第四章 花に愛を③

 私はエーデルと一緒に巣枠を離れた。


 気分はまだ回復せず、まるで色々な整理しきれない情緒が胸元に詰って、時々突然極端に怒ったり、落ち込んだりすることになる。でもそれをエーデルに知られたくないから俯いていた。


 エーデルには明確な目的地があるようで、それを向けて突き進んでいた。


「千華、この基地についてもっと話してくれませんか?」


 私はかき立てられた怒りに耐えながら、横目できょろきょろと辺りを見渡すエーデルを睨んだ。どうやったらそんなに早くも気持ちを切り替えるのか分からなかった。それから彼の腰にはガスマスクがついてあることに気づき、どこで手に入れたのだろうか。


 巣枠の中には備品のガスマスクがあるかどうかを思い出してみたが、すぐに辞めた。


「……この前はもうこの小惑星基地の各エリアについて紹介した」


「各エリアは細かい用途に分けられることはさっき知ったばかりです。例えば、北エリアの旅館や東エリアの補給工場、メンテナンス工場です」


「ジャンク置き場」という言葉を耳にしていないことに、私は重荷を下ろしたように安心したが、自分がエーデルの一語一句を気にしている事実に少しイライラした。


「南エリアは住宅エリアだ。中央エリアは官僚と警備隊員のオフィスエリアだけで、わざわざ紹介する必要はない……西エリアは資源エリアだ。前にも言ったように、その中にはこの基地を維持するための色々なシステムと精密な機械があって、厳重な警戒態勢が敷かれている。勝手に近づいたら、その場で捕まる。もし逃げようとしたら、警備隊員は銃を撃つこともできる」


「この基地は警備隊員に対して銃の所持を許可していますね」


「何せ客人が北エリアで騒ぎを起こすからね」


 エーデルはなにも構わずにただ頷いて、それから突如疑惑に満ちた表情を見せた。


 私はエーデルが見つめる方向へ視線を送り、何人かのオフホワイト色のローブを着ている住民を見かけた。彼らは顔全体を隠すマスクを付け、隅のところに青色の絵具で縁に独特な模様を描いた。それを見た瞬間、胸の内にある複雑な気持ちはまた靄がかかったような感じがした。


「その人たちには近づかないで」


 エーデルはまるで何も聞こえていないように、好奇心旺盛にその信者たちを見つめていた。


「だから見ないでって言ったじゃない!わからないのか!」とつい小声で叫び、彼を引っ張って路地に入って離れた。


「彼らは空を信奉している教団のメンバーだ」


「空ですか?」


 エーデルの口調には納得いかない感じと驚きが含まれていた。


「そう言えば、あなたは空のことを知っているの?」


「それに関する常識は一応あります」


「ここでは常識の範疇に入っていないよ。他の人に聞いてみて、半分以上の住民はあの教団についての話を答えるけど、一部の人は『絵具の名称』、『歌姫の称号』と答え、殆ど正確な回答が貰えないよ」


 エーデルは興味津々に話を聞き、時より振り返って見ていた。


 私はつい舌打ちをした。内心の何処かではこのままほっとこうという思いが沸き上がった。


「そんなに嫌がることをされましたか?」


「……あの人たちは青色が神の色だと言い聞かせ、凡人はそれに敬意を払い、祈りを捧げる必要があると宣言した。マジで意味がわからないけど、信者は年を重ねて増えていくばかりだ。何も南エリアで百個に達するほどの巣枠を貸し切り、その間の壁を撤去して信者たちに共同生活をさせた。噂によると、まるで基地の中にもう一個の小さな基地ができ上がったような感じだった」


「ゾイさんには青い瞳があった」


「……それは姉が『天穹姫』と呼ばれる原因の一つだ」


「彼女からその話を聞いたことがあります。彼女はとっても空が好きで、青色はこの世界で一番綺麗な色と言った覚えもあります」


 エーデルは懐かしそうな笑顔を見せながらそう言った。


 彼の口調は愛着が深くて優しさに満ち、まるで心の底から懐かしんでいるようだった。


 私は思わず手を握り締め、もう一度沸き立つ焦燥を抑えた。


 エーデルは本当に姉に会ったことがあるのか?


 彼と姉はどういう関係なの?


 何で姉が死んだ数年後に急にこの小惑星基地に来たの?


 様々な疑問が頭に浮かんで、それにつられて、静かに隅っこで寝ていた思い出が蘇った。それでも、結局私は何も聞けなかった。


「お姉ちゃんは以前、その人たちから散々絡まられたからね。何も生まれつきの青い瞳はある種の呪いと言って、寄付と厄払いの名義でぼったくりをしようとした。お姉ちゃんが有名な歌姫になった途端、また態度を変えて教団に入団させたいと言ってきて、それ以上にない迷惑だ」


「ゾイさんは断りましたか?」


「もちろん。そもそもそんな青い布に向けて跪いたり、拝んだりする怪しい集団に入る必要はないだろう」


「地球には様々な信仰があって、その中では空を信奉している教団もあるでしょう。何せ人間ははるか昔から空に飛ぶことに憧れていました……かつて空に飛びたかった人々は今、もっと遥かに高く、遠い宇宙までに来たものの、遅ればせながらもここには何もないことに気付きました」


 エーデルの口調から寂しさを感じた。


 宇宙にいわゆる「空」はなかった。


 基地に居ても、宇宙船の中に居ても、辺りは限りなく深い暗闇だった。私たちは宇宙にある金属の檻の中で暮らし、空が青いことだけを知っていた。


 多分月に居ても同じだろう。


 それは地球に属するものだから。


 地球にいるからこそ見れる澄んだ青色の空だ。


「今なら言うけど、この小惑星基地には幾つか守らなければならないルールがある。一つ目は誰とも関わらないことだ」


「天空教団の信者の中でもいい人はいるでしょう?」


「それがどうした?あなたは基礎的な常識すら持たず、身を守るすべもなく、強盗に遭えるかもしれない闇エリアにも軽く入り込んだ。もしまたそのような格好をしている人を見かけたら、できる限り遠く離れたほうがいい。この前路地で肋骨が折れるほどに殴られた人にとって、それが一番安全なやり方だ」


 エーデルは思わず手を伸ばして胸元を抑え、気まずそうに苦笑いをした。


 私はチラッと見て、小声で「まだ痛むのか?」と尋ねた。


「鎮痛剤を飲みました」


「そのことについてはまだ許していないよ。薬剤もすごく高いし、後で水と食料の費用も一緒に返してもらうから」


「もちろんいいですよ」


 私の要求に応じた言葉を聞いて、何となくその出費は取り戻せない気がした。


 元より本気で金を取り立てるつもりはないけど。


 エーデルはすぐにまた歩き出した。「千華は月について、何か知っていますか?」とさり気なく尋ねた。


「……多少は聞いたことがあるよ」


「どこからですか?何せ月に行った人はもう二度とここへは帰ってきませんですよね」


 元々ガラス張りの月の宮殿からこのボロボロの檻に戻る理由なんてあるはずがないだろう。


 私は街の隅に溜めている不明な汚濁した黒色液体をじっと眺め、気が付いたら、淡い何かの鼻を衝く匂いがした。


「この小惑星基地は少し辺鄙な所にあるけど、それぞれの基地から来た客人がいっぱいいる。その中にも大型宇宙船の船長と他の基地の高官がいるから、小惑星帯に纏わる色々な情報や噂、物語は最終的に伝わってくる」


 私は少し間をおいて、「たまにジャンク置き場でレアかつ稀少な紙質の書籍を拾うことがあって、その中には時々月に関することが書かれていた」と付け加えた。


「本当ですか?」とエーデルは驚きながら尋ねた。


「……何でそんなことを聞くの?」


 私は眉をひそめて聞き返した。薄々と楽音が聞こえてくるから、自分が北エリアの境界まで来ていることに気が付いた。


 道路の突き当りには城壁とその壁の頂きに嵌めている端末センサーが見えた。


 実はエーデルは方角を分かっていた。巣枠から離れた後、真っすぐにこっちに向けて歩いてきた。


「それで、『手伝い』というのは?」


 それに対して、エーデルは平然として「九姫に会いたいです」と言った。


「……本気で言っているの?」


「ゾイさんの妹さんなら、昔もよく北エリアに出入りしているはずです。手を貸してほしいです」


 こんなことのためにあんなにも悪質な方法で確認を取ったのか?


 私は深く考えせずに、反射的に「私はもう二度と北エリアに入らないと言ったはずだ」と言った。


「でもさっきはここから帰ってきましたよね?」


 その質問に、グウの音も出ない。


 少し後で彼は鎌をかけていることを意識したが、答えるタイミングも逃したから黙り込んだ。


 エーデルは促すことなく、何かを眺めている素振りで北エリアの城壁をじっと見つめた。


 私は怒りに耐えながら、地面をじっと見つめる視野は重ねた影にぼかした。青くて豪華な衣装の裾が花びらに満ちた路面に引きずられ、一つの鮮やかで目立ちそう、かつ眩い跡を残った。


「僕は彼女の歌を聞いたことがありません」


 エーデルは急にそう言った。


 私はグッと頭を上げ、眉をひそめながら「あなたは月人と自称するなら、もっとマシな噓をついてよ。お姉ちゃんは貴族様の前で歌うために月へ行ったはずだ。あなたは聞いたことがないはずがないだろう」


「ずっと機会がありませんでした」


 エーデルは惜しんでいるように苦笑いをし、暫くしてから「でも彼女はいつか僕に歌を聞かせてくれることを約束してくれました」と言葉を続けた。


 ──姉がそんな約束をするはずがなかった。


 単独で一人の客人に歌を歌うことはすべての楼閣においては禁止された行為だ。九姫にたいしてはなら尚更だ。


 例え他の基地から来たお偉いさんも、月から来た貴族も、楼閣にある最高級の個室の料金を負担できたとしても、多くの妹さんと召し使いがその場にいる。


 私は反論せず、「本当に月から来たの?」ともう一度尋ねた。


「はい」エーデルは少し間を置いて、「ようやく僕のことを信じてくれましたか?」と微笑んで尋ねた。


「一体何がしたいの?」


「それについてはまだ教えられません」


「……いつも言い訳ばっかりで話を逸らし、時間稼ぎをして、なのに肝心なことは何も説明してくれない。私を馬鹿にしているのか?」


「必ず説明すると約束しましょう。でもそれは今ではありません」


 エーデルはまた言い方を変えた。誠意を表しているようで、していないようだった。


「これもゾイさんのためです」


「こういう脅し方を恥に思わないか?」


 エーデルは何も答えず、ただ静かに私の返事を待っていた。


「──九姫に会えばいいだろう?」


 確認を取るように尋ねた。


 口の中は錆びた鉄の匂いで満ちていた。


 希薄な空気はうまく肺まで届けず、呼吸するたびに最深部が疼き出した。


 姉にどんな理由があろうと、それを知る必要がある……それで何の遺憾もなくこの檻から離れられる。


 それで前へと進められる。


 それを思うと、私は思わず顔を上げ、北エリアを囲む城壁へ視線を送った。


 アイアングレイ色の城壁に端末センサーが嵌めており、客人たちの投げ銭と共にキラキラと輝き出した。それはこの檻から外へ眺めてもなかなか見れない、まるで童話の中にしか存在しないまばゆい星の輝きのようだった。

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