A家の場合《父−娘》
「耳が……痒いな」
耳の中がムズムズする。そう思い小指をグリグリと耳の穴の中に突っ込んだ。そう言えば、ここしばらく耳掃除をしていない。
世界的なウィルスの流行だか何だかで世間がざわついて数カ月。そのざわつきに比例するように仕事が忙しくなっている。多くの業界が不利益を被る中、逆に仕事が増えるのはありがたい話なんだが、そのせいで耳やら何やらの身体のケアを怠っている気がする。
「家に綿棒あったかな……」
そんなことを考えながら久々の定時退社で家路についた。
玄関のドアを開けると散らかった靴が二足。どうやら息子と娘は帰っているらしい。リビングでは娘がテレビを見ながらソファに寝そべっている。普段は自室でスマホを見ている……いや、この年頃の娘がお父さんを部屋になんて入れてくれないのだが、多分見ているんだろう。とにかくテレビなんて見ているとは珍しい。
「テレビを見てるなんて珍しいな」
「あ~、お父さん。お帰り。やっぱ
「そ、そうか……?」
机の上を見れば、昨晩買って来たプリンの容器が空になって置いてある。どうやらテレビがついていたのはたまたまで、目的はリビングのソファらしい。さっぱり理解出来ないが娘なりの美学があるのだろう。そう言えば、この子の母親も変なこだわりがあったものだ。
「ごはん先に食べたから。スパゲッティ。お父さんの分は茹でてないから、自分で茹でてね。フライパンにミートソースが入ってるから、そのままかけたら食べられるから」
「ああ、ありがとう」
どうやら食後のデザートとして楽しむために早めに夕食を作ったらしい。この辺りもきっとこだわりなのだろう。そこでふと思い出す。
「そう言えば、昨日もプリン食べてなかったか?」
そう、プリンは家族の人数分買って来たはずだ。となると、まさか父さんの分を食べているのか?……いや、まぁ、プリンくらいで目くじらを立てるつもりはないのだが、それでも勝手に他人の食べ物に手を出すなんて卑しい真似はよろしくない。だが、中学生になる娘に「勝手に父さんのプリンを食べるな」と叱るのもいかがなものか? あからさまに相手に問題がある以上、小さい頃ならば頭ごなしに叱ってもいいのだが、既に自我が確立して久しい女子中学生。下手に叱ってしまうと、逆に男としての器が小さいと思われるかもしれない――――いかん!
今、まさに、親としての資質が試されている!?
「ああ、お兄ぃのヤツもらったの」
「そ、そうか……」
「何?」
「いや、何でもないよ……」
どうやら私の父親としての覚悟は不発に終わったらしい。密かに胸を撫でおろすのだが、どうやらそれが娘には私が疑っているように映ったらしい。
「ホントだよ。お兄ぃに耳かきしてあげる代わりにもらったんだから」
「耳かき?」
そういえば息子のヤツはたまに妹に耳かきしてもらっている。それこそリビングにあるソファの上で膝枕しながら耳掃除だ。
妹に耳かきしてもらっているお兄ちゃんなんて正直ちょっと変な気もするが、兄妹の仲は悪いより良い方がいいに決まっている……まぁ、息子にちゃんと彼女が出来たと聞いて違う意味で安堵したのは、父さんの中だけの秘密だがな。
「そうか、ならいい」
「?」
何とかして父としての威厳を見せつけようとするのだが、娘にはあまり届いていないようだ……まぁ、いいさ。そう思いキッチンに準備されていたスパゲッティを一瞥してから耳に指を入れる。
うむ、やはり指では届かない。
「何? お父さん、耳かゆいの?」
「ん?……ああ、お昼くらいから耳が痒くてな」
娘に答えながら、小指の先で耳の奥をグリグリするが痒みはいっこうに収まる気配がない。
「そういえばさっき耳かきしたって言ってたけど」
「うん?」
「綿棒ってどこに置いてるんだ?」
「お兄ぃの部屋にあるよ」
「そうか」
「取ってこよっか?」
「ああ、頼むよ」
バタバタと去っていく娘の後ろ姿を見ながら、スパゲッティをすするのが先か、綿棒で耳をかき回すのが先かを考える。
スパゲッティに手を出さなかったのはすぐにバタバタと足音をたてて娘が帰ってきたからだ。
その顔は何か悪だくみでも思いついたかのような笑みを浮かべていた。
「どうした?」
「お父さん、私が耳かきしてあげる」
「ふむ、それで?」
「お父さんの分のプリンちょうだい」
ふむ、そう来たか。まぁ、何かあるとは思ったよ。
しかし耳かきか。
何だか母さんを思い出すなぁ。もう随分と前に亡くなった妻だが、彼女も気が向いたときに私を呼んで耳かきしてくれたものだった。
亡き妻と娘の姿を重ねてホロリとする。
「お父さん?」
「んん……ああ、そうだな。じゃあ、ちょっと頼もうか」
「OK♪」
「プリンも食べていいよ」
「うん」
プリンのひと言に笑顔になる娘。
もう少し大きくなったらプリンくらいじゃあ笑ってくれなくなるんだろうな……ん? 待てよ??
