第七章 月➁

 巡視艇での生活は思ったよりも単調だった。


 時間の流れはより遅くなったようだ。少なくとも小惑星基地に居た時は光と影の変化を感じられたが、ここでは船首のカメラと繋がっているモニターも、小さな部屋にある窓も真っ暗だ。


 例えスマートウォッチに記された時間が減り続けたとしても、なかなか実感が湧かなかった。


 巡視艇は順調にエーデルが指定した座標に向けて航行し続けた。


 途中に二つの小惑星基地を通り過ぎたが、エーデルは止まる必要がないと言った。私たちは登録されていない宇宙船を操縦して離港し、未だに戻っていない。政府側はもう既に失踪リストまたは指名手配を発表したことを考慮すると、むやみに他の小惑星基地の港に止まることはトラブルを引き起こすかもしれない。


 それでも、もし何の補給も行っていなければ、僥倖して小惑星帯を離れたとしても、うまく月へ行くことはできない。


 元々生活している基地『C2059』は太陽系の第四惑星『火星』と第五惑星『木星』の間にあり、例え順次が隣同士だとしても、地球と火星の間には七千五百萬キロも離れていた。


 それは月の遠距離母艦と戦艦しか航行できない距離だ。


「くそ、考えれば考えるほど騙された気がする。こいつまさか本当に自殺しようとするじゃないだろうね……」


 私はシートベルトを外して、それからぶらぶらと上に浮いて、急いで手を伸ばして天井に支えたおかげで頭をぶつからずに済んだ。バランスを保ちながら、ゆっくりと通路のほうに移動した。


 エーデルは操縦室後方の小さな部屋に寝ており、壁に寄りかかったままの姿勢で、二つのバンディングを使って腰と太ももを縛った。今この時はぐっすりと寝ており、微かないびきを出した。


 私はドアの傍で暫く見て、適当に積層棚を開け、コーヒー袋を取り出して投げつけた。


 銀色の真空密封袋はちょうどエーデルの額に当たった。


 エーデルは微かなうめき声を出し、何秒かを経ってからゆっくりと目が覚めた。彼は足搔きながらバンディングの中から両手を出して自分を解いた。


「おはようございます」と呟きながら、ついでに空中に浮かんでいるコーヒー袋を取り、不器用に手足をかいて隅まで移動し、それを出入り口に塞いで、コーヒーを淹れ始めた。


 私は操縦室まで下がって、エーデルが片手で天井近くにあった角に支えて、体を安定させたのを見た。


 ある独特な香りが船内に漂った。


「……よくもその宇宙自体のような飲み物をいつまでも飲み続けられるね」


「その比喩はかなり斬新です」とエーデルは驚いて言った。


 どうやらエーデルは確実に月人のようだ。何せ小惑星人にとって、黒色は一番嫌悪される色だからだ。


 私は他に説明することなく、操縦室に戻った。


 モニターは相変わらずに様々な数値を更新し続けているが、真ん中は依然として一面の黒だった。


 無事であれば、二十班くらいの時間で設定した座標に到達できる。


 エーデルは片手にコーヒー袋を持って、眠気を隠し切れずにあくびをした。彼は通路に寄りかかって、操縦室に踏み入れなかった。


 巣枠と違って、ここにはブンブン音を出している酸素供給システムはないけど、船内の各所に作動し続けている機械があり、落ち着けば様々な音に気付く。


「──ゾイさんの歌声は他の歌姫と違うようですね」エーデルはそう言った。


「お姉ちゃんが歌っているところを聞いたことがないんじゃなかったの?」


「それでも色々な噂を聞いたことがあります。彼女の歌声は独特な雰囲気を持ち、今まで誘いを受けて月海基地まで来た歌姫たちと違うらしいです。まるで遠くて広い青空まで届けられるようだから、そのため『天穹姬』という称号をもらいました」


