あーぅあーぅ

百舌すえひろ

あーぅあーぅ

 鈴虫の音色がかすかに響く秋の夜、切り裂くような高い声が修司の鼓膜を震わせた。


「またか」


枕元の時計を見ると深夜の二時だった。

夜中の住宅地で悲鳴が聞こえるのは、ただ事ではない。

修司は小さく舌打ちすると、布団の中で小さくなった。


 都内で生活していた時は、救急車や酔っぱらいの罵声ばせいなどがしょっちゅう聞こえる商店街の裏の安アパートで暮らしていたので、ただの騒音なら驚くことはない。


「なんなんだよ……」


 今住んでいるアパートのまわりは、夜八時以降は無音になり、道の灯りもコンビニの明かりと街燈以外は見えなくなる。


「異動願い出したけど、ここまで田舎とは思わなかった」


 異動先の工場のまわりは、だだっ広い田んぼに囲まれていた。

出勤途中に野生動物を轢いてしまった同僚の話を聞いた時は、本当の田舎とはこういうところなのかと心底驚いた。


「近所のやつらは、なんとも思わねーのかよ」


閑静な住宅地で悲鳴を聞くと、修司の頭は事件の可能性を真っ先に考えてしまう。

正体不明の人が発する奇声か、近隣住民による児童虐待か。

不穏な想像が頭を巡り、引っ越してきてから深く眠れなかった。


*


 翌日出勤した修司は、事務所の女性たちが大きな箱から、いくつも百人一首のセットをとり出すのを見た。


「おはようございます。どうしたんですか、その大量の百人一首」


箱を一つ一つ取り出し、中を見ていた事務の中村に修司は声をかけた。


「あ、おはようございます。そっか、修司さんは初めてですもんね」


 声をかけられた中村は二、三度まぶたしばたくと、セットの一つを開けて彼に見せた。


修司は一ヵ月前に、東京の本社から東海地方にある製造工場に異動したばかりだった。


彼女が修司を下の名前で呼ぶのは、親しさからではない。

加藤の姓を持つ人間が、同じ部署にもう一人いて『加藤さん』と言うと、みんなその人を連想するので、後から来た修司は下の名前で区別されていた。


「うちの工場、新年に社内レクリエーションの一環でカルタ大会をするんですよ」


「大会?」


「はい。個人で順位を競って、景品が貰えるっていう」


「景品は結構豪華なんですよー!」


修司の席の斜め前に座っていた経理の木内きうちが話に入ってきた。


「修司さん、一等はナント、お掃除ロボットなんです!」


 入社して二年目の彼女は、彼が聞いてなくても話しかけてくる。

よく言えば明るく天真爛漫てんしんらんまん、悪く言えばお節介。

今どきの若い子にしては珍しく、積極的な性格だなと修司は思っている。


「そうなんですか。どうして百人一首なんですか?」


修司は最初に話しかけた中村の顔を見た。

彼女の受け答えは落ち着いていて、修司と同じ三十代だと聞いていたので、話しかける相手としてなんとなく彼女を選んでいた。


「工場長が、お好きなんですよ」


彼女はそう言って、小さく微笑んだ。


「でも最近は百人一首の漫画とか映画で、若い子たちも注目してるから、好評なんだよ」


背後から聞こえてきた男性の声に修司が振り返ると、事務所の入り口に内田工場長が立っていた。

彼はにこやかに挨拶すると、修司と中村の会話に入ってきた。


「ほら、なんだっけ。かわいい女優さんがはかま着て、競技カルタしてる映画。あれのおかげで工場の若い子たちも関心持ってくれてね。一昨年からやってるんだけど、結構激戦になるんだよ」