「そういえば、昨日はお兄ちゃんにも耳かきしたんだよね?」
「うん、そうだけど?」
「お兄ちゃんの方から耳かきしてって言ってきたのかい?」
「うん、プリンあげるから耳かきしてって言ってきたんだよ」
「そうか……」
この娘はプリンひとつで懐柔されたのか。ちょっと安っぽくないか?
いや、まぁ、兄妹のノリだから問題ないか。そういえば母さんも中学生の頃は――
「何?」
「いや、何でもないよ」
「そう? まぁ、いいや。じゃあ、お父さんここでゴロンと寝っ転がって」
そう言いながら娘は膝の上にクッションを乗せる。兄妹でやるときと同じスタイルだ。口では「それじゃあ遠慮なく」なんて
柔らかなクッションが十分に沈むと、布越しに痩せた太ももが当たる感触がした。
「どうだい?」
「わっ! 汚い!!」
開口一番、娘は言った。
「そんなに汚れてるのか?」
「うん、耳垢がびっしりついてるよ」
「そうか」
どうりで痒いわけだ。その垢を綿棒で根こそぎこそぎ取っていく。昔、妻にしてもらった耳掃除の感覚が脳裏に蘇り背中がゾクゾクとしてきた。
「それじゃあ、頼むよ」
「は~い」
視界の端で息子の部屋から持って来た黒い綿棒を取り出すのが見えると、娘が私の耳たぶに触れた。
ぎゅむぅ~~っ……っと、耳たぶに緩い圧がかかる。
「おお……ぉ?」
「あれ? 痛かった?」
「いや、大丈夫。逆に気持ちいいくらいだ」
「そう、じゃあ、もっといくね」
ぐぅ~っ、ぐぐ~っ、ぐぐぐ~~っ
耳たぶにじんわりと圧がかかりつづける。
按摩のようで実に気持ちがいい。
そんな心地ですっかり緩んだ耳の穴の中に黒い頭の綿棒が忍び込む。
ずぞぞぞっ、ぞぞっ
綿棒が耳の壁を擦り上げる。
「ぬぬっ!?」
不意打ちのような一撃に声が出る。
ぐるんと、綿棒の頭が耳の中で一回転した。
「うわ~、ちょっと入れただけなのにメチャクチャいっぱい採れたよ」
「本当だな」
釣果のように見せつけて来る黒い綿棒の頭にはわずかに湿り気を帯びた灰褐色の耳垢がびっしりとこびりついていた。
「どんどん取ってくよ」
「ああ、頼むよ」
耳の感触に集中するために目を閉じる。
絹擦れの音が聞こえた後、耳に近づく気配を感じた。
ずずぞぞぉぉ~っ
再び綿棒が耳の中に入る。
ぐぐぐっ、ぐぐぐぐ~~っ
マッサージするように綿棒の頭が耳洞に圧を加える。
ずるん、ぐるんっ
加わった圧に回転が加わる。
痒かった耳の中を優しく掻いてくれる感触に小さく声が漏れた。
「ぬっ……おお~っ!」
「どう?」
「うん、好いとこに当たってる」
ぐぐっ、ぐぐぬ~~ぅ
痒い部分にまた当たる。その度に走る快美感。
これは好い。実に好い。
「うん、いいな。その辺りだ」
「この辺?」
ずぞぞ、ぐぐぐぅ、ぐるるんっっ
すでに父さんの耳の感触を掴んだのか、綿棒が手早く動き垢を搔き出していく。
「ああ……そこそこ。もっと奥の方とかもいけるかい?」
「ああ、うん、また鼓膜まであるから大丈夫そうだけど――」
娘の手が止まる。
綿棒がゴミ箱に捨てられる音が聞こえたので、恐らくは新しいものに換えたのだろう。
「――こっちの方が溜ってるかも」
「っっ!!!!?」
ずぐんっ!!……っと、耳の中で鮮烈な一撃が加えられる。
そこは自分の考えていた耳の奥ではなく、それよりも随分と浅い場所。
だが窪んでいて指では届かない。まさしく秘所といったポイントだった。
「あ~っ、やっぱり。いっぱい溜まってる」
言いながら綿棒を摘まむ指に捻りが加えられる。
ずりりぃっ~~っ
溜った垢がこそぎ取られていく音。
指で触れられない部分を綿棒が責める。
そこはまさに今日の昼から痒くて仕方がなかった部分そのものだ。もっと奥の部分が痒いと思っていたのだが、実際に痒みの原因になっていたのは手前の部分だったのか??
