「またね」と言った。
裏口の前で、五十メートルほど先にある角を曲がるまで、伊藤は胸の前に手を掲げて別れの挨拶に振ってくれた。ぼくも同じように手を振りながらできるだけゆっくり歩いた。
角を曲がって、ぼくは走りだした。
異様な考えが頭の中を埋めて離れなかった。
ぼくはこんなところで何をやっているんだろう?
伊藤と唇を触れあわせたときから、背を抱き締め、肩を撫で、全身で抱きあっている体を離したそのときまで、ずっとずっと、ぼくがこうするのはあおいとであるべきだと思っていた。
血が全身に逆流していた。指先まで酸素が巡った。道に陽炎の出る炎天下を全力で走った。家の隣のアパートから人が落ちて行った。それを尻目に階段を駆け上がった。家へ入り、ぼくはあおいの部屋の扉を開け放った。あおいは部屋の中央に転がって、裸を晒して喘いでいた。喘鳴の音が止まった。
* *
扉が開いた。兄が私を見た。兄? ――見たことのない目をして私を見る。
私は飛び起き、寝台の毛布を取って身を覆った。起き上がれば
「は――」私はほとんど言葉にならないような声を張って兄の暴挙に抗議した。「はぁ!?」
「あおい、おまえ、おれのごみ箱を漁ってくれてるよな、ほぼ、毎日」
擬茎を避けて一歩二歩、またも進んでくる。その目はまた私を見ている。怒りとも憎しみとも違う、しかし見たことのない色をして。これは何だ、切迫?
「は、いや――出て、今! 這入んな! ねえ!」
「わかってるんだぞ、おまえが裏で何をしているのか」
抗議の声が止まる。あおいの顔が情けなく、少しだけ笑っているように引き攣った、ように見えた。そんな表情を、ぼくは今まで見たことがなかった。ぼくは薄い毛布越しにあおいの肩をつかんだ。あおいの肩は伊藤のよりも柔らかく、下腹に流れ込んだ血が針のように尖った。あおいは少しだけ身を捩ろうとして、やめた。
「壁越しにずっと聞こえてたんだ、おまえがほとんど毎日、自分でしてるときの声が。ほとんど毎日、おれの部屋のごみ箱から無くなっていた。それを使って、していたんだろ? ずっと」
あおいの顔の引き攣りが弱まって、いつものむっつりした表情に少しだけ戻った。何か言ったように唇が震えた。前後はわからず、ほんの一言だけが聞こえた。
「それ?」
それきり兄は何も言わなかった。ただ私の肩をつかんで、まっすぐ私の目を見た。
「それが――何。兄さんだって、ずっと、これ見よがしにあんなものを置いていた。あれは、あれは――持って行けってことでしょ、使えってことでしょ。責められる謂われなんて無い!」
その通りだ。あおいを責めるつもりも、責める権利もぼくにはない。
こうして現場を見てしまった以上、言わなければならない――ぼくは一度あおいの顔から目を逸らした。少し下を見た。薄い毛布の向こうの裸の胸、腹、尻、脚。これだ、ぼくは思った、ひとつになるべきなのはぼくたちなんだ、他の誰とでもなく。
「ごめん、あおい。おれもそうだった。この二か月、いやもっと、隣の部屋で想像していたのはおまえだった」
懺悔――告白――少し俯いた兄はまた目を合わせた。嘘は無かった。
「おまえなんて言わないで――兄さん」
「兄さんなんて言うなよ」
胸を打たれる。いや修辞ではなくて拳だ。あおいが毛布の裾から拳を突き出して胸を殴った。そのまま全身で前に向かってくる。ぼくは後ろに転がる。あおむけになったぼくに馬乗りになって、両手で肩をおさえてあおいが言う。
「あおいちゃんって呼べ!」
目に涙が光った。その顔が滲んだ。
あおいちゃん! 桃李ちゃん!
