第十章 歌声は存在しない空に響き渡った①

 パラパラと水音がした。


 客室のシャワールームは独立した区画で、不透明なガラスドアが装設されていた。


 清水は素早く肌の上に流れ、殆どは床の隅にある排水口に流れ込んだが、一部は細かい模様をもつ凹みに溜めていた。


 きれいで清澄、流れるような透明感にあふれ、不純物の痕跡は一切ない。こんな水が飲むためではなく、体を洗うのに使っていた。しかも分量の制限はほとんどなく、水を回収して再利用することを聞いて、非常に驚いた。


 私は俯いてじっと見つめていた。そして手を伸ばしてシャワーヘッドを抑えながら、清水が指の隙間から流れる感触を感じて、暫くしてから水栓を閉めた。


 シャワールームには清水がパイプに流れ込んだ些細な音しかなかった。


 鏡は水気に覆われ、ぼんやりとしていた。


 私は手を伸ばして指で、特に意味もなく鏡をなぞった。依然として水玉の触感に慣れないことに苦笑いを浮かべて、すぐにタオルを持って体を拭き、動きやすい服を着た。


 以前はこんな噂を聞いたことがあった──貴族たちは視察期間に気に入った小惑星人を連れて月に戻って、彼らを月の宮殿の召使いにした。実際ではそのようなことがあったが、しかし召使いではなく、各分野の後方支援と事務的な業務を担当させた。何せ清掃方面では全部ロボットに任せた。


 幸運にも月に来た人々はまず客室に住み、審査を通過して永住権を獲得するまで、自分の部屋を所有することはできなかった。


 私はベッドの縁に座り、タオルを使って少しだけ伸びた髪を拭いていた。


 勝手に月海基地に潜入した事件はもう終わって、恐らくエーデルが何とかしてそのことを伏せたと推測した。私の正体を知る人は極わずかしかなく、今はレオンスタ視察官が連れてきた召使い候補として滞在するが、試験に合格すれば正式的な身分と永住権が得られる。


 とは言え、「真相」を知ってしまった以上、その試験も形だけのプロセスに過ぎなかった。


 私は後ろに倒れてベッドに横たわり、天井の細かい模様をじっと見つめた。


 外にある広大な大地の月の土壌は濃い灰色だが、月の土壌レンガにする時は、極めて高い圧力によって薄い灰色になり、不規則な細かい模様が現れる。


「よく考えれば、私も月の塵によって構成されている部屋の中にいるよな……」


 呟きが部屋の中に響き渡り、余韻が残った。


 何となく酸素供給システムのブンブン音を聞いたような気がしたが、間違いなく錯覚だった。


 引き続き天井を眺めて、暫くした後、急にドアのベルが鳴った音が聞こえたが、まだ返事もしていないのに、ドアが押し開けられたのを見た。


 エーデルは客室に入り、相変わらずスーツと白いローブを身に着けていた。


「勝手に女性の寝室に入らないで」私は呆れたように身を起こした。


「ベルが鳴りました。それに約束をしたはず、違いますか?」


「それでも礼儀を守るべきだ」


 私は仕方なくため息をついて、立ち上がってテーブルから身分磁気ボタンとスマートウォッチを手に取った。自分が殆ど手荷物がないと嘆きながら、月からダウンロードしたアプリをスマートウォッチの中から消して、「月のプログラムの中に衛星測位機能が隠されていないというのは本当だろうか?」とさり気なく尋ねた。


「あれは数多くの陰謀論の一つでしょう。よく考えればわかるが、多くの月人は一生月海基地を離れることがないのであれば、何で衛星測位機能が必要でしょうか?」とエーデルは頭を振りながら苦笑いをした。


「それもそうだけど、その噂の中に真実は存在しているだろう」


「多くの人々は気づきません」


「まあいい、もう使わないから削除しよう」


 エーデルは壁の傍に立って、「千華、やっぱり離れる決心がついたのですか?」と平静として尋ねた。


「ここでは空が見えない」


「それだけですか?」


「離れる理由としては十分だ」


 私の返事に対して、エーデルは肩をすくめて、 これ以上聞かなかった。彼は私がスマートウォッチの電源を切ったのを見て、スーツコートのポケットから銀色のネックレスを取り出し、前に差し出した。


