第五章 頭を上げたからこそ見上げられる③
煙雨楼は北エリアで最も歴史的な三大楼閣の一つだ。かつて所属した十三名の歌姫が月へ行ける栄誉を獲得したから、故に貴族が訪れる度に、基地の政府高官はいつも煙雨楼で彼らをおもてなしする。
エリアの中央に位置し、周囲に高い防音用の金属壁が聳え立ち、敷地と話し声と喧騒でいっぱいな街道を隔てている。入り口は一本の外壁に沿った曲がりくねった路地だ。客人たちが煙雨楼に踏み入れた瞬間に、この人里を離れた静謐な雰囲気を体験させる。
五棟の楼は別々に「
最初に煙雨楼の建設に使ったのが本物の木材だったらしいが、何百年間も過ぎれば朽ちては損壊し、木材の価格も日に日に上り、仕方なく金属に変えた。外観からは差が分からないけど、ヒールがついている靴で床を踏んでみれば、すぐにはっきりとした音が出てしまう。
それ故に、大部分の床に絨毯を敷いてある。
煙雨楼は休むことなく、いつも五つの楼の内に最低でも三つの楼は客人の入場を許し、所属している歌者が順番にパフォーマンスをしている。何時でも明かりを灯っており、楽音が途切れない。
秩序と歌者たちの安全を守るために、楼内の各所では警備員がいる──わざわざ雇った専門家だけでなく、中央エリアの警備隊員もここでパトロールをする。もちろん店の人が出入りする脇門もあるが、正門の警備より厳重で、さっきのような賄賂の手段は通用しない。
とは言え、碧水楼の隅にある庭には一つの隠し扉があり、地下の通路で近くにある小型の楼閣まで繋ぎ、主に中央エリアの上級官員が離れる時に使われる。
逆を言えば、タイミングさえ掴めば、逆の方向から煙雨楼に入れる。
私は街灯よりも暗い看板を設置してあるその小型楼閣のドアの前に立った。中には新人歌者の楽団ライブが行われていて、ライブごとに参加した観客は平均で十数人程度しかないが、この規模は煙雨楼の裏口としてはちょうどよかった。
プライバシーを守るため、ここでは護衛や警備隊員を配置しない。
この道を通ったことがないけど、私はすぐにサイド側の階段に気付き、降りると一つのアイアングレイ色の清潔感のある部屋に着いた。視線がぼんやりとして、光源は階段口から差し込む微かな光しかなく、ぱっと見て備品貯蔵室のようだ。両側の鉄の棚には箱に収納されている様々な雑貨が置いてあり、そして重ねて収納されている幾つかのテーブル、椅子と楽譜スタンドも置いてあり、突き当りには重い鉄の扉があった。
「扉を開ければ煙雨楼に入れますか?」
「そんなことができるわけない。内側から鍵がかかっているに決まっている」
私は急いで隅にあるテーブルと椅子を少し傍に押しやって、隠れられそうなスペースを作り、箱の中にあるものをチェックしようとしたエーデルを無理やりに掴んだ。
「ここでちゃんと身を隠して。それと話さないで、できれば呼吸も止めた方がいい」
「無理を言わないでください」
「黙れ」
私は力を込めてエーデルの頭を抑え、彼を隙間に押し込んだ。適当に楽譜スタンドから一本の細長い鉄の棒を取り外し、それから傍にしゃがみ、その鉄の扉をじっと見つめた。
時間がゆっくりと流れていった。
例え三班の時間が流れても、誰も訪れないこの部屋には充分な酸素がある。私は再度、自分が二度と踏み入れないと誓ったこのエリアに戻ったことに意識した。呼吸音と心音を聞いて、この気持ちを静まるのに、かなり時間は掛かると何となく思った。
元々は長い時間を待つ準備をしていたが、扉は思ったよりも早く開いた。
スーツを身につけている二名のおじさんと四名の従者が続いて現れ、まだその雰囲気に浸っているように熱烈に話し合っていた。
二名の煙雨楼の歌者が扉の両側に立ち、お辞儀しながら客人を送り返した。
その六名の客人が小部屋を離れた後に、二人の歌者は姿勢を正して一言も発さないで、振り返って煙雨楼に戻った。
私はすぐにその細長い鉄の棒を投げ出し、門の隙間に挟まった。
ぶつかった音は思った以上に響いて、心の中でまずいと思ったが、幸いなことにあの二人は異常に気付いてなかった。何秒かを待ってから立ち上がり、細心の注意を払いながら、鉄の扉を引っ張って、「もういいよ、早く来て」と小声で呼んだ。
私たちは速足で一つの密閉通路を通り抜け、正式的に煙雨楼に踏み入れた。
例え隅に位置する庭に居ても楽音、歌声と笑い声が聞こえた。
以前はパフォーマンスの合間に、よく姉と一緒にここで休んでいた……厳密に言えば、姉が一人でこっそりとここで休むから、私は姉が居なくなったことを発覚したら、仕方なく探しに行くしかなかった。
金属で出来ている偽りの林木は暗い光によって影ができ、その隅には深緑色のベンチが置いてあった。
私は一瞬、壁に寄りかかってうたた寝をして、銀白色の長い髪が肩から落ちる姉の姿が目に浮かんだ。強く瞬きをした後、目の前は何もなかった。思い出は抑えられない程に浮かび上がり、胸から溢れ出し、飲まれそうな錯覚を感じた。
「だから北エリアと煙雨楼に入りたくなかった……」