「長い歴史を持つ大型の楼閣には主に楽譜と歌謡曲を収めている部屋があり、それは歴代の歌姫から伝承され、アレンジした心掛けた作品だった。ある時遥か遠くの小惑星基地から来た宇宙船も異国風の歌謡曲を持ってきて、楼閣のオーナーはいつも高額で買い取っていた。でもお姉ちゃんが歌っていた曲は、私たちがジャンク置き場で見つけた音楽データから学んだものだ」


「あれは一つの仕事だと思いました」


「もちろんこっそりと忍び込んだ。子供にとって、あれは生きていくための手段だ」


「あの基地の子供たちは音楽関係の教育を受けるはずなのでは?」


「そんな機会を持っている人なんてほんのわずかだ。何せ自身の芸を伝授してくれる歌者も少数しかなく、ほとんどの人は第一段階で取り残され、その後は北エリアに踏み入れる資格さえも持ってなかった。お姉ちゃんのように闇エリア出身だけど、実力を頼りに第一姫になったのは前代未聞の偉業で、今後の数百年を渡っても伝わり続けられるだろう」


「本当にお姉ちゃんの歌を聞いたことがないの?」私は少し止まって、質問を付け加えた。


「残念ながら」


 それなら、何でここまでするの?


 私はこの言葉を飲み込んだ。だって例え聞き出しても答えられないことを知っていた。「お姉ちゃんは本当に単独で歌を聞かせることを約束したの?」と話題を変えて尋ねた。


「はい」


「信じられない」


 エーデルは何も言えずに肩をすくめ、コーヒー袋のストローを噛んで、まだ終わっていない話題を続けた。


「本当にジャンク置き場で音楽データを見つけられますか?」


「ジャンク置き場にあるものはあなたのような月貴族の想像を遥かに超えている。例えば賞味期限が切れた宇宙食や金に換算される部品など何でもある。ほとんどの物は壊されてかつ汚れているが、小惑星人にとってはもう十分だ。曲は長い航行の中での数少ない楽しみだから、ハードディスクからはほとんど音楽データが見つかる」


「なるほどですね」


「もしかしたら地球の曲、または月や小惑星基地の曲、様々なタイプの曲があった」


「でも捨てられたハードディスクなら、音楽データ自体はもう壊された可能性があるんじゃないですか?」


「もちろん、ノイズが多いだけじゃなく、理解できない見知らない言語のものもよくあった。でもお姉ちゃんは自分でその部分を補って、リズムと歌詞を心のままに歌った」


「『千年に一人しかいない天才』の名に恥じないように聞こえます」


 宇宙船内に多くの暇をつぶす方法はないから、私たちが起きている時はいつも喋っているが、エーデルは月に関する細かいことについては誤魔化していた。私はと言うと、あの檻の話をしたくないから、一番よく話している共通の話題が姉だった。


 北エリアで初めてパフォーマンスをした歌、嫌いな食べ物はツナの缶詰め、緊張をしている時は髪の先を指に絡ませる仕草、実は意外と不器用なこと。首の左側、肩に近い位置には一つの小さな黒いほくろがあって、マイクを持っている指は長くて綺麗、少し方向音痴のこと。


 たまに合わない話題になると、争いになること。


 それでも、姉が死んだ今、その争いもうやむやの内に終わらせた。


 その後はいつも沈黙に陥ってしまう。


 私は操縦席に座ってモニターをじっと見つめて、エーデルは通路に居て、拳と同じような大きさの小窓を通して外を眺めた。この静けさは暫く続いて、もし一方が寝てしまったら、もっと続いてしまう。誰かが宇宙食を淹れ始めまたは新しい話題を始めるまでこの静けさが続く。


 暫くして私は操縦席を離れ、通路に近づき積層棚を開け、宇宙食を選んでいた。


 エーデルは気になって一定の距離を保ったまま、きょろきょろとしていた。


「そのカレーのおにぎりしか食べませんか?」


「あと巣枠から持ってきたビタミン剤」


「それだけじゃ栄養バランスが崩れますよ」


「完全に補給がない状況で、燃料も食糧も減り続けている今、できるだけ節約したいじゃん」


「全然心配する必要がありません」


 そう言うなら、心配せずに済む理由を教えてよ。私は不満そうに舌打ちをし、聞き出そうとした時、巡視艇は突然激しく揺れ始めた。


 モニターは赤い光を輝かせ、周辺のスピーカーもそれに沿って耳障りの警告音を出した。


 私は疑惑に思いながら視線を回し、それから急に体の周りが包まれたようなある奇妙な感覚を感じた。まだ理解できずに重く落ちていき、エーデルがタイミングよく手を貸してくれたおかげで転ばずに済んだ。


