第五章 頭を上げたからこそ見上げられる①

 北エリアはこの小惑星基地で一番賑やかなエリアだ。


 数多の楼閣の中、「煙雨楼」が一番人気で、墜星楼、邵曦閣、酔夢院も人気だが、煙雨楼には及ばない。その他にもシャンロウユェホェカクチンホンロウロウインインリュウカンなど、百軒近くの楼閣はそれぞれの評判と特色がある。


 名の知れた楼閣には所属する歌姫が存在している……厳密にいうと、その年度の賞金ランキングでトップナインの成績を取得した者しか、「姫」の称号は得られない。それは至高の栄誉であり、この基地にいる乙女全員の憧れでもある。他のパフォーマーはしゃ歌婢かひ花魁おいらん、芸者、芸子、アイドル、シンガー、バックダンサー、伴奏者とコーラスとしか名乗れない。


 だが他の基地からの客人はこの暗黙なルールをよく知らず、時々九姫以外の歌者のことを歌姫と呼ぶ場合があり、この呼び方は濫用されることになっている。


 とは言え、ランキングでトップナインの成績を取得した歌姫しか専属な称号が得られない。


 これは歌者全員が絶対に破らない「ルール」だ。


 このエリアではいつだって楽音が聞こえ、他の小惑星基地からの客人も後を絶たない。新鮮な食材から作った料理、大量な清水を使って醸造された酒、それとシルクの布地から縫い上げた美しい衣装、極めて華奢で貴重な品物などはここでよく見かける。


 ネオンがきらめき、賑やかで平和な光景だった。


 ある意味、地球に劣らない素晴らしい世界と言えるだろう。


 私も暫くここで生活したことがあり、街道や楼閣の位置を知っている。しかし姉がいない今、どうやって北エリアに入るのが一番の問題だ。


 エーデルは街の物陰に立ち、北エリアを徹底的に囲んでいるアイアングレイ色の城壁を眺めていた。


「千華、直接に入って行きますか?」


「警備隊員の身分審査を通過できて、かつ高額な入場料を払えるのなら、正門を通り抜けてもいいよ」


 私は呆れたように鼻で笑った。


 エーデルは分かったように頷き、正門に立っている四名の銃を装備している警備隊員に視線を送った。


 今この瞬間、他の小惑星基地からやってきた客人たちは後を絶たず、色々なスタイルのコーディネートが見える。壁沿いに設置された受付には何名もの中央エリアの職員が入場料を取っている。


 端末センサーは輝き続けている。


 重い金属製の遮断扉が両側に開けるたびに、北エリアの内部からは歌声や楽音、喧騒が漏れ出て、そっとしてゆっくりと遠く離れた他のエリアまで届いた。


 正門から少し距離がある場所に十数人が集まって、アイアングレイ色の城壁のそばで立っていたり、座っていたりしてその歌声を聞いている。その中にも明らかにこの基地の子供で、無数の汚れによって濃い色に染められたボロい衣服を着ている。多分仕事の合間を抜けてここに来た。


 彼らはそれぞれ頭を上げて城壁を眺め、その目には憧れ、希望と決意が満ち溢れている。


 私はそう遠くない所に、お互いの手を取り合っている二人の女の子を見て、すぐに振り返って、「そこに立ってきょろきょろしないで、もし警備隊員に見つかったら大変だよ」と叫んだ。

 エーデルは慌てて首を縮め、小声で「どうやって入ればいいですか?」と尋ねた。


「……こっちだ」


 私は城壁に背を向け、少し離れた後にそばにある路地に入った。


 北エリアは最も賑やかなエリアだが、その城壁外の周辺環境は相当寂しい。噂によると、以前ここで襲撃や強盗事件が起きたことがあるらしく、だから強制的にここを居住禁止のエリアにした。財力と人脈を持っている店全てはすでに城壁の内側で営業をしている。この小惑星基地の他の住民が買い物をしたい場合は南エリアに行くことが多い。それもここが寂しい理由の一つだ。


