第三章 クジラとまばゆい星の輝き③

 そして、私はエーデルを巣枠に連れて帰った。


 熟慮しなくてもこの決定は甘すぎるだと分かってる。なんとなくカールおじの怒声がはっきりと聞こえるような気がするんだ。確かにエーデルは姉と何らかの繋がりがある……それは、私には分からない繋がりである。


 その繋がりは一体、どんなものであるか私はちゃんとわからないといけいない。


 エーデルはちