第六章 花が爛漫と舞い落ちる中④

 どれくらい経ったのかわからないが、巣枠のドアが開く音が聞こえた。


 ここに沈殿する空気はそのせいで外へ流れ出し、肩と足首をすり抜けた。それから、私は外の街の匂い、温度と微かに喧騒な人の声を感じたが、ドアは直ぐに閉めて、もう一度平静に戻った。


 エーデルは足音を軽くして傍まで近づいてきた。


 私は頭を上げることなく、しゃがんでいる姿勢を保ったまま隅に座っていた。


「そういえば、一体どうやってこの巣枠に入ってきたの?」


「ゾイさんがパスワードを話したことがあります」


 エーデルは推測された答えをあっさりと言った。


 自分の声が思ったよりも平静であることにほっとした。「それは侵入していいということじゃない」と続いて尋ねた。


「それについては謝る必要があります。そういえば、医者と患者の間に行った談話内容は元より守秘義務があります」


「これもまた言い訳なのか?」


 私は止められずに猛然と顔を上げ、ちょうどエーデルが凹みの境界線の傍に立っているのが見えた。


 ボロボロなスーツの裾部分がちょうど前のほうに垂れており、表面についている深い色の埃と油の汚れがついているのを見た。中央エリアと北エリア以外の場所なら、例え普通に生活しているだけで、服には様々な染みがついて、暗い色になってしまう。


 エーデルは俯いて、「ゾイさんが月へ行った後に、少しも連絡を取りませんでしたか?」と平然として尋ねた。


「『深紅姬』であるユニスとカールおじさんに聞いてから、今は『天穹姬』の妹である私に聞くの?順序は確かに間違っていないけど、もし初めて会った時にこんな態度を取ったら、絶対に北エリアに潜入することを手伝わない」


「この問題の答えはすごく大事です」


「……お姉ちゃんは一度も手紙を送ったことがなかった。電子もしくは紙の手紙はどっちもない」


 私は歯を食いしばって答えた。


 それを認めることで胸の傷跡に再度裂け目が現れ、手を伸ばして裂け目に触れられなくてもひどく痛んだ。


「ゾイさんが署名した公式または民間の手紙が受け取ったことがありませんか?」とエーデルは続いて尋ねた。


「それは小惑星基地の間に行う手紙の出し方だ。月まで航行できる船隊なんてあるはずがない」


「なるほどですね……これが通常の状況です」


「月の周囲の宙域は常に電波干渉装置が漂って、情報が漏らすのを防いでいました。実際のところ電子ファイルを送ることは不可能で、実体の手紙なら唯一基地を離れる視察団に持ち出すようにお願いするしかありませんでした。しかし彼らには数多のルールが存在しており、ファイルに印刷して何冊の本にまで積み重ねられるほどに繫雑でした。ほんの少しでしか聞いたことがありませんが、手紙の持ち出しは禁止事項の一つです……視察官の審査に通過できるのはルールに従うことしか知らない月人です。融通が利かないので、手紙を持ち出すことに絶対に協力しません」とエーデルは平然として言った。


 この瞬間、私は急にほっとした。


 姉は約束を破ることなく、ただ遠く離れているこの基地にメッセージを送ることができなかった。


「月を離れることはそう簡単ではありません。ここでは容易く小型の巡視艇を借りられますが、月ではそれに対して相当厳しい規定があり、住民たちは基本的に離れることは許されません。もし自由度で言うと、こっちのほうが勝っています」


「月には十分な水、食糧と酸素があり、広大な大地もあり、自然と離れる必要がない」


「建物の外に踏み出せば、同じく人類が生存できない場所です。二つの場所は本当にそう変わりはありません……千華、あなたはさっきここを檻と言いました。僕からすれば、月はもっと大きい檻に過ぎません」


「冗談を言わないで!」


 私は思わず小声で叫んだ。


 声量が思ったよりも大きくて、巣枠でずっと鳴り響いていた。


「月はみんなの希望、あそこは一番地球に近い場所だ。ここの住民は全てをかけても行きたい素晴らしい世界はここと何の変りもないと言うの?ましてやここに永住したいとか、人を貶めるのもほどほどにして」