泣き笑いでじゃれあう。布越しに抱きあう。あおいはいつの間にか床に置いてあったものをベッドの下に蹴り飛ばして、桃李は頬に鼻先に耳にむやみやたらと唇でふれる。
顔を見合わせる。唇どうしが触れあう。
「桃李ちゃんも脱いで」
「うん」
衣服と毛布を脱いでどちらも裸になる。桃李は私の胸を、手をめいっぱい開いて包み込むように触り、あおいはぼくの胸や腹をぺたぺたと指の腹で撫でる。舌先が交わる。唇を合わせたまま目が開く。視線が交わる。
どちらももう準備はできていた。
寝台に互いの正面を合わせて転がる。鮮やかに血の通った葵の花弁の色の肉に、どんな擬茎よりも熱く口先を腺液に濡らした陰茎亀頭が触れる。あおいが口を開くように腰をわずかに動かし、桃李が開いた口に餌付けするように腰を前へ差し出す。
挿行。
血漿に熱く燃える陰茎の注挿運動が、先刻の余韻に平仄を合わせて脳髄にまで響いてくる。
体内の熱がぬらぬらと濡れて密着する。ゆるゆる動くとあるところであおいが息を詰めるのがわかる。
「我慢しないで、あおいちゃん」ぼくは囁く。「あおいちゃんの声、もっと聞きたいな」
私は頷く。圧迫のたびに背骨が溶ける、肺が震える。
やがて陰嚢は熱を帯びた動きを止めて硬く縮小し、呼気が針のように尖りだす。動きが少し緩む。
高まってくる。熱さで包まれる、これではすぐにも――浅いところへ腰を浮かす。あおいの脚が脇腹を撫でて、腰骨に触れて閉じる。
「我慢しないで、桃李ちゃん」私は囁く。「桃李ちゃんの
「うん」
ぼくは頷く。一滴も零れないように、いちばん奥まで深く差し込んで、両腕であおいを抱き締める。柔らかい胸に胸をぴたりと合わせる。
「あーげー、る――――」
律動。開門。播種。
あおいを真似て、上手く真似られているだろうか、小さく喘ぎながら種を撒く。熱い泥のような培地に撒く。律動のたびに搾りあげられるようにわずかに茎の芯が痛む。耳元で兄の末魔めいた高い呻きが聞こえる。耳元であおいの熱い吐息の音が聞こえる。離れないで、ひとつのままで。何も言わなくてもわかった。ふたりははじめからひとつだった。
両親は今日明日と箱根まで旅行に出ている。ぼくたちは夜遅くまでぴたりとくっついてすごした。すっかり疲れて、少し話して、いつの間にやら眠っていた。
* *
晩の黒い乳、ぼくらはそれを宵に飲む。
娩を鎖す橙、ぼくらはそれを朝に呑む。
橙色のシートの上の、朝焼けの端の薄青い空の色の錠剤を私は摂る。
女を免じること――いや、女であることを
胡散臭い素人解釈では恐らくそういうことなのだが、今朝は私は十の三分の一億の子どもたちの死をいっそうはっきりと感じ取って晴れやかな心地でいる。
膣は酸の湖沼。
それでも、十の三分の一億の百分の一、即ち三百三十三万三千三百三十四、年間自殺者数の百十一倍余のSpermatozoidenが、既に排卵されたOvumへ殺到する。ひとつは受精に至るだろう。三百三十三万三千三百三十三のSpermienが弱酸の沼の中に融解し、0.15mm、0.06mmのSpermiumの2.5倍大の細胞がひとつ、子宮に落着する。
しかしそれもまた、空の色の錠剤によって、地へと流されて墜ちる。
十の三分の一億の兄の命の片割れのすべてが死に絶える。
私は澄んだ空のような心地で、橙色の薄い合成樹脂を手の内に握り潰した。
あおいは一足先に部屋を出て、裸のまま窓際に立って、いつものようにインスタントコーヒーを飲んでいる。
昨日ぼくが犬のような姿勢で縋りついた、あおいが器用に打ち下ろした尻が、素裸で朝の空気に曝されている。今朝の気候ではそれは湿り、澱みさえしないだろうか? 空一面の曇り空は、西に行くにつれて灰の色を濃くしていくようだった。
ぼくもインスタントコーヒーを入れてあおいの隣に立ち、マグカップで軽く乾杯して、同じに飲んだ。
――ゆうべ、眠る直前に、自殺騒ぎのことで話をした。
ぼくはずっと、あおいのひそかな楽しみのために人が死んでいるのではないかと思っていた。
私はずっと、桃李の用意する白い花のために人が死んでいるのではないかと思っていた。
振り返ってみれば、ばかばかしい、くだらない思い違いだったのだ。
ぼくたちふたりがはじめからひとつであるなら、答えもただひとつだけだった。
ぼくはあおいの隣で、インスタントコーヒーの最後の一滴を啜りながら、ゆうべ自分は何度あおいに播種しただろうか数えた。
私は桃李の隣で、インスタントコーヒーに濡れた唇を舐めながら、鼻粘膜に触れた何倍の配偶子が私の中で死ぬだろうと考えた。
78 × (1,000~100,000(?)) × (4~6)
旅客機が雲を割ってほとんど直角に落ち、武蔵小杉のタワーマンションのひとつを直撃する。
旅客機の片翼は既に砕けていた。切り離されていた左翼が隣接するタワーマンションを両断する。機首から突っ込まれたタワーマンションは屋上近くの部分にはじまって五割ほどの長さを旅客機に抉り取られる。上下に分断されたタワーマンションは、支えを失った上部は自然に傾きながら倒れて地上へ落ち、下部は墜落する旅客機に圧し潰されて乗客と共に爆発した。まっぷたつになったタワーマンションが遅れて倒壊し、ばらばらと胡麻粒のように見える瓦礫と人間を吐きながら、高層住宅は南武線の駅舎へ崩落していく。
――どれほど少なく見積もっても、万単位の人が死ぬ。
十の三分の一億の人間が死ぬのだ、ぼくは思った、そして世界は滅びないだろう。
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