第七章 月③
巡視艇の燃料は三班……つまり二十四時間内で使い切ってしまう。
例え緩速で航行しても最低でも一班くらいしか先延ばしできず、一番近い小惑星基地へ行くには九班の航行時間が必要で、今持つ術は遅すぎて、有効に対処することができなかった。
奇跡でも現れない限り、私とエーデルはのちに小惑星帯に漂う残骸になってしまう。
私は俯いて手のひらにある金属の青い花びらをじっと見つめた。
ほとんど全部の私物をあの巣枠に残ったが、この金属の花びらだけを持ち歩いていた。
これは一番姉を思い出させてくれるものだからだ。
船内の低温はいつしか安心できるものになった。
私はゆっくりと漂っている冷たい空気を感じながら、暫くして物音が聞こえて振り向けば、通路の末端に立って淹れているエーデルが見えた。
「一袋を飲みますか?」エーデルは手に持っているコーヒーの眞空袋を掲げた。
「いい」
「もし飲む慣れれば、中からオレンジ、ナッツ、チョコ、キャラメルや花の香りを味わいますよ」
「それは単に飲みすぎて舌が壊れちゃったじゃん」
エーデルはそっと笑い声を出した。
暫くして、コーヒーの香りは瞬時に船内に充満した。
私は引き続き真っ黒なモニターを眺めていたが、例え小惑星帯の端に来たとしても、画面にはほとんど変化がなかった。左側のモニターの隅に継続的に「燃料不足」の警告メッセージが表示されていたが、長く模索したところで閉じる方法がわからず、あの赤い光を輝かせることしかできなかった。
「千華、月がどんな世界だと思いますか?」
「これは餓死する前に話す最後の話題なのか?」
エーデルは笑って、片手でコーヒー袋を持って通路のドアに立ち、「この方面に関する問題がたくさんあると思いますが、今ならもしかしたら答えがもらえるかもしれませんよ」と続けて言った。
「……月には本当にガラスの宮殿があるのか?」
「宮殿と言うには少し大袈裟ですが、僕が住んでいる月海基地には強化ガラスで出来ている部屋があり、『颶風洋』と呼ばれる平野が眺められます。あの景色は確かに壮観で、灰色の広大な大地が視野の果てまで伸びていたが、それだけです。わざわざそこへ行く月人はいません」
「何で?」
「景色に変化がありませんから」
エーデルは壁に寄りかかり、ゆっくりとそう言った。
「月には昼と夜の差はあるだろう?」
「地球は二十四時間で昼夜が変わり、基地の言い方からすれば三班の時間です。しかし月の自転速度は遅く、一日が過ぎるには……大体八十班くらいはかかります。その上、月海基地には多くの窓はなく、この方面の変化をあまり感じられません」
私は試しに八十班の時間はどれくらい長いのか計算しようとしたが、すぐに諦めた。
「月には大気がないため、風もありません。もし隕石が落下しなければ、同じ場所に存在している跡は半永久的に残り続けます。千百年前、初めて月に踏み入れた地球人の足跡は今でも残っていますよ」
「それには何の意味があるのか?」
「一部の人にとってはあるかもしれません」エーデルは同じように気にしない表情を見せ、「千華、ゾイさんを恨んでいますか?」と笑って話題を変えて尋ねた。
「まさか」
「客観的に見ると、彼女はあなたを連れて一緒にあの『檻』と呼ばれる場所から離れてなかった」
「あの檻から離れることは私たちの願いだ。お姉ちゃんは機会をもらったのなら、早々に離れたほうがいい。もし私を気にして残ることを選んだら、そのほうが怒る」
「あなたたちは確かに家族ですね」
「もちろん」
エーデルは微かに頷き、またコーヒーを一口飲んだ。
「初めて会った時、ゾイさんが一番好きな動物はなにと聞いたことがあります。答えは何ですか?」
「……そんなことあったっけ?」
「強いて言うなら少し前の話です。その時は『クジラ』と答えましたが、明らかに間違った答えだけど、なのにあなたはそれについで追究しませんでした」
その時、私はエーデルが月人であることを信じていなかったから、自然と深く考えることはなかった。
「何から何まで隠しているのに、その答えを聞くつもり?」
エーデルは仕方なく肩をすくめ、自分勝手に話し続けた。
「地球の海で一番有名なのが『クジラ』という巨大な動物らしいです。その動物は僕ら人間と同じように酸素が必要で、海の中で呼吸することができず、海面に出る必要がありました。しかし海に離れた途端、自身の重さに押しつぶされ、最終的に死を迎えてしまいます」
「……つまりあなたもクジラを見たことがないのか?」
「何せ月には水族館もありませんから」
エーデルは問いと無関係なことを言った。
私は「水族館」とは何なのか考えている時、昔に姉が地球には色々な施設があることを暫く経ってから思い出した。その中の一つが陸地に大型の水槽を建造し、海や川の様々な魚類を中に放置し、人々に観賞させた。
それを聞いた時は素晴らしいもので、今後絶対にその水族館に行って回ってみると思ったが、今考えてみれば、それは地球にしか存在しない施設で、水を飲むだけでも配給する必要がある小惑星人にとって、相当皮肉なものだ。
「でも見たことがあります」
エーデルは言葉を付け加えた。
それはどういう意味なのか聞き返すことなく、引き続き巡視艇を操縦していた。
この沈黙は航行システムが通知音を鳴らすまで続いた。
もう設定された座標位置に到達した。
私は片手にカメラのレンズを調整しながら、小惑星帯を離れたが、周囲には何もなかった。
「──エーデル、ここには何があるのか?」
私は思わず「まさか月は人工的ワームホール技術を開発して、数千キロの範囲を瞬く間にワープできるのか?あるいはここには月人専用の無人な補給ステーションがあるのか?」と尋ねた。
「そのまま前に向けて操縦してください」エーデルは平然として指示をした。
「……その態度は本当にムカつく」
私はやけくそに手動モードに切り替えて、巡視艇を操縦して前へ突き進んだ。
エーデルは操縦席の傍にいた。スーツコートの裾は微かに浮かんで、時に椅子に打ち、「パチパチ、パチパチ」という音を出した。
十数分くらい突き進んだ後、モニターは急にノイズが現れ、巡視艇も微かに震えていた。
どういうこと?
