第四章 花に愛を②

 巣枠に戻った時、エーデルはベッドのそばに座り、俯いて緊急時に持ち運べる酸素ボンベを見つめていた。


 住民なら誰でも持っている基本的な備品のどこか面白いのか分からなかった。私はチラッと見てから水差しを隅に置いて、金属の蓋にうつ伏せて大きく息をした。両手の指の感覚がまるで消えたようで、力を込めて曲がろうとしても、拳に変えることがかなり難しかった。


 エーデルは遅ればせながら顔を振り向け、不思議そうに「何処に行っていたのですか?」と尋ねた。


 私は答える代わりに、ただ金属製の水差しを叩いたけど、うまく伝えられなかった。


 エーデルは金属製の瓶を持ち上げた。


 「これは何ですか?」


 「……緊急用の酸素ボンベだ。月人も小惑星人も似たような製品を見たことがあるだろう?それとも実のところ、あなたは高貴な地球人?」


 「なるほどですね。月の製品デザインはマスク付きなので、これが消火器のように見えました」


 どう考えても適当についた噓にしか聞こえなかった。本当に月から来た噓を徹底するなら、もっと力を入れてほしかった。


 私は根掘り葉掘り聞かず、横にある止め金を引っ張ればマスクが出てくることも説明せず、ただ水差しの蓋の上にうつ伏せて休み、ようやく回復したところに腰に手を当てて「絶対にもう水を無駄遣いしないでね。もしまた雑巾を洗うことに使ったら、マジで追い出すから」と言った。


「……その節は大変申し訳ございませんでした」


 エーデルは少し間をおいて、困惑した顔で「ところで、あなたはゾイさんの妹なら、金に困ることはないでしょう?何せ彼女はこの基地で最も有名な歌姫です。噂によると、一曲を歌っただけで、宇宙戦艦を買えるほどの投げ銭が貰えると言うじゃないですか?」と聞いた。


「噂によれば、外には宇宙戦艦を襲う未知な宇宙怪獣もいるんだってさ」


 私は呆れたように鼻を鳴らした。


 この皮肉に対して、エーデルは可否を言わずに肩をすくめた。


 姉は確かに第一姫になった時に数え切れないほどの金額を稼いだけど、最低限必要な生活費だけを受け取った。唯一の大きな出費はあの盛大で絢爛な「離れ際のパレード」だけで、残りは月へ赴く時にお客さんに還元した。


 私はそれに対して異論はなかった。


 姉の妹として、この基地の基準でいう莫大な金額を貯めることができたけど、それはあくまでも姉のお陰だった。いざという時以外、その貯金を使うつもりはなかった。


 姉が自分の力でこの檻から離れられたことを誇りに思っていた。


 だから私も自分の力で脱出する。


 エーデルは酸素ボンベを壁に戻し、「カチ」という音を立てながら台座に固定した。さりげなく「それは朝食ですか?」と聞いてきた。


「水を買う時についでに買った」


 ポケットから乾パンを取り出し、エーデルの分を二つの巣枠の間にある境界線に置いてから、隅に戻って鉄の棚に寄りかかった。乾パンの外側にあるアルミホイルを破ってから直ぐに嚙んだ。


 エーデルは不思議そうに包装用のアルミホイルをじろじろ見て、指で摩擦したり、注意深くそれを破ったりして、暫く経ってから口を開いて「これはどうやってできていますか?」と尋ねた。


「……機械を使って金属をプレスしたじゃないの?」


「なるほどですね。木材と石油が不足している基地にとって、これは確かに紙とプラスチックの代替品と言えるでしょう。外に多くの廃棄された大型金属ゴミが浮かんでいて、原料も比較的に入手しやすいですね」


