第1話
ゴトン……ゴトン……と柔らかな振動音を立てて、路面電車が市内を進んでいく。
商業区を抜けたあとの車内は、朝の通勤ラッシュでスーツ姿の社会人たちがひしめき合っていた数分前とは打って変わってがらりと空いて、人波に揉まれ続けたセリナはようやくシートに座ることができる。
少ししわになってしまった制服のスカートを手で伸ばしながらホッと息をつく。
だが、ふと見上げた先の路線図を見て、この休息の時間もせいぜいあと三駅分しか続かないことを思い出し、また少し憂鬱な気分になった。
市内を環状に走る路面電車の上り方向の路線に乗る彼女にとって、これが毎朝通学のたびに見ている光景だ。
セリナの住むここ衛星都市アルテは、直径30キロにも及ぶ環状のメインストリートを挟み込むようにして建築物が広がるドーナツ型の都市だ。
文化保護をタイトルに構築されたこの都市は観光地としても有名で、緻密な都市計画のもと、区画ごとにそれぞれ異なる時代の異なる建築様式が並ぶ様は、さながら博覧会のような絢爛さを誇っている。
電車はちょうど赤レンガ造りの建物が集まった地域に差し掛かる最中で、視界は一面焼き色美しい褐色の景色へと移り変わっていく。
通りに面する倉庫型の建物をリフォームしたカフェテラスで、出社前のビジネスマンがコーヒーを嗜んでいる姿を横目に、路面電車は緩やかな速度で進んでいく。
「セリナ、おーはよっ!」
学校の最寄り駅の、一つ手前の駅で電車が停車し、乗り込んできたのはクラスメイトのマナだ。
彼女はセリナの姿を見つけると、その隣に座るなりいきなり大きなあくびをかます。
「おはよ、マナ。また彼氏の家に泊まってたの?」
「そそ。学校の近くに拠点があると朝楽でいいわー」
二人が通う学校は中高一貫制度をとっており、大抵の生徒はエスカレーター式に内部進学している。そんな中数少ない高等部からの編入生であり、さらに同じ北地区在住という共通項を持つ二人は、入学直後からよく行動を共にする仲だった。
いつものようにマナは鞄から手鏡を取り出し、髪のセットを弄り始めた。
「セリナも彼氏つくるなら学校近くに住んでるやつにしなよ。朝あの通勤ラッシュがないってだけで、まじで一日心穏やかに過ごせるから」
「それは確かに魅力的だけど……まあ、今のところそういう予定はないかな」
「もったいないこと言っちゃって、セリナの顔なら男なんてより取り見取りじゃないの」
確かめてみろとばかりに、マナがこちらに手鏡を向けてくる。
そこに映る自分の顔は、確かに美人といって差し支えのないものだと思う。
調律のとれた目鼻立ちに、艶やかな薄い唇。化粧要らずの肌は生まれたばかりのように白くきめ細かい。それらを彩る透き通る金紗の髪も、宝玉をそのままはめ込んだような翡翠の瞳も、両親にはない特徴で、先祖のどこからか隔世遺伝してきたものだ。
「こないだだって、あんた3年のジョーナス先輩からデート誘われてなかった? ほら、あの去年のミスターコンテスト優勝したって人」
「あれなら断ったわよ」
「えーなんでよ!」
「タイプじゃないから」
セリナとしては正直な理由を答えたつもりだったが、返ってきたのは呆れ顔とジトっとした目線だ。
「うーわ。言い切ったよこの女。あんたそれ他の人に言っちゃだめだよ? 刺されるからね?」
「こういうのはマナにしか言わないから大丈夫」
「知ってるよ。ほんと、純粋そうな顔してるくせにしたたかなんだから……」
やがて路面電車は減速をはじめ、ブザーと共に緩やかに停車する。目的地に到着したようだ。『中央学園前』と駅名を告げるアナウンスが流れ、扉が開く。
二人が駅に降り立つと、すぐそこの通りにはセリナたちと同じ制服に身を包んだ学生たちであふれていた。見知った顔を見つけ、混じりあい、雑多に笑い声があがる思春期特有の甲高い喧噪。いくそこから集まって正門へと流れる人の群れにセリナたちも交わりながら歩き出す。
どこにでもあるような、普通の朝の通学風景。
そしてふと何気なしに、セリナが通りを挟んだ向かい側を見た、その時。
それは、行きかう学生たちの流れが途切れたほんの一瞬の出来事だった
建物と建物の間、細い路地の奥にゆらりと人影が見えた。闇に溶け込むような黒い外套に身を包み、目深にかぶったフードに隠れて人相はわからない。
だが、それでも。
何もかも吸い込んでしまいそうな幽闇の奥、爛々と不気味に灯る二つの瞳に。
見られている。なぜか、そう確信した。
「っ!?」
思わず目をそらした。
掴まれたように心臓が強く跳ね上がって、どくどくと脈動を速めていく。
あんな恰好をした知り合いはセリナの記憶のどこを探ってもいない。どこかで恨みを買うような身に覚えだってない。だというのに、得体のしれない人物が自分のことを認知していて、自分の知らないところから自分のことを見つめている。その事実に震えた。
あるいは勘違いだと思いたかった。たまたまあの路地裏を通りがかった人と、たまたま一瞬目が合っただけだと。
だがそうは思えなかった。暗がりに灯るあの視線は断固とした確信に満ちていて、ほかの何も構わずに、ただ強く真っ直ぐにセリナの存在を捉えたものだった。
乱れた呼吸を整えようと息を吐きだそうとする。しかし怖じ気た身体は言うことを聞いてくれず、強張った喉からはソロソロと下手糞な吐息しか出てこない。
苦しい。
「……セリナ? どうかした?」
声をかけられて、我に返る。見ればマナが不思議そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
無意識のうちに立ち止まってしまっていたらしい。後ろからやってくる学生たちが煩わしそうに二人の脇を避けて通り過ぎていくのを見て、セリナも慌てて歩きだす。
そしてマナの隣に再び並ぶまでの一歩半の間に、ちらりともう一度あの路地裏を見てから、セリナは笑顔を作って振りむいた。
「……ううん、なんでもない」
ときおり途切れる人波の、狭間に覗く暗闇の中。
そこにはもう、誰もいなかった。
灰降る世界が終わるまで 寺野深二 @terano14shin1
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