第九章 彼女の理由①

 エーデルはすぐに答えなかった。


 寒い空気は暗い部屋の中の床に彷徨って消えてなかった。


 私は足首を回して、肌に浸み込みそうな感覚を振り払おうとしたが、うまくできなかった。


 暫く経った後、エーデルはそっと言った。


「ゾイさんの『理由』を話してもいいのですが、あなたにとってあまり意味のないことかもしれません」


「こんな時に、また誤魔化すつもり?」


「違います」


 エーデルはゆっくりと頭を振った。


「このことには順序があります。もしゾイさんの『理由』を説明するのなら、必ずしも地球と月に関する『真相』を話さなければなりません。ですが軽々しくすべてを話せば、あなたを危険に晒してしまいます。もしかしたら状況を悪化するかもしれないので、的確な場所まで待つ必要があります……例えばこの月海基地でしか話せません」


「なら言ってよ!」


「真相を知っても何も変えられない。その理由も同じです。それでも後悔しませんか?」


 エーデルは私の視線に耐えて、暫くして妥協したように再びリモコンを手に取り、天井の器械に向けた。


 部屋の隅から隅までスキャンした青い光はまた現れ、目の前の景色も変化した。


 さっきの宙に浮かぶ月とモニターと違って、今回は家具とインテリアも細かく再現され、瞬く間にオフホワイトの典雅な部屋にいた。レザーソファは中央に設置されており、壁には木枠の花弁の油絵をかけて、隅にはいくつかの植物の盆栽が置いてあった。


 鮮やかな緑色の葉っぱは依然として水玉が残り、さっき水やりを終えたばかりのようだった。


 すぐに柔らかいピアノの音がした。


 投影は細かいところまで真実味にあふれ、触れた部分がノイズにならなければ、これらを本物のように思うかもしれない。


 エーデルはまたリモコンを押した。


 その後、部屋の中央のソファにどこからともなく二人の姿が現れ、向かい合って座っていた。


 その中の一人は白い長い髪と空色の瞳を持ち、端正に座っており、それが姉だった。


「……あれ?」


 私は思わず息を呑み、傍にいる姉をじっと見つめた。無意識に手を伸ばして触ろうとしたが、指先は姉の肩を通り越した。その部分は文字化けのようなノイズとなり、パチパチという音を出した。


「電子信号によって保存されている映像は立体的な方法で投影できます。この部屋で起きたことを完全に再現できますが、投影はあくまでも投影です。月の最新技術をもってしても、何もないところから実体を作り出すことができません」


 もちろんそんなことは知っているが、私は手を引っ込めたくなく、姉に触れ続けたかった。


「──すみません、今日もお願いします」


 姉の声がはっきりと耳に伝わった。


 もう二度とその婉曲な声を耳にすることができないと思っていた。


 思わず涙を流してしまった。


 私はもっとはっきりと聞こえるように、手を伸ばして拭くことなく、できるだけ咽び泣くことを我慢した。


「エーデル先生、髪を切りましたか?」


 私は驚きを隠せずに振り返り、遅ればせながらソファの向かいに座っている男子がエーデルであることに気づいた。


 彼は今と同じような服を着て、スーツの上に白いローブを掛けていた。しかし彼は一部の前髪を掻き上げ、ハーフフレームの眼鏡をかけていた。自信に満ちた雰囲気は今傍に立っているエーデルとは大違いだった。


「当然ながら、医者と患者の会話は秘密されており、録画も録音もしません。僕の診療室もそのような機材を設置していませんが、ゾイさんはそうしたいと自ら要求し、『存在した証』を残したいと願っていました」


 傍に立つエーデルはそっと言った。


 私は応え、投影されている二人を眺め続けていた。


 彼らは微笑みながら会話を続けた。レストランが提供していた新しいメニューだったり、基地で行った油絵のコンテストだったり、最近見た本だったり、月の夜明けまで何日残っているのか、日常生活に纏わる些細なことを話したりして、殆どの時は一問一答だった。そのやり取りは丁寧で、探りを入れているような感じだった。