そう言うと工場長は絵札を一枚取り出した。


「僕らの子供の頃は『坊主めくり』とかそっちの遊びばかりだったけどさ」


「百人一首知ってるって、なんか頭いいーって思いますもんね」


「『頭いいー』じゃなくて、『教養があるんですね』って言った方がいいと思うんだよ」


工場長は木内の発言にやんわり訂正を促し、手元の絵札を詠んだ。


「『千早ちはやぶる 神代かみよもきかず 龍田川たつたがわ からくれなに 水くくるとは』」


「それ、チョー有名ですよ! 百人一首って言ったらまずそれですよ」


「……映画の影響だね。このかみの句が詠まれると、みんな早いよ」


「意味知らなくても、決まり字だけは頭に入れてますから!」


木内は少し自慢げに返事をした。


「決まり字?」


耳慣れない単語に修司は首をかしげると、工場長が答えた。


「上の句が詠まれるとしもの句の札を探して取るから、歌全体を知らなくても、下の句の最初の一、二文字だけ覚えてるんだよ」


「ああ……そういう……」


「修司君は百人一首やったことない?」


「すみません。その、試験勉強の範囲でしか古典に触れてこなかったもので……」


「そうなんだ。偉そうに言っちゃったけど、僕も百人一首にはまったのはここ数年だよ」


「工場長も漫画の影響ですか?」


ずけずけと聞く木内に、工場長は小さく笑う。


「君らが知ってる最近の映画じゃないよ。三島由紀夫の映画で出てきたのがきっかけでね」


「『春の雪』ですか?」


「あれ? 修司君知ってるの?!」


「たまたま、見たことありましたので」


修司は消え入るような声で呟いた。


「あの映画のね、百人一首がニクい演出してたんだよね。……女優さん綺麗だったし」


「原作にはないんですよね、あのシーン」


「え、原作も読んでるんだ!」


「あ……たまたま、です」


「なんて歌が使われてるんですか?」


木内がすかさず修司に話しかけた。


「『はやみ いわにせかるる 滝川たきがわの われてもすえに とぞ思』」


工場長がゆっくりとぎんじた。


「エーと、誰の歌だっけ……」


彼は視線を天井に向け、思い出す仕草をすると修司が答える。


崇徳院すとくいんですね」


「……修司君、詳しくない?」


「それだけです、たまたま」


そう言うと、彼はうつむいた。


「なんだ、修司君もカルタ大会いけそうじゃん!」


「歌知ってても取るのはまた別ですよ」


修司は慌てて否定した。


「カルタ取れるからって歌がわかってるわけじゃないのはわかるさ。頭良い、もとい、教養があると思われたければ、意味をすらすら話せると、かっこいいもんだよね」


恥じ入るように慌てる修司に、工場長は感心したよう答えた。

そばで見ていた木内はきょとんとしながら工場長に聞く。


「どんな意味なんですか、その『崇徳院』は?」


「『川の流れが速くて、岩にせき止められた急流が二つに分かれてしまった。今は分かれても、いつかきっと会えると思っている』だったかな? 古典の文法には詳しくないから、細かいニュアンスまではわからないけどね」


「えー、そんなにロマンチックなんですかー!」


「あのね、百人一首ってわりと恋の歌が多くて、ロマンチックなんだよぉ!」


少し興奮気味に返事をする工場長に、若い木内は率直な意見を投げる。


「うーん、かっこいいけど、なにもわからず突然言われたら、『なんだコイツ』ですね」


「あー……。今時の言い方をすれば『わかる人だけにしか通じない言葉遊び』だね。引用されてる元ネタがわからないと、仲間に入れてもらえない紅白歌合戦というか」


木内の素直さに工場長は苦笑いしながら答えた。


「もともと歌会うたかい自体、貴族の遊びでしたしね」


二人のやりとりを静かに見ていた中村が、工場長の言葉を肯定するように言った。


「結婚相手の知的水準を歌で推し量ってたわけだし、『空気読み文化』の極致きょくちだよね」


「わかりにくい告白より、ストレートに好きだって言われたいー」


木内は可愛く唇を尖らせ、上目遣いで修司を見た。

修司はぎょっとして目をらすと、席についてメールの確認をするためにパソコンを起動した。


「……それができたら、彼らも苦労しなかったと思うよ。高貴な身分の男女は、直接顔を見て話すことができなかったからね」


工場長はそう言って朝礼の準備に入り、会話は打ち切られた。


*


その日から一か月後の仕事納めの日。

夕方から始まった忘年会で、修司は工場長の隣に座るように促された。

修司が工場長のグラスに瓶ビールを注いでいると、彼はにこやかに問いかけてきた。


「修司君、本当は文学に結構造詣ぞうけいある人なんじゃない?」


突然切り出された話題に、修司はどぎまぎして答える。


「いや、僕自身が興味あったわけじゃなかったんですけど」


「そうかな? 修司君が好きな一首とかないの?」


工場長がうかがうように修司を見た。

視線を受け止めると、彼は少し考えてから口を開く。


「……知ってるのはあれです『山からくる風だから嵐なのか』っていう……」


文屋ふんやの康秀やすひでだね」


「なんて歌ですか?」


瓶ビールを片手に頬を赤くした木内が、修司の隣に来て、二人の話題に割り込んだ。


「『くからに あき草木くさきの しるれば むべ山風やまかぜを あらしといらむ』」


「どういう意味なんですかぁ?」


距離を縮めて聞いてくる木内に、修司は困惑して黙り込む。


「『山から風が吹くと、たちまち秋の草木がしおれはじめる。なるほど、だから山風のことを「嵐(荒らし)」と言うのか』」


困っている修司に代わって、工場長が答えた。


「え? 恋は?」


「百人一首すべてが恋の歌なわけじゃないんだよ。この歌は駄洒落だじゃれとも言われるね」


隙あらば恋バナに持って行こうとする木内に、工場長が苦笑いした。


「昔の貴族でも、駄洒落とか言ったんですねー」


「……色恋いろこいより、僕はこういうシンプルなやつが好きですね」


木内の言葉に、修司は目を伏せて呟いた。


修司にとっては異動して初めての忘年会だった。

気を張りつめた一次会が終わり、隠れるように帰り支度をする修司に「二軒目に行かないのかい?」と工場長が声をかけた。


もともと人と会話することに苦手意識がある上に、酒の席での振る舞いも得意でない修司は、笑顔を貼り付けて固まった。


社会人の最適解は『上司の酒に付き合うことだ』と、頭ではわかっていても、疲れと苦手意識が強くて思うように振舞えない。

そんな彼の葛藤を感じ取ったのか、工場長は両手の平を見せながら静かに話しかける。


「無理にお酒に付き合う必要は全然ないんだよ。……ただ、修司君はまだこちらに来たばかりだから、よかったらもう少し話がしたいなと思ってね」


彼は続けて言う。


「お酒の席で大勢で騒ぐのは、僕もあまり得意ではないから、その、できれば君と二人で話したかったんだ。……上司と二人っきりっていうのも、きついかもしれないけどさ。調子が悪くないのであれば、どうだろう?」


上司にそこまで気を遣われ、無下に断れる部下などいない。

少なくとも修司には、工場長が無理強いしているわけではなく、本気の厚意から修司を誘っていることが見て取れたので、誘われるまま、工場長についていくことにした。


 二軒目と言うから、どこの店に行くのだろうと拾ったタクシーの中で考えていたが、着いた場所は工場長の自宅マンションの前だった。


「店で飲むより、うちで話す方が落ち着けるから」と彼は言ったが、工場長の家族の存在を意識して話すのも気が張り詰めるな、と修司が考えていると、「家は僕ひとりだから、気にしないで」と言われ、少し力が抜けた。


 広いエントランスホールを抜けて、エレベーターに乗って三階で降りる。

左手通路の突き当りの角部屋が工場長の部屋らしく、鍵を開けると真っ暗で、人の気配がなかった。

大きな液晶テレビに茶色い皮張りの二人掛けソファ、その前に置いてある小さなテーブルだけという、簡素で整頓されたリビングに通された。


 工場長は奥の台所から松前漬けと明太子を取り分けた小皿と、空のグラスを二つ持ってくると、来る途中で購入した紙パックの烏龍茶と缶酎ハイ二本も取り出し、修司の前に置いた。


「木内さんはどうやら、修司君が気になってるようだね」


工場長は愉快そうに言った。


「……あー……。そうですね、彼女、よく気を配ってくれるなと思ってます」


修司は無難な答えを捻りだした。

本心を言えば、恋愛感情に近い好意を向けてくる彼女のそばでは仕事がしづらいが、そんなことはとても言えない。


「まだ若いから、行き過ぎちゃうこともあるかもね」


工場長は苦笑いした。


「僕はその、人と距離を詰めて関わるのは、まだ……」


何と言っていいのか言い淀む修司に、彼は静かに切り出した。


「君の事情はあらかた本社から聞いてるし、プライベートなことは僕からみんなに言う気はないけど……」


工場長はとつとつと、間を空けながら続ける。


「修司君は誰に対しても丁寧に対応してるし、人当たりに問題ないと思ってるよ。……ただね、今のまま人に深入りせずに関わっていくことは難しいかな。個人情報だのハラスメントだの言っても、結局ここは、閉鎖的な田舎だからさ」


修司は工場長を見ながら黙って頷いた。


「実は僕も一度結婚に失敗してるんだ。だから、今の君の気持がわかると言ったら傲慢ごうまんかもしれないけど、まったくわからないわけではないと思う」


工場長は気持ちをおもんぱかるように、言葉を選び慎重に話しているのが修司にもわかる。


「離婚ってさ、結婚よりも時間とお金と、なにより気力を使うよね。経験した人間でないと、しんどさは共有できないっていうか。終わった後も心身ともに尾を引くから、あまり気を張りつめて、頑張ったりしなくていいからね」


そう言うと、工場長は目の前の缶酎ハイを飲み干した。



「『ての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもざりけり』」


「うん?」


突然和歌をしょうする修司に、工場長は目を丸くした。


「『愛しいあなたと、ついに想いをげた後の気持ちに比べたら、昔の自分は何も考えてないようなものだった』……僕、本当はこの歌が一番好きだったんです」


苦し気な顔で語る修司を、彼は黙って見つめた。


「……この歌は、別れた妻と付き合ってた頃に、喋ったことがありまして。男のくせに女々めめしい趣味だと笑われるかと思ったら、彼女も好きだと言ってくれて。二人の歌みたいに感じてました」


修司は静かに、遠い日の思い出を噛みしめるように話す。


「離婚してからは、こういう、思い出すものをなるべく見ないように意識していました」


修司の目から涙がこぼれた。


協議中も離婚後も、人前で自分の話をすることもなければ、泣いたりなどなかった。


男だから、大人だから、社会人だから……


理由はたくさんあるが、別れた妻のことを人に悪しざまに言う勇気もなければ、結婚したこと自体を貶めるのが嫌で、誰にも言えなかった。



――あーぅ…… あーーぅ……



例の奇声が、窓の外から聞こえてきた。

修司は耳をそばだてるように背筋を伸ばし、緊張した面持ちになった。


「工場長の家でも、この声が聞こえるんですね」


「え?」


先ほどまで和やかに話していた修司が身を硬くしたので、工場長はキョトンとした顔で彼の顔を見た。


「……いえ、ここに来てからずっと、夜中に変な声が聞こえるなって」


「この音のこと?」


「はい」


窓の外、深い闇の中からこだまする音に、工場長も耳を澄ませた。


「……修司君、これは鹿だよ」


窓の外から目をそらした工場長は、修司の顔を見て微笑む。


「秋になると、山から下りて来た雄鹿が雌を求めて声を上げるんだ」


「そうなんですか? 僕、てっきり、気違きちがいな人が外で叫んでるのかと……」


「ここ、山の近くだし。本当に田舎初心者だから、驚いちゃったのか」


工場長は笑いだした。


「ハーッ! こんなこと言ってはアレだけど、修司君、きみ、可愛すぎるよッ」


酒が入ってるせいか、工場長は目尻に涙まで浮かべて笑っていた。

それを見た修司もつられて笑ってしまった。


 本社にいた時も、ここに異動してきた時も、人に弱みを見せてはいけないと神経質になっていた。

その緊張から、あらゆる事が不穏の前兆としか受け止められず、びくびくしていた自分を人に晒せたことで、恥ずかしさと安心感から眠気が襲ってきた。


「『奥山おくやまに 紅葉もみぢ踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき』……だね」


工場長は大きく笑うと、奥の寝室から毛布を持って来た。


「今日はいっぱい話せて嬉しかったよ。付き合ってくれてありがとう。短い間でも好きな人と一緒にいられた経験があるのは、いいものだよ。……木内さんのことは、まあ、修司君次第で……」


続けて、彼は小さく言った。


「……世の中、好きな人を見つけても一緒になれない人の方がおおいもんだしね……」


工場長がどうしてそんなことを言ったのか、修司にはよくわからなかった。

誰もが辛い経験をしてるって言ってるんだろうなと、うとうとしながら彼は頷いた。


『人里離れた奥山で散った紅葉を踏み分け、雌を恋しく鳴く雄の鹿の声を聞くと、いよいよ秋は悲しいものだと感じる』


さっき工場長が詠んだ歌は、そんな意味だった。

もう外の奇声は気にならない。


修司は内田工場長の好意に甘え、泊めさせてもらった。

その夜は久しぶりにぐっすり眠った。


*


 年始の仕事はじめ、百人一首のカルタ大会が終わった。

片付けをすませた修司は、鞄からスマホを取り出そうと中を見ると、絵札が入っていた。


『かくとだに えやは伊吹いぶきの さしもぐさ さしもらじな ゆるおもを』


大会では最後の二枚になって読まれなかった、藤原実方ふじわらのさねかたの歌だった。


なんで自分の鞄に入っているのか不思議に思っていると、背後から熱い視線を感じた。


嫌な予感がした修司は身じろぎもできなかった。


木内からの告白だったら、どう断れば角が立たないだろう。

なんて思い上がりだと思いながらも、頭の中は予行演習でフル稼働している。


大きく息を吸い、意を決して振り返った。



誰もいない事務所。


入り口で熱っぽく微笑む工場長と目が合い、修司の背筋は凍りついた。



『こんなに私があなたに恋しているとだけでも言いたいのに、言えません。伊吹山のさしも草ではないけれど、私の思いもこんなに激しく燃えているとは、あなたは知らないでしょう』

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