第八章 灰色の地に佇むガラスの宮殿③

「千華、知っていますか?」


 エーデルはそれを始めに、平然とした口調で尋ねた。


「他の基地から月へ来た人々は、航行途中で安眠薬を飲まされます。理由の一つとしては大型の宇宙船のシステムに偶発的に触れ、メンテナンスが出来なくなる問題を避けるためです。二つ目は月の重力によって、例え起きても自由に行動できないため、睡眠状態のまま月海基地の部屋まで運びました」


「本当は月へ向かうルートとそれに関係する情報を隠すためだろう」


「その方面ではいつも鋭いです」


「光学迷彩のバリアを設置したから、どう考えても座標を隠すためだろう」


「本当はそれだけじゃないです。光学迷彩を作る装置だけでなく、数多の電波を妨害する装置が設置されており、月の電波は外に届けられず、外からの電波も届くことがなく、電子の城壁は死角がなく月を取り囲んでいました」


「徹底的だな」


 エーデルは肩をすくめて、引き続きキーボードを打っていた。


 部屋内の灯りはたちまちに暗くなった。天井に設置されている器械を中心に、ある青い光が四方八方に広がり、瞬く間に部屋の隅から隅までにスキャンを終わらせた。次の瞬間、ある立体的な月が部屋の中央に現れた。丸みを帯びたオフホワイトで、明るくて煌びやかな光を放って、ゆっくりと回転していた。


「これは月の最新技術で、立体映像を映し出せます」


「……煙雨楼でも同じような装置を見たことがあった。ステージでパフォーマンスをしている歌者を事前に設置したモニターに映り、遠くにいる客人も近距離で立体的な映像を見ることができる」


「それはよかった、他に説明する必要はありませんね」


 エーデルは片手にタブレットを持って、私の傍に歩み寄り、言葉を続けた。


「その時、僕は船に居ませんが、ゾイさんは予想した時間よりも早く起きたらしいです。ですが宇宙に響き渡った『天穹姬』の身分により、担当した職員は規定に従ってもっと高い分量の安眠薬を飲ませることなく、代わりに客室を手配して、月の重力圏に入る前にまた安眠薬を飲ませただけです」


 姉は闇エリアの出身のため、すでに薬に耐性がついていた。


 私はすぐにその原因を理解したが、なぜ急にこの話題になったのかわからなかった。


 部屋の中央に浮かんでいる月はゆっくりと回っている。物凄く精巧で、隕石によってできた穴の一つずつすらもはっきりと見えた。


「あの時、あなたの巣枠からたくさんの薬瓶を見つけ、その中の殆どは解熱鎮痛剤、精神安定剤と睡眠薬です。当時は量が多すぎると思いましたが、今よく考えれば、あなたはただゾイさんの分を残していると思います」


 エーデルははっきりとした口調で言った。「もしかしたらまだ期限が過ぎた薬剤を捨てていないかもしれません、または毎回薬を受け取る時は二人分を貰っているかもしれません。どちらにせよ、これがゾイさんが早めに起きた原因でしょう」


「それと目の前の月と何の関係がある?」


「ゾイさんはその中から矛盾を見つけました。千華、あなたも頭の回転が速いので、疑問に思ったことがありませんか?地球の科学技術がどれだけ進歩しても、月のようなサイズの衛星を宇宙船に変えることができないし、無理やりに公転する軌道から外れることもできないので、ここは間違いなく月です」


「だから?」


 私は聞き返した。言葉を口にした時、自分の声はかなり嗄れていることに気づいた。


 エーデルは目の前の月を見つめて、「気づきませんでしたか?僕は一度も『基地』の前に『小惑星』という三文字を付けたことがありません」とそっと言った。


 心の中にある朧げな考えが段々と形になった。


 例え月まで航行している間に薄々と気づいていたが、私は無意識にわざと見過ごし、それにはどういう意味が含まれているのか深く考えることができなかった。


 何で小型の巡視艇で月まで航行できる?


 何でたった十数日で月まで到着できる?


 何でわざわざ周囲に光学迷彩のバリアを設置する必要がある?


「あなたには地球と天文学に関する基礎的な知識があるのなら、小惑星は火星と木星の間に位置することを知っているはずです……例え地球の隣にある惑星でも、七千五百万キロという極めて遠い距離を隔てています。当然ながら月にはいわゆる人工的なワームホールの技術を持ち合わせておらず、自然と瞬間移動やハイパースペースジャンプができません。それは理論面にしか存在していない空想です」


 エーデルは少し止まって、「十数年も掛かる長い航路なのに、僕らは十数日で月に到着しました。あなたもおかしいと思いましたよね」と小声で尋ねた。


 私は答えられなかった。もしかしたら姉はまさにこの「真相」を見つけたかもしれないと意識した。


 月から遠距離母艦と護衛戦艦をこの辺鄙な小惑星基地まで派遣したのも、視察官のレオンスタがあちこちに情報を探したのも、エーデルが終始に真実を口にするのを拒否したのも、それが原因だった。


 エーデルはリモコンを掲げ、天井にある器械に向けた。


 次の瞬間、突然新たな惑星が月の横に現れた。


 青い惑星だ。


 私は思わず息を呑んで、小惑星基地ではほとんど見たことのない色彩をじっと見つめていた。


「これが地球です」


「色々な噂を耳にしたが、実際に見た映像はそれらの噂よりも鮮やかできれいだ」


「残念ながら千百年前に地球で戦争が起きました」


「……何?」


 私は疑惑ながら振り返ったが、エーデルの視線は依然としてあの水の惑星を見つめていた。


「それは全ての国々を巻き込んだ大戦らしいが、それに関する記録は乱雑で不完全、色々な言い方は事実なのか、それとも捏造されているのかわかりません。ですが結果として、地球は大規模の壊滅的な武器の爆撃により滅びてしまいました」


 エーデルはリモコンを押して、地球の表面は直ちにたくさんの火花、土曇りとキノコ雲が現れた。


「不幸中の幸いなのか、人類が作り上げた武器の威力は巨大な隕石に勝るが、徹底的に地球を滅びさせることができないため、核心は依然として存在しています……地球が小さくなったと言えばわかりやすいでしょう。爆裂された他の大地の欠片、廃墟となった建物、ぶつけ合う大型の宇宙戦艦の残骸、氷山レベルの巨大な氷の塊と様々な金属ゴミが四周に漂って、核心の周りを運行していました」


 この言葉につれて、あの青い惑星の大地が崩れ、海洋が沸騰し、最終的に赤黒色になった。


 無数の石、塵とゴミが中心の周りにゆっくりと浮かんでいた。


 エーデルはもう一度リモコンを押して、月とかつて地球と呼ばれている「あれ」の周囲はたちまちにたくさんの正方形のモニターが現れ、その後の映像を再生していた──溶岩に飲まれた都市の街並み、バラバラになった地殻、閃光と暴風を引き起こしたミサイル、宇宙に漂った無数の死体が映し出されていた。


 人々は宇宙船とスペース式セーフハウスに乗って地球を離れた。しかし無限に広がる宇宙には居場所がなく、ただ漂流し続けるしかできなかった。


 窓の傍にいた女の子を見て目が合った瞬間、すぐにその無力で彷徨っている情緒を感じた。例え瞬く間に過ぎ去った映像でも、その情緒はなかなか消えることができなかった。


「あの大戦の前期では、一部の政治家、富豪、学者、軍部の高官と極めて幸運な人々は一番最初に離れ、月の表面に位置する基地まで逃げてきました。例え月も戦火の影響を受け、軌道運動エネルギーの大型兵器によって、欠けるほどに吹き飛ばされましたが、月海基地にいた人々は依然として幸運に地球が滅びるという災難から逃れ、生きることが出来ました」


 画面はそれにつれて変わった。


 月海基地内部の画面になった。人情に薄い人々は懐かしいオフホワイトの部屋と通路にいて、激しく話し合っているのが見えた。しかし映像のみで声がないため、何を言っているのかわからなかった。