私はまだ理解できないまま、のちに再度更新されたモニターに巨大な物体が表示された。
それは大型の宇宙船や小惑星基地の大きさを遥かに超えた物体で、歪んでいるアーチ形をしていた。そのサイズは十数分前に目撃するはずなのに、突然現れたように真正面に出てきた。
「これは月の最新技術です。周囲に設置された発信器を使って、無数の面の光学迷彩バリアを引き出し、内部のものを徹底的に覆い、あの境界線を通り過ぎない限り、見ることができません」
エーデルは柔らかい声で説明しているが、私は目の前に見たものが衝撃的で、なかなか理解できなかった。
「だからあれが……」
「はい、今回の目的地です」エーデルは少し止まって、小声で「月です」と言った。
でも……地球の唯一の衛星として、月は丸形のはずなのでは?
表面には無数のクレーターと落差が顕著の山脈と溝があるとしても、目の前にいる穴だらけの巨大なアーチ形のようなものじゃないはずだ。
私は密かに困惑し、影による錯覚かどうかを考えていた。
エーデルは同じような複雑な顔を見せながら月をじっと見つめ、片手で背もたれに支えて、「普通は三艘で一組になっている巡視艇が定期的に巡視しています。彼らはレーダーをつけずに、裸眼で確認します。多くの場合、気づかれないようにコースを回っているだけなので、静かに航行すれば大丈夫です」とそっと言いつけた。
「月の警備はこんなに緩いなのか?」
「何せ数百年間に侵入者がいないから、そのおかげで月から離れることもそう難しいことではありません。そろそろ月の重力圏に入ります」
「そういえば、確か月自体で重力がある──」
言葉を言い切る前に、私はもう一度前日に体験したあの奇妙な感覚を味わった。
体が重くなった。
四方八方にまるで形のない力が肌に圧迫しているようで、そして私は驚きながら、今回味わった感覚は前回を遥かに超えていることに気づいた。もしシートベルトを締めてなければ、もうとっくに地面にはいつくばって動けなくなっただろう。
「月の重力は地球の六分の一ですけど、あなたたちが生活しているあの基地を超えています」
エーデルは手を伸ばして私の肩を支え、操縦を引き継ぎながら冷静に説明した。
あれは物凄く怪異な感覚だ。酸素が薄いわけじゃなく、どんなに強く呼吸しても、うまく空気を肺に届けられない無力感だ。めまいが体の内側から沸き上がり、感覚のすべてがぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた。
小惑星基地ごとに違った重力調節システムを持つことは知っていた。以前煙雨楼にいた頃、他の基地から客人が自由に行動できないと愚痴っていたのを聞いたことがあったが、一度も深く考えたことがなかった。
これが月の重力と言うのなら、地球は今より六倍も重くなる。
立ち上がるどころか、腕を自由に上げることすらも難しく感じる。
「この巡視艇には重力調節装置がありませんか?」
「そっ、そんな高級船しかないシステムがあるわけないだろう」
私は必死に喉の奥から答えを絞り出した。
「あるはずです……こういった軍用機動船は元々環境を探索するために使われています。未知の星に止まった時に重力調節システムがなければ、基本的な報告さえも大きな問題になり、操縦員もうまく操作できなくなります……」
エーデルはぶつぶつと呟き、コントロールパネルの数多のボタンを勝手に押していた。
船内の光は瞬時にきらめき、それから耳鳴りになるほどの低い音を出した。
続いて、私は全身を纏う重い感覚がさっと消えたことに気づき、思わず背もたれに倒れ、大きく息をした。
「ほら、やっぱり調節装置がありました」
エーデルは笑ってそう言った。
私は答える余裕を持たずに、「これこそ私たちが地球に行けない理由なのか?例え閉鎖中の防御線を順調に突破しても、体も重力によって地面に這いつくばらせ、動けなくなる」と息を切らしながら尋ねた。
「……理論上ではその理由もあります」
エーデルは軽く苦笑いし、「宇宙は元から人類が生存できる場所ではありません。もしこの何もない深くて真っ黒な場所の中に居れば、筋肉や骨格にとっても莫大な影響を与え、歩くことさえも問題になるほどに委縮と退化をします。その後、循環器系と免疫系統にも様々な後遺症が現れ、長期に渡れば、例え地球で生まれた人類でも、なかなかその大地に足を踏み入れることも難しくなりました」
心臓の音はかなり激しい。
私は操縦席のひじ掛けを力強く掴んだ。例え指先に力がなくとも、まだ掴み続けていた。