「金細工を専門とする友人に依頼して、その壊れたものを新しいネックレスに加工しました」


「……え?」


 私はその青いネックレスを見て、思わずポカンとした。


 元々は少し割れ目が付いている花びらがもっと徹底的に破壊されて青い粉末になり、シルバーホワイトの枠の外に嵌められて、キラキラと輝いていた。見た目が変わっても、青い花びらのネックレスであることに変わりはない。


「あ、ありがとう。ゴミとして処分されたと思っていた」私は両手で受け取り、手のひらの重さを感じていた。


「どういたしまして」


 私は気を付けながらネックレスを付けて、そして真顔で口を開いた。


「──では出発して、この月海基地を離れよう」


 エーデルはドアを開け、微笑みながら横に向き、手を振った。


「そのすべてはあなたに任せたとはいえ、本当に大丈夫なのか?」と私は思わず尋ねた。


「大丈夫です」


「まさか私たちが港に止まっているあの巡視艇に乗ることはないよね?」


「あの巡視艇はもう取り押さえられていました。本当のことを言うと、元々ゾイさんが勝手に乗ったのが悪いです。今ので物が元の所有者に返りました」


「直接、はっきりと説明してよ。私が何を聞きたいのか知っているのに、わざと重点を避けた悪い癖は相変わらずイライラする」


 私は思わず彼を睨んだ。


 エーデルは何回か苦笑いをして、すれ違った月人に会釈して、何事もないかのように言った。 「以前少し話したことがあるが、僕は元々月海基地を離れるつもりです。廃棄処分にされる軍用の機動巡視艇を事前に準備し、基地の外にあった太陽光発電所に止めました。その後、護衛戦艦に乗る機会を貰ったので、この計画を実施することはありませんでした」


「発電所内には離着陸するのに十分なスペースがあるのか?」


「技師たちはメンテナンスのために哨戒艇で出向いて、専門的な格納庫があるので、問題ありません」


「あの船は?」


「申告した時に数字を弄っただけ、本来の廃棄処分まで何年もあります」


「航行ルートは?」


「月の表面に沿って低空で半日くらい航行すれば、二つの月海基地の境界線に到着します。あそこの警戒は比較的に弱めなので、そのまま垂直に離れば大丈夫です」


「パトロール隊はちょっかいを出さないのか?」


「その目で月を見ました。例え千百年前の大戦で軌道運動エネルギーの大型兵器によって穴が開いたとしても、月は依然として太陽系の最前列に並ぶ巨大衛星です。現在の月人の人数では徹底的に守ることが出来ず、月海基地の周辺空域を巡視するだけで精一杯です」


「そう聞くと、月の空域は穴だらけだ」


「月海基地自体の警備はかなり厳重です。当時はその巡視艇に月の軍部のシステムが搭載され、認識コードも以前システムに登録されたことがあるため、警報が鳴ることはありません。しかももし僕がゲートのパスワードを入力してなければ、廃棄された港から基地の内部に入ることができません」


 エーデルは少し止まって、言葉を付け加えた。


「それ以外に、重力圏付近の宙域は確か船が出入りを確認するセンサー器械が設置しています。しかしそれは『外部から内部』に侵入する者のための物で、もし操縦している哨戒艇は本当にスキャンされて、高速で月を離れている場合、月海基地から出発して状況を確認するパトロール隊には追い付きません」


 私は繰り返してこの計画の考え、隙がないことに少し安心して、「お姉ちゃんもこの方法を使って離れたのか?」と平静として尋ねた。


「ゾイさんは一度も月海基地を離れる意思を表に表せず、精神科医である僕にもわかりませんでした」


「お姉ちゃんらしい」私は思わず口角を上げた。


 この時、私たちはもう客室エリアを離れていた。


 ハーミス月海基地は相当広く、例え一日を掛けても全部を回ることは難しい。しかも温室、公園、屋外広場などの小惑星基地ではなかなか見ることができない場所があって、ここでは植物、花と土はあまり稀少なものではなかった。


 住民たちは自由に動き回れることができるが、一部の特殊エリアは身分磁気ボタンがないと、ドアを開けて入ることができない。


 エーデルはハーミス月海基地の主任医長として、元々は軍部エリアに入り資格があった。例え今は一部の権限が制限されていたとしても、殆どのエリアを自由に行くことができる。