「え?何、何で急に重力があるの?」


「千華、すぐに手動モードに切り替えて、進行方向から九十度を離れてください」


 エーデルは厳しい顔で叫んだ。


 私はよろめきながら操縦席まで走り、片手で操縦桿を握った。


 呼吸が思ったよりも重く、全身がある種の粘り強い液体に覆われたように、うまく動作できなかった。


 例えアクセルを踏み締めても、航行スピードは少しも上がっていなかった。


「大丈夫、僕らはまだ進んでいます。そのままで大丈夫です」とエーデルは小声で言った。


「こ、これは……どういうこと?地図から見れば、この近くには何の小惑星基地もないはず。まさか静かに航行している大型の宇宙船隊なのか?」


「大型の宇宙船の重力コントロールシステムは船内しか作用できず、他の船に影響することはありません」


「これはどういうことなのか知っているのか?」私は振り返って問いかけた。


 エーデルは答えず、ただ操縦席の傍まで近づき、身を乗り出して船尾のカメラを握って、レンズをコントロールしていた。


 暫くして、切り替えられたモニター画面には遠くにある微かに光っている暗い赤色の物体が見えた。


「まずは『あのもの』を避けてください」


「あれは何なのか知っているのか?」


「それがあなたたちが言う『未知の宇宙生物』の正体だと思います」


「……どういう意味?」


 基地に居た数日間、僕も多くの住民たちが話している噂を耳にしたことがあります。その中の一つが船を襲う宇宙怪獣ですが、実際に何もない眞空環境に生存できる生物なんてあるはずがありません。船は航行の途中で事故にあった、もしくはうっかりとその重力圏に巻き込まれたのかもしれません」


「……よくわからない」


 エーデルは少し止まって、「あれを広い範囲の小型の重力コントロールシステムセンターと想像してみてください」と苦笑いしながら言った。


 地球人が無数の小惑星基地を作っていた時、基地が極めて広大な宇宙の中に漂わせないために、中心点のようなグラビティフィールドを人工的に作った。地球が太陽の周りを回るように、月が地球の周りを回るように、全ての小惑星基地を決まった軌道に沿って、「あれ」の周りを回り続けたのか?


 うっすらとこの結論に不足があるように感じたが、もし昔に他の宇宙船がこの近くで壊されていたのなら、この宙域は様々な大型の宇宙ゴミが漂っていると同じようなものであることにすぐ気づいた。例えただの大型宇宙船の残骸でも、少しでも掠ったらこの巡視艇にひどい破損をもたらしてしまう。


 ここはまさに宇宙船の墓場だ。


 私は思わずぞっとして、急いでアクセルを踏み締め、激しく鳴り響くエンジンの音と共に進んでいった。


 十数分後、その奇妙な感覚はさっと消え去った。それと同時に、私は小惑星基地の港の重力圏を抜けた時も似たような感覚を味わったと遅ればせながら気づいた。


 巡視艇の中はもう一度無重力状態に戻った。


 エーデルは安心したようにため息をつき、ぶつからないように片手で天井えお支え、「少し遠回りになりますが、今のルードで進み、あの核心を徹底的に離れましょう」と口を開いた。


「私たちの燃料と食糧はかなり厳しいだけど」


「宇宙ゴミの一部になることよりはマシでしょう」


 エーデルはたんぜんとそう言った。


 私は同意と憂いの言葉を飲み込み、操縦に集中し、引き続き斜めに操縦してあの宙域を離れた。


 モニターが示した宇宙は相変わらず深くて真っ黒だった。


 偶にピカッと光るスターライトが見えるが、それの消える速度は速すぎて、錯覚かと思いがちになる。

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