「それ以外に、体の問題だけでなく、長期的に狭い宇宙船に居れば、ストレスを感じ続けます。精神方面にも様々な症状が現れ、焦燥、怒りっぽい、鬱、もっとひどい場合はパニックになり、自傷行為が出ることなど、時には安眠薬を頼りにしか眠れません」
「小惑星人全員が持つ症状のように聞こえる」
私がそう言った後、エーデルは何も話さなかった。
静かに航行している巡視艇は突き進んでいた。
月に近づけば近づくほど、私は意味もなく怖く感じた。よく考えたみて初めて、それは小惑星基地で一度も見たことがない巨大なものであることに気づいた。
さっきあの光学迷彩バリアを通り抜けた時はもう月の全貌が見えないが、それは数十座、百座の小惑星基地でも比べ物にならない存在であることを判断できた。
「ここならもうパトロール隊の範囲を抜けていたはず、もう少しアクセルを踏んでもいいと思います。でもまだライトをつけないで、あの方向に向けて操縦してください」
私は質問をせずに、エーデルが指示した通りの方向に操縦していた。
暫くしてから、前方には明らかに長く使用したことのない港が見えた。
ゲートには錆びと小さい隕石のぶつかられた痕跡がついていた。
エーデルは身を乗り出してパネルを操作して、遠距離で八桁のパスワードを入力し、外ゲートを開いた。
巡視艇はゆっくりと港に入り、電子標識を沿って進み、格納庫の中に止めた。
私はほっとして、順番に巡視艇のシステムを閉じた。
「待ってください!」エーデルは急いで叫んで、「この港には酸素があるかどうかわかりません」
「巡視艇には外の酸素濃度を表示している器械があって、今の数値は問題ない。久しく使われていない格納庫までこの濃度の酸素があるとは、さすが貴族様が住む月だ」
「それならいいですが」エーデルは皮肉に反応せず、「念のため、ハッチが完全に閉じるまで待ち、ついでに月の重力環境にも慣れましょう」と頷きながら言った。
「重力はそう簡単になれるものなのか?」
「多少はね」
エーデルは肩をすくめ、重力調節システムを潔く閉じた。
次の瞬間、その四方八方から迫ってくる重い感覚は再び肌を包み、歯を食いしばっても役に立てず、もう少しで椅子から落ちた。
「あなたが住んでいる基地は中型であることは、不幸中の幸いです。もし最小型の住民ならこの重力に耐えられず、軽ければその場で気絶し、ひどければ様々な合併症によって死に至ります」
それは軽々しく言っていいものじゃないだろう。
私は必死に口を開いて呼吸し、酸素が足りている環境で呼吸するのも、こんなに難しいこととは思ってもみなかった。
時間はゆっくりと流れていく。
どれくらい経ったのか分からない、十数分か、それとも一、二時間くらい経ったのか、私はようやく背筋を伸ばして座ることができた。
「無理をしないほうがいいです。これまで他の基地から来た住民は、ベッドに何週間も寝込まないと、動き回ることができません」とエーデルは言った。
「いっ、いつまでもここに残るわけにはいかないだろう」
私は頑張って重い体を起こし、狭い通路を通り過ぎて、率先して巡視艇を離れた。
格納庫の隅には二艘の巡視艇が止まっており、いつもメンテナンス工房で見かけたタイプとは違って、相当古くて、表面には深い埃に覆われていた。多くのパーツは外されて傍に置かれ、起動できないように見えた。
私は巡視艇のハッチを支え、思わず靴のかかとで何回か蹴った。
わずかな音は格納庫に鳴り響き、遠い場所に伝わりそうだ。
エーデルは振り返ってチラッと見たが、何も言わなかった。ただ勝手に壁の傍に近づき、鉄スタンドにかけている雑巾を取って、何十数年前に壁に残っていた汚れを力強く拭いた。
私は思わず深呼吸した。繰り返して船内に循環していない空気が瞬時に肺に充満し、ある種の淡くて懐かしい匂いがした。
私は少し考えて、それはオイルの匂いであることに気づいた。
そして、私はもう一度カールおじさんを思い出した。
カールおじさんのためとは言え、別れを告げずに離れるのは悲しいことだ。
「ごめんなさい……」
「うん?何か言いましたか?」エーデルは困惑しながら振り返った。
「何でもない、これからどこに行くの?」
「ガイドマップを見つけました」
エーデルは指の関節で汚れまみれの壁を叩いた。
私は目を細めて暫く見ても、そのマップには一体何を書いたのかわからないから、「じゃ案内をお願い」と口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます