雪月夜

 引き戸を開けた途端、痛さを感じるほどの冷たい空気に包まれる。

 相当な寒さを覚悟して、久弥はこれでもかというくらい着込んでしっかり防寒をして出たのだが、冷えは外套の上からじわじわと忍び入ってくる。門口まではなんとか出てみたものの踵を返して帰りたくなる寒さだ。

 だが、『雪月夜の散歩と洒落てこい』という源太の声が耳に残っていた。


(散歩というからには、ただ外に出るだけでは駄目なんだろう)


 意を決して久弥は、ぼふっぼふっと新雪を踏み歩き始めた。冷えを追い払うため足を速める。冴え冴えと凍りついた月明かりを雪が照り返し、存外明るい夜道を久弥はあてずっぽうに歩いた。

 しばらく速足で歩くと、だんだんとあったまってきた。深さは脛までもないほどだったが、新雪を踏みしめ歩くのはそれなりに体力がいる。久弥は少し歩を緩め、月を仰いだ。


(『洒落てこい』とはどういう意味か?)


 ふと道沿いの家からはみ出した木の枝が目に入り、閃いて数年前にできた公園まで足をのばすことにする。そこには源太が手掛けた庭園がある。

 目的地が決まってからまた早足になったため、庭園につくころには身体の芯からあったまっていた。


 雪の降り積もった庭園は美しい。新雪の朝などよくそう思ったものだが、月明かりに浮かび上がる雪の庭園は、それとはまた違った深い趣がある。久弥は思わずほぉ~っと感嘆のため息をついた。

 たおやかに花開かせた紅梅が、雪片を纏い麗しく月光を浴びている。

 覚えず梅の木に手をついて久弥は呟いた。


「なんて美しい……」


「わらわのことか?」


 不意に耳元で聞こえた声に驚いて、久弥はきょろきょろと辺りを見回したが、人影は見えない。


「ふふふ。見えないか?」


 若い女性の声のようだ。


「どこにいる? 物の怪か?」


 久弥かいくら目を凝らしても雪景色しか見えない。


「見ようと思わぬ者には見えぬもの。わらわを見ようと思うなら、その右手に意識を集中してみよ」


 なぜか恐ろしさはなく、久弥は素直に梅の木に添えた右手に意識を集中してみた。


 すると。ふわりと梅の香が濃く立ちこめ、艶やかな紅の衣を着た女人が目の前に現れた。

 目を丸くして自分に焦点を合わせた久弥を見て、女人が微笑んだ。


「お前は、……紅梅の木霊こだまか?」

「聞かずともわかっておろうに。お前さんはなんでも明らかにせんとすまぬ性質たちらしいの」

「儂のことを知っておるのか?」

「もちろん知っているとも。わらわはお前さんの親方の源太の下で苗木から大きくしてもらったからね。お前さんが弟子入りしてきたひよっこの頃から知っているよ」

「お、親方もお前を知っているのか?」


 紅梅の精が艶やかに微笑み、花の枝が風もないのにさやっと揺れた。


「そうさね。あれもずいぶん若いころにどこぞで誰か他の木霊に出会ったんだろうね。わらわが苗木として来たときには、初めから挨拶してきおったわ」

「他の樹木にも木霊がおるのか?」

「もちろん。お前さんが見る気になれば見えるはずじゃ」


 久弥は辺りを見回したが、見えるのは雪に覆われた木々ばかり。


「そこの若い楓はお前さんと話したそうにしているよ。意識するだけで見れないなら、触ってやってごらん」


 紅梅の精に言われるまま楓に近づき幹に手を添えると。

 

「やぁ、こんばんは。僕、ずっとあなたと話したかったんだ」


 爽やかな新緑色に紅葉した橙、赤を散りばめた華やかな衣の少年が現れ、人懐っこそうな笑顔で話しかけてきた。


「久弥さん、いつもみんなに話しかけてくれるからとっても嬉しいんだけど、僕らの声は全然きいてくれないから困ってたんだよ」

「儂の言葉は喜んでくれとったのか」

「うんうん。みんな久弥さんのこと、大好きだよ。ほら、よーく周りを見てみて。もう見れるんじゃないかな」


 楓の少年に促され神経を集中して目を凝らす。

 やがて、いろいろな木々のかたわらにそれぞれの木霊がいるのが見えてきた。

 モッコク、アカマツ、ヒバのおじいさんに、イヌマキ、モチノキのおばあさん、それからアオキ、シャリンバイのおじさんに、キンモクセイ、ギンモクセイのお嬢さん。紅梅白梅や桜のお姉さん。ジンチョウゲやハナズオウ、ヤマブキ、コデマリ……。あらゆる植物にいる木霊が見えてきた。


「やっと会えたのぉ」

「これからはお話しできるの?」

「私たちの声もしっかり聞いてね」


 みんなが声をかけてくる。


「いつも私たちも忘れないでくれてありがとう」


 足元からあがった声に下を見ると、かわいらしい小人がムラサキシキブの隣で飛び跳ねている。

 久弥がぐるりと庭園を一周りして入口近くの紅梅のところへ戻ってくると、紅梅がまた艶やかな笑みを見せた。


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