自分でも思ってもいなかった部分を実の娘に暴き立てられる。
恥ずかしいやら、気持ちがいいやら、何とも形容しがたい感覚だ。
「どう? 痛くない?」
「あ、ああ……大丈夫だ。むかし母さんにやってもらたのを思い出すよ」
「お母さんって、お母さん? お婆ちゃんじゃなくて?」
「そう。父さんの奥さん」
「へぇ~、お父さんって、お母さんに耳かきしてもらってたんだ」
「たまにだけどね。お兄ちゃんもやってもらってたんだよ」
「わたしも?」
「うん」
「覚えてな~い」
「まぁ、もの心つくかどうかの頃だからなぁ」
頭の上から聞こえてくる娘の声を聞きながらも、耳の穴は綿棒がぐるんぐるんと出入りしていた。
このぐるんぐるんも何だか覚えがある。
妻も綿棒で耳かきする
ぐるぐる、ぐりぐりぃ~っ
回転の加わった綿棒が耳垢を削剥させていく感触に悶えながら昔のことを思い出す。
そんな時だった。
「ねぇ、お父さん」
「何だい?」
「わたしとお母さんって、どっちが耳かき上手?」
「??」
妙なことを訊いてきた。
「ねぇ、どっち?」
細い指先が耳朶に触れた。
「お母さんとわたし……」
耳介をなぞりあげた後、黒い綿棒の頭がゆっくりと耳の穴に忍び込む。
「どっちの方が上手?」
耳孔に侵入した綿棒の頭は舐めるように粘膜を擦り上げた。
その感触と妙に甘ったるく聞こえた声に、背筋にゾクゾクとしたものが駆け抜ける。
「えっと……」
舌がもつれて即答出来ない。
その間にも柔らかい綿棒の先端は耳壁をゆっくりと這い、溶かすようにして堆積した耳垢をこそぎ取っていく。
ずぬぅ……ずずずっ……ずずずぬぅ
耳を這う音は湿り気を帯び始めていた。
恍惚とした感覚はより強いものとなり、娘から発する気配が濃くなった気すらする。
「えっと…………」
言葉を搾り出そうとするのだが上手く出て来ない。
「えっと………………」
「はい、終わったよ」
「えっ!?」
気づけば娘は父さんの耳から手を放しており、それどころかそのまま体をスライドさせて膝の上から父さんの頭を落っことす。
「じゃあ、お父さんの分のプリンもらうからね」
そんなことを言いながら意気揚々と冷蔵庫からプリンを取り出しソファの上で食べ始めた。
「……………………」
何だろう。
人としてとんでもない間違いを犯す寸前だったような気がする。
よし、とりあえず駅前のケーキ屋に行こう。今の時間ならギリギリ開いているはずだ。妻はそこのアップルパイが好物だったのだ。
耳の中に残った淡い感触を少しだけ名残惜しく思いながら、仏前に備えるお詫びの品を手に入れるために私は慌てて駅前へと駆け出した。
とある一家の耳かき事情 バスチアン @Bastian
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