 エーデルの表情に何の変りもなく、この強い怒りに耐えていた。


「ここに何か不満がありますか?」


「そんなの当り前じゃない?」


「じゃここを離れたいと思いますか?」


「いつだってここの空が見えない檻を離れたいと思うよ、それはお姉ちゃんと私……私たちの夢だ。例えお姉ちゃんが居なくなったとしても、代わりにその夢を叶える。絶対に」


 きっぱりとこの言葉を言った。


 私は立ち上がり、顔を上げてエーデルを見つめた。


「お姉ちゃんの『理由』は一体何なのか、今すぐに教えて」


「……それを知った後に、千華、何をするつもりですか?」


「無意義な例え話で誤魔化そうとしないで」


「例えそれが基地を閉ざされることに導いてしまう可能性があったとしても、あなたは聞くことに固執しますか?」


「どういうこと?」


「他の基地で厳重な事故が起きたり、大型の宇宙戦艦が失速して格納庫にぶつかったり、または命に係わる中央酸素供給システムが事故を起こしたりして、住民たちが命を落として、その基地も廃棄して、閉ざさざるを得なくなるという噂を聞いたことがありますか」エーデルは苦い顔を浮かべ、静かな声で言葉を発した。


 よく街に聞いた噂話が頭によぎった。しかし私には理解できず、信じられないように目を見開いた。


「あれらは何の根拠もない噂じゃないの?」


「噂でも事実に基いている部分があるからこそ伝わり続けられます」


「本当に?」


「これについては専任の職員が担当しているので、詳しい内容は知りませんが、あの最悪な結果も想定していることがわかります。レオンスタもそのことを調べるためにここへ来ました」


 そんな時、これまで話した内容の断片が頭によぎった。


「……エーデル、二艘の戦艦が東エリアの港に止まっていると言ったけど、それは事実なのか?」


「一艘の長距離母艦と二艘の護衛艦です」とエーデルは小声で訂正した。


「あなたが言うその『最悪の状況』になれば、この小惑星基地を砲撃するのか?」


 エーデルは答えなかった。


 それが黙認しているということにすぐに気づき、また怒りがこみ上げてきた。


「あなたたちは月の貴族として、私たちのような住民の生死を勝手に決めることができるの?」


 エーデルは依然として答えず、ただその少し苦しそうにしている表情で私を見つめていた。


「教えて!」


 叫んだ後に、自分の声に泣き声が帯びていることに気づき、まるであの金属の花弁のように、少し力を入れるだけで無数の粉々に砕け散った。


 エーデルは暫く黙り込み、妥協したようにため息をついた。


「ゾイさんはルールを破ったので、彼女を見つける必要があります」


「ちょっと待って、エーデル。一体何を言っているの?お姉ちゃんは誘いを受けて月へ行った第一姫で、それは至高な栄耀だ」


「元々はそうでしたが、月海基地に住んでいたゾイさんは月に関する秘密の真相を知ってしまって、その上ルールを違反して勝手にこの基地に戻ってきました」


 私は思わず言葉を詰まらせた。


 姉が帰ってきた時に乗ったあの機動巡視艇が頭に浮かんだ。


 もしあれが月海基地の軍用宇宙船と言われれば、色々な疑問が解けた。


 それでも色々な思いが重なり合い、交わり合って、うまく考えがまとまらなかった。


「一番の問題としては、『天穹姬』の名は広く知られていることです。例え指名手配を出したとしても、もし大きな商会や船隊、またはある基地の高層人員が匿うことに協力した場合、月海基地の情報網を頼りにしてもなかなか確認できないので、そうはしませんでした」