「これは……何をしている?」私は思わず尋ねた。


「カウンセリングです」


「何か意味があるのか?」


「ゾイさんはこの月海基地に着いた後、もう歌えなくなりました。この基地を担当する精神科医として、診療を行う義務があります」


 エーデルは淡々とした口調で言ったが、姉を見つめる眼差しには深い悲しみが含まれていた。


「まさか?」私は驚きながら聞き返した。


「診察の結果によると、『真相』を知ることこそが、ゾイさんが歌えなくなったきっかけだと思います……煙雨楼の現任の第一姫である『深紅姬』ユニスは、ゾイさんは自分の魂を打ち砕いて、歌声と化し歌い出すと言っていました。それはかなりぴったりな比喩で、『天穹姬』の歌声は心の奥底まで染み渡る力を持っています。とはいえ、地球はすでに滅び、青い空を見る夢はもう実現する機会がなくなりました」


「で、でも歌えなくなったことにはならないだろう?」


「最初のころは声を出すことすらも難しく、心因性発声障害と診断されました。何回かの治療を経てうまく発声できましたが、歌うことについては……」


 エーデルは言葉を続けず、何らかの強烈な感情を抑えているようだ。


 私は目の前に微笑んで話している姉を見て、現実と幻想の挟間にいるような感覚が足の裏から湧きあがり、上昇を続け、瞬く間に飲まれそうになった。


 この時、涙がいつの間にか止まったことに気づいた。


 眼鏡をかけているエーデルは立ち上がり、部屋の隅に近づき、機械を使ってコーヒーを淹れ始めた。


 匂いの分子は当然ながら電子信号を通して投影できないが、私は微かにその香りを嗅いだ。


「ゾイさんは未だにコーヒーを試すつもりはありませんか?」エーデルは頭を傾げて尋ねた。


「コーヒーには独特な匂いがありますが、基地から来た人にとって、きれいな水が一番の飲み物です」


 姉はテーブルに置いていたグラスを取って、氷水を小さく啜って、エーデルが微かに煙が出ているコーヒーを持って席に戻ったのを待ってから、「エーデル先生、『海』というものを実際に見たことがありますか?」と言葉を続けた。


「この月海基地は『海』を使って命名したが、月の表面には、せいぜい人工的な湖しかありません」


「ということは、ここを離れたことがありませんか?」


「はい、残念ながら僕の海に対する理解は文字と映像だけです」


「月の技術には驚かされています。バーチャルリアリティーの技術を使えば、自らその場に立ち臨むことができますが、それは違うだと思います。本当の海は大地の空に繋がって、もっと深くて複雑、かつ変化し続ける青色を持ち、波も絶つことなく、きっと極めて壮麗な景色でしょう」


「そうかもしれません」


「エーデル先生は、今後海を見る機会があると思いますか?」


「それは……月ではその方面の計画を進め、今後も引き続き人工的な湖を拡張するつもりです。もし湖の範囲が視界の果てを超えれば、海と同じように見えます。地球でもその方面についての記載が存在しており、澄んだ湖は地平線のもう片方に広がっていきます」


「湖には殆ど潮汐がなく、味もしょっぱくありません」


「ゾイさんは地球の関する様々な知識にも詳しいので、感心しました」


「それほどでも」


 姉は両手の指を交わってグラスを持ち、平静として尋ねた。


「なら空はどうですか?」


「……はい?」


「今後は空を見る機会がありますか?」


 エーデルはもう一回はっきりと聞こえていないふりをできずに、軽く息を吐いて、答えなかった。


 姉は瞼を落とした。


「そのことは月人の間に秘匿されており、私もそうした理由を理解しています。ですが宇宙の他の場所に住む人々は、いつの日にかこの目で空を見たいと依然として期待しています。私の妹の千華もその一人です。」


 姉の口から自分の名前が聞こえて、胸元からまた懐かしい感じが湧いた。


 せっかく止まった涙が再び流れ出した。


 私は片手で口を抑え、傲然に胸を張っている姉を見つめていた。


 それに対して、眼鏡をかけているエーデルは苦笑いを見せた。


「特定な分野で優秀な成績を収めて人のみここに招待され、永住権を貰えます」


「千華は私よりも凄くて、空を見たいという決心とその決心を実現する行動力を持っているから、彼女は必ず約束を守ります。もしかしたらいつの日にか自製の宇宙に乗って、この月海基地に来たのかもしれません。何せ地球に行くといったら、必ず月に止まることになります」


「そうなれば大騒ぎになるでしょう」


「あら、信じない顔をしていますね」姉は何回か軽く笑って、「私たちはそのために詳しい計画を立てて、闇エリアの路地の隅で互いに寄り添い合って、どうやってその檻から離れるのか、真剣に話し合って、それからどうやって徹底的に閉鎖した地球に潜り込むのかも──」と懐かしそうに言った。


 そして、姉の声が突如消えた。


 姉と眼鏡をかけているエーデルは動かなかった。


「何で止める?最後まで見させて!」


 私は手を伸ばしてエーデルのリモコンを奪おうとしたが、彼は二歩後ろに下がり、簡単にかわした。


「もうかなり疲れています。もしこれ以上に無理をすれば、また倒れてしまうかもしれません」


「それがどうした!お姉ちゃんはここにいる、最後まで見させて!」


「僕はゾイさんの意志に尊重して、カウンセリングをした時の全ての記録を保存しています。もうこの月海基地に来たのなら、これからは自由に見てもいいのですが、体を大事にしてください。まだ月の重力に慣れないうえ、さっき気を失った状態から覚めたばかり、また倒れたら本末転倒です」


 私は強く深呼吸をして、手を伸ばせば触れられそうな姉を見つめた。


 それから、微かな違和感が頭によぎった。


「ちょっと待って、また話をそらしているだろう……お姉ちゃんが歌えないからって、彼女を見捨てたのか?」


「見捨てるとは強烈すぎる言葉です」


 エーデルはゆっくりと頭を振った。


「例えゾイさんは歌の分野で優秀な才能をもってしてこの基地に招待され、永住資格を得ました。しかしここは元より数万人が長期居留できるように設計されており、さらに数回の拡張作業を行ったため、一人増えて、もしくは減ったところで何の変りもありません。それに、例えゾイさんが歌えなくても、作詞作曲、楽器の演奏面では造詣が深いです」


「それなら、何でお姉ちゃんは小惑星基地に戻った?」


「ゾイさんは自分でそうしたように選びました」


「……お姉ちゃんは宇宙船を操縦できない」


「軍用の機動巡視艇には最新バージョンの自動航行システムが搭載されており、座標を設定すれば、基本的に目的地までうまく航行できます。ゾイさんにも軍用の機動巡視艇の位置とコードナンバーC2059の基地座標を調べるのに充分な時間があります」


「でも何でお姉ちゃんはそうしたのか?」


 エーデルは仕方なくため息をついた。


「千華、気づいたはずです。規定によれば、『真相』を知った人は月に残る必要があり、視察官の審査とテストに通過した人のみ、離れる資格を持っています。その同時に、ゾイさんが勝手に離れたせいで、高官は『群青の歌姫』に関する噂を聞いただけで大型の船を派遣して、確認のために向かわせました」


「元々戦艦を使って基地を爆撃しようとした人々を信じろと言うのか?」


「すみません、その時は月海基地まで一緒に来てもらうため、少し言い過ぎた言葉を使いました。レオンスタは確かに人情に疎いのですが、かなり冷静で理性的なタイプの人です。僕ら月人もそう簡単に数万人が住んでいる基地を軽々しく爆撃するつもりもありません……何せ僕らは壊滅的な兵器をむやみに使って結果を一番知っています。遠距離母艦と護衛戦艦は、ただその基地の政府官員にプレッシャーをかけるため、政治手段の一環として見做してもいいでしょう」


「じゃあどんな卑劣な方法で、お姉ちゃんが情報を漏らすことを防いだ?」


 私は怒って尋ねた。内心で色々な可能性が浮かび上がった。例えば手錠を掛けたり、脅迫したり、もしくは姉に毒薬を飲ませたりした。そうだ、もし継続的に軽量な解毒剤を服用する必要がある毒薬、もしくは定期的にスマートウォッチにパスワードを入力しないと、体内の器械からウイルスが放出されるのなら、何で一人で巣枠に戻った姉が死んだことに説明がつく。


 エーデルはすぐに答えず、手を伸ばして軽く壁を触っていた。


「この月海基地の殆どは月の土壌によって構成されています」


「……何?」


「特殊な技術を通して月の土壌を石レンガにつぶされ、鉄筋構造の外に敷いて、または金属の表面に塗られる強化塗料にしました。それは殆ど尽きることのない原材料で、実際に多くの基地が月から建材を購入し、殆どは視察の際に戦艦を利用して運んでいきました。それがなぜ視察団の人数が少ないのに、大型の宇宙戦艦を操縦して向かう理由の一つです」


 そういえば、巣枠の天井は確かに似たような模様があった。


 私は急にそれを意識して、涙の残る視界で俯いて足元を見つめた。


「とはいえ、月の土壌はかなり細かくて角が鋭いので、もし体内に吸い込まれた場合、気道を傷付けることになります。量が多ければ……命にかかわるようなひどい内出血を引き起こす可能性があります」


「防護服を着ずに出かける人はいないよね?」


「はい、なので月の塵を吸い込むことは殆どありません……もし宇宙服を着てなければ、月海基地を離れた瞬間に即死するが、偶には事故が起きます。誰のせいでもなく、事故です」


「ちゃんと聞いている」


「月海基地と宇宙戦艦の出入り口では特別な区画が設けられ、港のゲートの小型バージョンと言えるでしょう。宇宙服を脱いで洗う時、これを担当した人員は時々、月の塵を吸い込むことになります。例えばパイプをメンテナンスをした時、もしくは古い宇宙服を整備する時」


 エーデルは少し止まって、また続けた。


「または、一部の小型宇宙船が航行途中にぶつかり、ジャンクボックスに保存されている月の塵が船内に入り込むなどです。大型船ならフィルターを搭載し、さらに空間が広くて船員が多いため、それほど問題にはなりません。小型の船艇なら、例えば軍用の機動巡視艇とかの循環システムは基礎的な古いバージョンなので、徹底的に月の塵を濾過できず、密閉空間で呼吸し続ければ、かなりの影響を受けることになります」


 まさか……それが姉の死因だったのか?


 軍用の機動巡視艇を操縦して小惑星基地に戻る途中、偶発的にぶつかったせいで月の塵が船内に満ちてしまった?何せ姉は操縦できないから、自動航行システムは偶に小型で硬い金属ゴミを見逃して、それにその巡視艇の外部には多くの損傷が存在していた──


 よく真夜中の夢に出てくる鮮明な画面が再び目の前に湧きあがった。


 巣枠の壁に横たわった姉の口元から鮮血が溢れ出し、体には目立った外傷がないのに、その出血量はドアまで流れていけるような程度だった。


 体内に吸い込まれた月の塵。


 咳き込んだ時に出る鮮血。


 私は思わず胸に手を当てたが、青い花びらを付けているネックレスはもう壊れたことを思い出した。


 もう元通りには戻れないような欠片と粉末になり、徹底的に壊れてしまった。


 だから……姉は自殺したわけじゃなかった。


 ──姉は戻って私に会うために死んだ。


 そんなことをしなければ、姉は今もこの月海基地で無事に暮らしているのだろう?


 胸が痛い。


 視界が朧げになった。


 エーデルは未だに何かを言って、悲しそうな表情していた。しかし彼の声は激しく跳ねる心臓の音によって遮られた。ブンブン、ブンブンという断続的な音となり、何を言っているのかよく聞こえていなかった。


 電子投影されている姉は依然としてソファに座り、少し憔悴だけど幸せそうな笑顔を見せた。


 視界がぼやけて揺れており、景色が重なっていた。


 私は自分がうまく呼吸できないことに遅ればせながら気づいた。今までの中で一番深刻な状況だ。


「──千華?」


 エーデルは疑問に思いながら尋ねた。


 その時、部屋のドアは轟然と開けられた。


 スーツを身に着けているレオンスタが怒りながら部屋に踏み入れた。一時停止されている立体投影をチラッと見れば、状況を把握したような表情を見せ、速やかにエーデルの手に持っているリモコンを奪った。


「エーデル、そのことを話したのか?」


「千華には知る権利がある」


「そういう問題じゃない!そんなことをして、どうなるのか知っているのか?」


「もちろん」


「一体何を考えている?」


 傍で起きた激しい言い争いを聞いて、私は薄々とエーデルがそうした理由を理解した。しかし耐えられないほどにめまいがして、心臓も痛くなり、頭もくらくらした。杖に手を伸ばそうとしたが、握り損ねて、そのせいで体が傾けて、畳椅子から床に落ちてしまった。


 かろうじて肩が床につくように体を振り向いたが、痛みは依然として全身に渡った。


 意識を失う際に、私は傾いた視界からエーデルとレオンスタが慌てて近寄ってくるのを見た──

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