私はこの独り言を強く噛み締めて、歩くスピードを上げて庭を通り抜けた。
煙雨楼の五棟の建物の内部構造はよく似ており、大きさが違ったパフォーマンスホールとステージがあり、赤褐色のペイントで塗られた手すりを持つ空中回廊で相互を繋ぎ合わせた。中央にある大庭園には数百人も収容できる大型ステージがあった。
等間隔で天井にぶら下がっている灯籠からは浅い赤い光が出ていた。
「碧水楼は休みなのか……それはそれでラッキーだ。休み中の楼は立ち入り禁止だから、清掃の召使いさえ避けて他の楼に行けば、客人の中に潜り込んで自由行動ができる」
「あれはランダム、それとも順次がありますか?」
「どうだろう。以前は事前に二十一班のスケジュールをしっかりと決め、各ステージのパフォーマンス時間と人員職務を手配していた。だからもしそのファイルを手に入れられたらはっきりと分かる。しかし『深紅姫』においては、いくつの極上なステージしか使わないから、順番確認にそこまで時間は掛からない」
「もし無駄足になったらどうしますか?」
「それでも煙雨楼の何処かにいるはずだ。二番目の選択肢としては寝室で休んでいるか、もしくはオーナーと事を相談しているかのどちらだ」
「第一姫の寝室の場所を知っていますか?」
エーデルの言い方は間違ってはいなく、現在の第一姫は『深紅姫』であるユニス・フィロンティアだ。しかしその言い間違いはこれまでのどの言葉よりも、人をうんざりさせ不愉快にさせられた。
私の心の中で、第一姫はいつだって姉だった。
「……大体の方向しかわからない。お姉ちゃんは巣枠に住んで、煙雨楼の寝室を使ったことがなかった」
「今思えば、よくもゾイさんが歌姫になった期間でも巣枠に住むように要求しましたね。こんなマイペースな行為って本当に許されますか?」
「姉の歌声と稼いだ高額な投げ銭でそう要求できる権利を貰った。それに客人とこの基地に住む住民も、トップの『天穹姫』が、まさか境界の最下層の巣枠に住んでいたなんて思ってもみなかっただろう」
私はこれで話題を終わらせ、楼と楼の間にある空中回廊を通って柳絲楼に入った。ここには歌者たちの住む階層があった。例え『深紅姫』の寝室は恐らく別のところにあるが、でももし彼女の妹さんたちを見かけたら、彼女の所在地を推測できるチャンスはあるはずだ。
暫くして、私は多くの女子が下着姿で、眠そうにしながら廊下の突き当りにある浴室でシャワーを浴びに行くのを見かけた。
衛生問題を考慮し、煙雨楼のスタッフ全員は無料で体を洗う分の水が貰える。
それは私が唯一ここを懐かしむ理由だ。
廊下の突き当りからパタパタとした水の音が流れてきて、私はワンテンポ遅く振り返って、怒ったようにエーデルを睨み付けた。変なところを見るなと警告しようとしたが、彼はただ興味津々に壁に掛けている地球の植物の絵を眺め、はなからその美女たちを気にしていなかった。
よく分からない奴だ。
私は角に身を潜め少し観察し、ユニスの妹さんたちを見かけていないことを確認してから離れようとした。
「妹さんは姉の生活習慣に合わせる。パフォーマンスの準備をしていないなら、パフォーマンスをしている最中か寝ているかのどちらだ……行こう、大体どこへ行けばいいのか分かった」
「案内をお願いします」
エーデルは微笑んでそう言った。
私はチラッとその絵を見て、さり気なく「そうだ。後は他のステージを通り過ぎるから、そこに植物の飾りがあるかもしれない。本物の植物だから、絶対に触らないで。植物も泥も全部、どんなものよりも貴重な宝物だから、ガラスの殻をちょっと触れただけでも警報がなる」
「僕は月から来たことを忘れないでください……月の土は作物を生やせないけど、飾り用の観賞植物はよく見かけます。この基地のように全部金属で構成された超大型の建物のほうがずっと珍しいです」
「はいはいはい、この言い方はもう何回も聞いたよ。とにかく触らないで」
私は呆れたように頭を振り、サイド側の回廊から居住階層を離れた。
そう言えば、私は一度も月の写真や映像を見たことがなかった。
みんなは月に関する様々な噂を知っていた。ガラスの宮殿も、果てしなく広大な大地と地球の空が見えるという噂は知っているけど、誰もが実際に見たことはなかった。
何せ月と小惑星帯の距離は遠く離れすぎて、月の貴族が持っている遠距離宇宙船以外に行き来できなかった。
「……月と地球の土って違うの?」私は思わず尋ねた。
「月は一つの生命のない衛星だから、土の中には養分がありません。ただ単純に種を月の土に埋めても、例え芽吹いたとしてもすぐに枯れて死んでしまいます。ですが僕はその領域のプロではありませんから、詳細な部分に間違いがあるかもしれません」
「人は喉が乾いて死にそうになってるというのに、花に水をやるなんて、贅沢なことね」
エーデルは何も返さずに、ただ苦笑いをした。
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