 路地の明かりはかなり暗かった。


 ベタベタで真っ暗な廃棄されたエンジンオイルが両側の窪みに溜め、その表面に不思議な彩りが浮いていた。ある時に地面が微かに震動し、油でできている水溜りがさざ波を起こし、その彩りも歪み出し、しわができていた。


 エーデルは強盗に遭った時のことを思い出したのか、大人しく私の後ろについてきた。


「千華、ここは闇エリアではないですよね?」


「ただの離れた街道よ、時々住民が通り過ぎていくだろう」


「ここから本当に北エリアまでに行けますか?」


「さっきのは北エリアの正門で、何時でも身分の高い人が出入りしている。だけど楼閣は毎晩極めて大量な食材、飲用水と様々な生活必需品が必要なため、それらは別々の五つの脇門から中へと運送される」


「でしたら、こっそりと入っていく人は少なくないでしょう?」


「初めて来る人なら入場料を払っていると同時に、専用のアカウントを作成する。北エリアでの出費はすべてそのアカウントを使わなければならない。それはこの小惑星基地独自のシステムで、模倣や偽造は極めて難しい。だからただこっそりと入っても意味がない」


 私は説明しながら前へと進んだ。二人の足音はずっと響いて、まるで基地内のシステムパイプラインと共鳴を引き起こし、それが何時でもそばにいるようなかんじだった。その感覚は嫌じゃなかった。


 暫く経ってから、私たちはある脇門の傍までやって来た。


 正門と同じように受付が設置されているが、規模も清潔さも正門に遠く及ばず、受けは一つだけあって、職員も一人しかいなかった。そのやつれた顔をしていた男性の職員ははなから私たちのことを気にせず、ただ受付の内側に座って、イヤホンを付けて、スマートウォッチからデスクに投影したライブ映像を鑑賞していた。


 私は相手が見たことのない人であることをひそかに喜んで、顔をこわばらせながら前へ出て、黙ったまま自分のスマートウォッチを受付に置いた。


「二人、いくらですか?」


 男性の職員は少し顔を上げて、適当に指で一つの数字を表した。


 予想した金額より高いが、多分過去数年間の平均価格がそうだったかもしれない。正式的な入場料より安ければそれでいい。


 私は値段を掛け合うことなく、すぐに指定された金額を払った。


 男性の職員は確認をした後にキーボードを操作し、金属製の遮断扉を開けた。


「行くよ」


 私は声を小さくしてそう言った。


 エーデルは相変わらず、腰を屈めて遮断扉を研究していたから、私は仕方なく彼の袖を引っ張って前へ進んでいった。


 遮断扉の向こうには百メートルくらいの通路があった。両側は荷物を卸すための空間で、突き当りには一つの重い鉄の扉があった。


 エーデルは依然として頻繫に振り返り、「千華、壁にある波の模様には何か意味がありますか?」と尋ねた。


「……ある種の装飾じゃない?北エリアのあちこちには華やかな彫刻や地球のいつの時代か分からないインテリアが存在している。例え楼閣のオーナーでもその意味が分からないかもしれない」


「完全に伝承が途絶えましたか?」


「中央エリアの歴史資料室なら記録が残っているかも、でもそこは入るだけでも一苦労する、金で何とかできるものじゃないから……ちょっと待って、まさか九姫に会ってから中央エリアに入るとか言わないでよね。あそこはお姉ちゃんでもなかなか入れないエリアで、難易度が違うよ」


「これは単なる好奇心です」


「……ならいいけど」


 この時、私はエーデルが何時からか敬称を辞めたことに気付いた。


 思い出そうとしたが、なかなかできなかった。


 私は頭を振って、歩くスピードを上げて突き当りまで歩いていき、力を込めてその錆びた金属扉を押し開けた。


 目の前が豁然と明くなった瞬間、私はつい息を吞んだ。


 ここは多くの高官と身分の高い人々が訪れる場所だ。楼閣と歌姫のどちらもこの基地において最も貴重な資産であり、管理者の立場として彼らを傷つかせるわけにはいかなかい。それゆえ酸素供給システムはいつも最高の状態に維持し、幾つかの東エリアの港までに繋げる秘密通路もある。