 私は会話を続けず、黙って聞いていた。


「この基地に関する噂を耳にしたのは、ほんの数か月前のことです」


 エーデルはわざと少し止まってから続けた。


「──群青の歌姫に関する噂です」


 こんな時、私は急に胸が空っぽになったのを感じた。


 まるで元々そこにあったはずのものが一瞬で消えてしまったようだ。


 私のせいで、エーデルとそのレオンスタの船隊がここに来た。


「この際に、何であんなことをしたのか聞いてもいいですか?」


「……離れる前に、この基地の人々がお姉ちゃんのことを忘れないようにしたい」


「なるほどですね」


「住民も信じない噂のために、三艘の大型の宇宙戦艦を派遣してこの辺鄙な小惑星基地に来たの?」私はもう一度話題を戻し、小声で尋ねた。


「上層はその必要性があると判断しました。例えゾイさんが死んだと知っても、依然として彼女が亡くなる前に月に関する秘密の真相を他の人にばらしていないことを知る必要があります」


「なるほど。だから急にこの巣枠に侵入して、それから『深紅姬』のユニスに会いたいと……お姉ちゃんが歌姫をしていた頃の同僚に会いに行くのか?そしてよくわからない理由を使ってカールおじさんに会って、全部はそれ訳のわからない真相を確認するため?」


「はい」


 エーデルはあっさりと認めた。


「結果はどうだ?」


「ゾイさんはその秘密の真相をばらしていないと、レオンスタも同じような結論を出したようです」


「それが一番いい結果じゃない?」私は歯を食いしばって、「今はお姉ちゃんの『理由』が何なのか言って、そしてこの巣枠から出てけ。月に戻るか、それともこの檻に住むのかどうでもいいから、二度と私の前に現れないで」と言った。


「そうなれば、あなたはトラブルに巻き込まれてしまいます」


「そんなの気にしない!」


 エーデルは黙り込み、複雑そうに口を尖らせた。


 その表情はどこかで見たことがあるような気がしたが、記憶がぼんやりして、いつのことなのか思い出せなかった。


「もういい、話したくないならお姉ちゃんと私の巣枠から出てって」


 エーデルは動かなかった。


 彼はただ巣枠の境界線の凹みの傍に立ち続け、「これから何をするつもりですか?」ともう一度口を開いた。


「質問はまだ終わってないの?」


「千華、これからどこへ行くつもりですか?」


 エーデルはもう既に答えを当てたように言い方を変えた。


「もちろんこの檻から離れる。事前準備はもうできた。あなたが突然訪ねてきてなければ、もうとっくに離れた」私はまたイライラして、小声で叫んだ。


「目的地は地球ですか?」


「その夢を叶える、どんなに難しくても、他人が何を言おうと、絶対に叶えてみせる」私は動揺せずに言った。


「月へ行く手助けをしましょうか?」


「何?」


 話題が唐突に変わりすぎて、私は思わず聞き返した。


 エーデルは初めてこの巣枠に踏み入れた時と同じような笑顔を保っていた。


「悪くない取引だと思います。僕は宇宙船を運転できませんが、月の出身なので、様々な方面の情報を提供できます。もし必要であれば、ガイドになってもいいです。そしてあなたは月へ行けます」


「……レオンスタにここに住むって言ったのに?」


「全てが落ち着いたら、もしかしたらここに引っ越して永住するかもしれません」


「帰りたいのなら、三日後に東エリアの港で長距離母艦に乗ればいいじゃないの?」


「それじゃ意味がありません」


「どういうこと?」


 私はこれを聞き出した時に、エーデルが答えないことを知っていた。いつも通りに、一番肝心な部分で沈黙を保つ、もしくは話題を逸らした。そして案の定、彼が黙って待っている姿を見た。


 巣枠のブンブン音は急に耳障りになった。


 私は呼吸を深めたが、心臓の鼓動がどんどん激しくなった。


「最初からそのつもりだろう?」


 それに対して、エーデルは答えなかった。


 ──なら姉の「理由」が聞けるのか?


 その疑問をこらえるために、私は指を強く握りしめた。そして、考えるよりも先に口から答えが出てしまった。


「──月へ行こう」

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