 エーデルは一人で暫く感心してから我に返って、手で濃い茶色の乾パンの重さを量って、眉をひそめながら「これの原料は何ですか?」と尋ねた。


「分からない」


 それを聞いて、エーデルはさらに眉間にしわを寄せ、ぶつぶつと「よくもこんなものを口にしますね」と言って、なかなか動かなかった。


「食べたくないなら返して」


 私は左手を差し出した。


 エーデルは少し真剣に考え込んでから小刻みにかじった。


「先日に他の住民が缶詰めにつけて食べるのを見ました」とエーデルが諦めずに言った。


「缶詰めに入っているのは基本的にスプレッドだ。甘いものとしょっぱいものもあって、高いものならそぼろが入っている。一応この基地に住んでいる住民たちの主食だ」


「缶詰めを買ってこなかったのですか?」


「乾パンの中にはもう十分な栄養がある」


「本当はお金を節約するほど困っていないでしょう?」


「無駄遣いできるほどの余裕もないよ。缶詰めは殆ど他の小惑星基地から仕入れられた商品だから、価格がかなり高い。ちなみに、乾パンを食べる時はゆっくりと噛まないと口の中の水分が吸い取られてしまうよ。水は最後の一口を飲み込む時に、飲むようにしよう」


 エーデルはそれを受け入れられない顔をして、まだ何かを言い争うつもりだった。


 私は横目で彼を見て「食費を出してくれたら、缶詰めを買ってもいいよ。味もあなたの望むままに」と後付けした。


 そう聞いて、エーデルはようやく自分が一文なしの状態であることを思い出し、黙々と乾パンをかじっていた。


 私は直ぐに食べ終わって金属製の水差しの傍まで歩み寄った。どうやって水を二人分に分けるのか、丁度いい容器はないのかと探している時、エーデルはゆったりとアルミホイルを畳んでテーラードジャケットのポケットにしまうのを見た。


 エーデルはさり気なく「千華さん、あなたは薬瓶を持ているけど、処方箋が見当たりません。正当な手段で入手しましたか?」


「……何?」


 私は思わずハッとして、慌てて鉄の棚のところまで駆け付けた。棚を開けてから、元々内部を埋め尽くした薬瓶が消えたことに気付いた。胸が空っぽになったように、一瞬どうすればいいのか分からなかった。あの青い金属の花びらは相変わらずに一番奥に置いてあるのを見た後、ようやく心を落ち着かせ息を整えられた。


 急な動作のせいで少し頭がくらくらした。


 私は力を入れて鉄の棚の縁を掴んだお陰で、倒れることはなかった。何秒も経ってから、腰につけているナイフを素早く取り出し、振り返ってそれをエーデルに向けた。


「薬をどこに持って行った!」


「ここにあります」


 エーデルは順に沿って傍の鉄の棚から大小さまざまの薬瓶を取り出し、きちんと地面に並んだ。


「すみません。勝手に境界線を越えてしまいました」


「……全く反省していないように聞こるけど」


 エーデルは答えず、ただ三分の二の薬瓶を払いのけ、「少し確認したが、ビタミン剤を除いて、殆どの薬は解熱鎮痛剤、うつ病や焦燥感を防ぐための薬、後は睡眠薬です。ですがこれらの薬は効用が強く、処方箋無しに出すはずがありません。それにこの用量は多すぎます。長期間に飲むと体に支障が出ます」


「私の体に問題があるか否かは、私が一番分かっている」


「僕は医者です。専門的なアドバイスを受け入れてほしいです」


「月人だけでなく、医者でもあるのか?数々の高貴な身分が次々と現れてきりがないな。次は地球に行ったことがあるとか言い出さないよね?」と我慢できずに聞いた。


「高貴ですか?」とエーデルが聞き返した。


「今のご時世、医者は最も希少な職業の一つだ。どこの小惑星基地に行っても、役人たちに熱烈に歓迎されるはずだ。何せ彼らは薬品の正式な名称、用法と使い方が分かる上、様々な外科手術ができるから」


「すべての医者が外科手術を得意とする訳ではありません」


「……じゃああなたはどの分野が得意?」


「僕は精神科医です」


 エーデルは微笑んで教えてくれた。


 私は初めて聞く固有名詞につい眉をひそめた。


 喉のヒリヒリ感が強まったようだ。


「……薬を飲まないと寝られないんだ」


「少し用量を調整しました」


 エーデルは手を伸ばしてその中にある一つの薬瓶を持って、揺らしながらそう言った。


 薬剤が金属製容器の内側にぶつかる音が巣枠の中に響いた。


 私はどんな反応をすればいいのか分からなかった。


 この頃の付き合いで色々な会話をしたけど、エーデルの本当の考えが未だに分からないのだ。


 エーデルは立ち上がり、巣枠の扉の傍に歩み寄り、片手をアイアングレイ色の冷たい壁に支えた。


「千華さんはここを離れたいと考えたことがありますか?」


「……もちろん」


「ではどこに行きますか?」


「地球」


 平然とした顔で言った。


 言ったら毎回笑われる答えだけど、姉と私の目標はいつだって、漆黒に包まれたこの檻から脱出して、あの澄んだ青空が見える場所へ行くことだ。


 例え地球が徹底的に閉鎖されたとしても。


 例えもう何百年も誰も地球人を見たことがないとしても。


 例えこの小惑星基地には地球まで航行できる大型の宇宙船がないとしても。


 例えすべての人がそれをできるはずもないことと見なしているとしても。


 例え……姉が死んだ今でも、この目標は変わることがない。


 エーデルは笑い出さずに、ただ分かりにくい複雑そうな顔を見せた。「多くの基地の住民たちは宇宙船に乗って、未知なる宙域へ探検することを選んだと聞きますが、しかしその多くは殆ど帰ってきません。無限に広がる宇宙の中、人間の居場所は極めて少ないです」と続けて聞いてきた。


 確かにそうだ。


 補給がなければ、小型の宇宙船の燃料は数日間で使い切るのだ。例え地球で生産された大型の船でも、メンテナンスとシステム調整がない限り、遠くまで航行することもかなり難しい。小惑星帯を離れることさえ問題になる。


 私は真っ直ぐにエーデルを見つめ、動揺せずに「私はこの檻から離れて、地球へ行く」と言った。


 エーデルの目に再び奇妙な情緒が現れ、痛むような、憐みのような感情だったけど、彼は直ぐにそれを隠し切れた。


「さっきはお金を節約したいと言いましたが、まさか金を貯めてキャラバンに入るつもりですか?」とエーデルが問いかけた。


「……地球まで行こうとするキャラバンは一つもいないよ」


「それなら自分で宇宙船を買うつもりですか?」


「その質問に答える必要がない」


「これは大事な話です」エーデルは真顔で「どうやってここから離れるつもりですか?」と問いかけた。


「……東エリアにあるジャンク置き場は色々なものが拾えられる。以前は廃棄された巡視艇を一隻拾ったことがあって、それを修理すれば航行ができるようになる」


「東エリアは宇宙船の格納庫じゃないですか?」


「もちろん各エリアをもっと複雑な用途に細かく分けるはずだ。北エリアはこの基地の『売り』として、客たちに様々な楽曲を披露するだけでなく、宿泊と食事ができる場所も提供している。東エリアもそうだ。主に宇宙船の格納庫と荷卸し場として利用されるが、その中でもメンテナンスや補給を支える工場及びジャンク置き場が存在している」


 私はわざわざと「売り」という言葉を使ったが、エーデルはそれに気づいてなかったようだ。


「何でジャンク置き場がありますか?」とエーデルが尋ねた。


「あそこはこの基地に必要としないすべてのものが置いてあり、ゲートが開くたびに、その一部は宇宙船が進むにつれて起きた気流と共に、外まで流れていく」


「直接ジャンク置き場を最外層に設置して、定期的に開放すれば手間が省けるじゃないですか?」


「もし基地の周囲に無数のゴミが浮いでいたら、他の宇宙船はどうやって入港する?」


 エーデルは腑に落ちたように頷き、考え込むように「ゾイさんが死んだ後に葬式が行われていないと言ってましたね。つまり、彼女もそのゴミと一緒に外まで流れていきましたか?」と言った。


 私は信じられないように、力を込めてナイフを握り締め、骨を突っ張っている硬い柄を感じた。


 どうして彼は何事もなかったかのように言えるのか分からなかった。


 エーデルはまるで私の反応を観察しているように、じっと見つめていた。暫く経ってからゆっくりと頷き、小さい声で沈黙を破った。


「すみません」


 一瞬、ぞっとした。


 目の前の人は一体何を考えているのか理解できなかった……何がしたかったのかも理解できなかった。


 心のどこかで、物事は予想しているよりも複雑なことに気付き、後悔と不安が広がった。考えをまとめようとしたが、肝心なところを把握できず、まるでどんなに手を握り締めても、指の間から流れて消えていくような感覚だった。


 呼吸が荒くなって、頭がくらくらする感じが再び襲ってきた。


「申し訳ございません。あなたが本当にゾイさんの妹さんであるか否かを確認する必要があります」とエーデルが言った。


 私は何も返事しなかった。ただ頑張ってナイフを彼が着ているボロボロのスーツの胸元に向けた。


「あなたが言っていたように、この基地において、信用を得ることは無意味だってことを僕も認めます。僕を助けた借りは必ず返しますが、しかしそれはあなたが本当にゾイさんの妹さんかどうかとは、また別の話です」


「……こんなことで騙して何の意味があるの?」


「コードナンバー『C2059』の基地には色々と独特な伝統があります。その中の一つが歌唱の出演者の間に姉妹で呼び合うことがあります。例え血の繋がりがなくても、姉妹になれば家族よりも親密な関係を築き、死が二人を分かつまで、お互いを支え合います」


「これが何の説明にもなっていない」


「お二人は本当の姉妹ではないのであれば、科学的な方法で鑑定することもできません。ゾイさんはもう何年も前に他界して、その上この基地の監視カメラは殆ど北エリアに設置しています。よって、証拠になる動画を取得できません。例えゾイさんに妹さんが一人いることを知ったとしても、それだけです」


 巣枠にある酸素供給システムがブンブンと鳴り響き、元から聞き慣れた音が今となっては耳をつんざくようにうるさく、集中するのも難しくなった。気が付いたら、そのうるさいほどの音は自分の心臓の音だった。


 私は何回も深呼吸して、あっさりと「お前は一体何がしたい?」と問いかけた。


「ゾイさんの理由は妹さんにしか教えられません。なので、それを確かめる必要がありました」


「だから勝手に約束を破って、前に決めた境界線を越えて、あちこちを漁って、食べ物にも文句言って、またわざとこんなにも悪質な方法で私にお姉ちゃんを思い出させるの?」


「ごめんなさい」とエーデルは頭を下げながら言った。


「ごめん」とか、「すみません」とかじゃなくて「ごめんなさい」。


 私は喉の奥から頑張って声を絞り出し、もう一度「お姉ちゃんと私は『姉妹』だ。どんなことがあってもそれは変わらない」と言った。


「今はそうだと確信しています」


 エーデルは少し間をおいて、真剣な顔で「だから、僕はゾイさんの『理由』を話します」と言った。


 この瞬間、元々胸に溢れた怒りが少し和らげたと感じ、自分のそんな反応に啞然とした。怒りに耐えながら「その前に、あなたの助けをしなきゃいけなかっただろう?」と尋ねた。


「それはすみませんでした」


 エーデルはいつの間にか最初に会った時の態度に戻り、頼れなさそうな笑顔を見せた。


 その姿が本心を隠す一面だと知った今、逆に嫌だと思った。


「またそんな口振りでお姉ちゃんの話をしたら、私たちの間にある約束を無効化にする。そうなったらどんな理由があっても、二度と私の前に現れないで」


「ゾイさんは僕の友人です。そんな結末になって、僕も残念に思います」


 エーデルは深く頭を下げてそう言った。


 突然辺りの音が消えたような感覚だった。自分がどこにいるのも分からず、気が付いたら腕を降ろして、ゆっくりとナイフを腰にある鞘に戻した。前に出て素早く地面にある薬瓶を全部抱え、引き出しに適当に収まった。


 そんな時、視界の隅にあるきらめきをちらっと見た。


 私はその青い花びらをじっと見て、そしてそれを慎重に手に握った。


 エーデルは巣枠の扉のそばに立って、「行きましょう」と口を開いた。


 私は花びらを胸ポケットに入れ、立ち上がった。


 青い花びらの末端はかなり硬い。金属の質感が肌に染み込んで、跳ね続ける心臓にまで伝わった。

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