 とは言え、それは重要じゃなくなった。


 ──これは姉が気づいた「真相」だ。


 だからこそ、一人で小惑星基地に戻れるように、姉はこのことを口にしていなかった。それゆえ、月が遠征母艦と護衛戦艦を送り出し、定期的にしか訪れない視察官も出向かせて、情報を聞き出そうとしていた。


 エーデルはゆっくりと息を吐いて、画面を閉じた。


 月、漆黒の核心しか残らない地球、宇宙ゴミと正方形のモニターも瞬時に消えた。


 部屋は再び何もない暗闇に戻った。


 私は寒く感じ、強く体を抱き締めても寒さを追い払えなかった。転びそうになった時、自分は畳椅子に座っていることを思い出した。


 エーデルは急いで手を伸ばして支え、そして身を屈めている姿勢のまま、「──千華。あなたは地球人ですよ」と憐れむように口を開いた。


 急にブンブン音が耳元に現れた。


 酸素供給システムの音のようにも、心臓の音のようにも聞こえた。


「基地の周囲に漂っていた石は小惑星ではなく、破裂した地球の残骸です。月に住む人々も貴族ではなく、千百年前の戦争から何とか生き延びてきた人々です……もしくは依然として生き続けている人々です」


 何とか生き延びてきた人々。


 依然として生き続けている人々。


 何でエーデルは言葉を変えたのかわからないけど、その二つの言葉の違いをうっすらとわかっていた。


「地球はもう住めません。どんな科学技術を使っても、金属を溶かすほどのマントルにいることは不可能です。生きるどころか、そこに残されているのは死あるのみです。母星をなくした人類は宇宙に住むことしかできません」


 エーデルは苦笑いを見せ、強く床を踏み締めた。


「それ故、月に居た人々はスペースステーションを立ち上がることにできるだけ協力し、あるいは宇宙船を基礎に拡張を行いました。または周囲に漂っている建物の残骸を集め、基地に作り直しました。ある面からすれば、あなたたちは地球の残骸の上に住んでいるので、あなたたちは地球人です」


「何で……今のようになった?」


「意図的なのか、それとも不用意な結果なのかわかりません。どちらにせよ、今の人々は千百年前から残ってきた宇宙船を操縦して、無数の石となった地球の残骸の間に航行し、石油、氷と無数の金属ゴミの残り滓を運び、金属基地の中に生き延びていき、不完全な技術を利用して生きようとしました……あなたたちは自分が火星と木星の間にある小惑星帯に住んでいると思い込み、地球と月に関する噂と物語を多く流れていました」


「責任を擦り付けるつもり?不用意なはずがないだろう」


「時に変えられない深刻な事実よりも、素晴らしい夢のほうが受け入れやすいです」エーデルは少し間を置いてから、すまなさそうに言った。「しかし僕も自分が噓つきの末裔であることを否定しません。僕らは『小惑星基地』、『宇宙の急性伝染病』、『地球は閉鎖状態に入った』などの嘘を作り、その同時に、月は基地の管理とメンテナンスのような繁雑な事務を担当しました。もし月海基地の指揮がなければ、六割以上の基地は酸素、水、食糧と建材不足、そしてシステム故障などの原因で滅びてしまうでしょう」


 私は俯いて、床の細かい模様をじっと見つめていた。


 短時間で数多な情報を知って、頭が混乱したが、段々とその中の意味を理解しつつあった。


 地球はもう滅んでしまった。


 人類を生み出した母星はもう存在しない。


 月には大気がなく、太陽系の他の惑星も人類では踏み入れられない険悪な環境を持っていた。つまり、空はもうこの世界から消えてしまった。


 どこへ行っても深くて濃い、まるで光線を呑み尽すような漆黒しかなかった。


 私はもう一度強く呼吸して、酸素で体を満たそうとした。


「これらのことで色々な疑問を説明してくれたけど、私が知りたかったことじゃない。天秤の片方はお姉ちゃんに関すること、例え地球はもう滅びた真相でも傾けさせることができない。お姉ちゃんの『理由』が知りたい」


 その言葉はもう何回かを口にしたのかわからないが、急に慣れない感じがした。


 呼吸は急に酸素が足りないように荒くなった。


「──初めて会った時に話したその『理由』を教えて」と私はまた繰り返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る