「離れる前に、どこか行きたい場所はありますか?」とエーデルは頭を傾げて尋ねた。


「ない」


「あっさりですね。今回離れば、もう二度と月へ来ることができませんよ」


「そんな予定もない。お姉ちゃんが残した電子ファイルも全部スマートウォッチに保存したし、過去数日間の暇な時間もよくあの部屋に居て、『颶風洋』と呼ばれる広大な平野を眺めて、もう遺憾はない」


「昼まで待つつもりはありませんか?」


「漆黒な空に白い太陽がかかったどころで、見る価値があるとは思わない」


「なら先に僕と一緒にある所へ行きましょう」


「ちょっと待って、どこに行くのか?回り道は嫌だけど」


 エーデルは相変わらず答えなかった。私はすぐに止められないと理解し、ため息を我慢して、仕方なく後に付いていった。


 私たちはすぐに学術研究、資料保存に偏ったエリアに来た。


 ここには図書館、閲覧室などの部屋があった。過去数日間に私も偶に来たことがあるが、何でエーデルは離れ際にわざわざここに回り道をしたのかわからなかった。


「月海基地の中は水族館がないが、博物館があります。多分行ったことがありませんよね?中にはたくさんの地球の珍しい文化財が置いてあり、例えば今の技術では再現できない機械と歴史的な意味を持つ芸術品などです」


「だから、ウロウロするつもりはない」


「大丈夫、ドアまで行くだけです」


 エーデルは説明を続けず、再び歩み出した。


 私は必死に焦燥感を抑え、博物館の入り口に着いた時は思わず足歩みを遅くして、頭を上げてそのもうすぐで高い天井に触れそうな巨大なものをじっと見つめた。


 金属の台座はグレーシルバーで、ガラスのグリップで大型の骸骨を支えていた。一部の白い骨の中は、一本だけで人間の背丈を遥かに超えており、互いに繋ぎ合わせ、前が重くて後ろが軽い、長い胴体を構成して、目測で全長が数十メートルを超えていた。


 私は多分頭の部分の長形骨を見つめ、暫くしてからようやく声を絞り出した。


「これは本当に骨なのか?この世にはこんなに大きい生き物が存在していたのか?」


「はい、これはクジラの骨格標本です」


 エーデルは少し止まって、「シロナガスクジラのです」と言葉を付け加えた。


 この時、私は急に姉の動物図鑑を思い出した。


 もらった数多の書籍の中、姉は特にそれが好きで、巣枠にいた頃はいつも手に取って読んで、離れ際のパレードの後も一緒に月に持ってきた。


「ゾイさんがまだ月海基地に居た時、よくここに来ていました。彼女は博物館の中に入ることなく、今僕たちが立っている位置に立って、じっと目の前の骨格標本を眺め、時に何時間も滞在したこともあります」


「お姉ちゃんは理由を話したことがあるのか?」


「多分ある種の親近感を感じたのでしょう」エーデルはゆっくりと「クジラは海洋の中に生活していた哺乳類で、直接えらを使って水中で呼吸する魚類と違って、クジラは酸素を頼りにしています。例え長時間に息を止めることができたとしても、海面に浮かび上がって呼吸する必要があります」と言った。


 クジラにとって、深海は呼吸するだけで命を落とす環境だ。


 ある意味、確かに小惑星基地に生活している地球人と極めて似ていた。


「なんで物語の最後に、そんなに不確かになった?」と私は横目で尋ねた。


「あの時は根掘り葉掘りに聞きませんでした」


「役に立たないわね」


「神秘さを保ったほうがいいこともあります。質問するのは機転が利きません」


「ただ単にお姉ちゃんの前でかっこつけたくて、わかったようなふりをしただけだろう」


 私は呆れたように鼻で笑って、依然として顔を上げてその極めて大きい骨格標本を眺めた。手を伸ばしてそっと表面に触れて、姉が抱いたかもしれない奇妙な情緒を徹底的に覚えるまで、「ここに連れてきてありがとう、そろそろ発電所に行こう」と再び口を開いた。


「ではそろそろ旅立ちましょう」


 エーデルは何回か苦笑いをして、何の未練もなく振り返って、博物館を離れた。

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