 建物の壁にある光沢が輝き出し、地球のデザインスタイルを真似した高層ビルが緊密に並べられ、空中回廊とベランダでお互いを繋ぎ合わせた。街道には汚れの一つもない金属板が敷いてあり、豪華かつ華やかで綺麗、空気まで他のエリアにない澄んだ匂いがする気がした。


 エーデルにはその違いが分からず、気を引き締めて辺りを見回した。


「千華、何か注意すべきことがありますか?」


「中に入った以上、私たちは客人だ。堂々とすればいい」


 私はぶっきらぼうに仁王立ちをして、真剣な表情で念を押した。


 エーデルは分かったように頷いた。


 路地を離れた途端、強烈で鮮やかな色が瞬時に目に映った。


 カラフルなネオンサイン、混雑して談笑する人々、タバコと酒の匂いが漂って、そのすべてが懐かしくて、名残惜しくて……それと腹立たしい。


 高級な楼閣には完璧な防音設備があり、歌姫の歌声を街道まで流れることはない。しかしまだ成立したばかりまたは長年修繕していない楼閣はそうじゃないから、北エリアの街にいれば、四方八方から楽音が聞こえてくる。


 微弱だけど、確かにあった。


 それは一度も中断したことのない酸素供給システムのノイズのように、ブンブン、ブンブン、ブンブンと耳元で響き、気付いた瞬間にはもう体に浸みこんで、取り払えない程に頭に留めた。一部の住民はそれが毒素だと思い込んで、骨髄に徹すればもう二度と除去できないと思うから、いつもわざと北エリアを避けている。


 ある視点から言うと、それもあながち間違いではない。


 北エリアはこの小惑星基地とは別の世界だ。歌者たちは歌声やダンスを通して、心を尽くして精一杯で自分自身の魂を表現する。客人たちは金を惜しまずに、完成度が高くて心を動かしてくれるようなパフォーマンスを追求している。


 もし九姫の地位まで上り詰めることに成功したら、これまでにない賛美、富と生活を獲得できる。


 姉のように第一姫になってもあまり変わらない人は極めて少ないケースだった……むしろ、私が北エリアに出入りしていた頃、一人しか何の変化もなく元の状態を保っているのを見たことがなかった。


 それが姉と私の関係がそこまで親しくなった理由かもしれない。


 私たちはこの檻にいる住民たちとは違う思いと目標を持っていた。


 性格がかけ離れていたとしても、依然として緊密な姉妹関係を結んだ。どんなことが起きろうと、それは変わらない。


 深呼吸して気持ちを落ち着かせ、私は横目でエーデルを観察した。


「ここはまるで違う世界ですね……」


「よく言われるよ。感想はそれだけ?」


「地球の夜でもこのような光景かもとつい想像してしまいます」


 エーデルの評価に思わず黙り込んで、何か深い意味があるように思ったけど、でも彼がまたすぐに挙動不審になり、辺りを見渡しているのを見た。彼は手を伸ばして壁にあるネオン管に触ったり、行き来する客人を念入りに見たりした。北エリアではたまに見かけるスーツさえ着てなければ、多分もう巡査中の警備隊員に捕まえられて、小部屋で訊問されたはずだ。


「あなたが本当に月人なら、遠くから地球を見たことがあるじゃない。本当にこんな光景なの?」


「……月と地球の間には三十八万キロも離れています。そう簡単に見えるものじゃありません」


 エーデルは少し動きを止めて、苦笑いしながらそう言った。


 私は疑問に思いながら眉をひそめた。地球と月の距離は確かに遠いけど、宇宙船の航行スピードなら、せいぜい数十分のことだ。何十日もかけて辺鄙な小惑星基地まで航行してくることと比べれば、どうってことないはずだ。月がぴったりな角度まで自転すれば、月人は地球が見えるはずだ。


 とは言え、今は質問していいタイミングではない。


「こっちなら荷物を運送している商人たちに会う可能性があるから、とりあえずあまり人がいない隅まで移動しよう」


「では案内をよろしくお願いします」


 私はもう一度深呼吸して、速足でつやつやできれいな地面を踏みつけた。

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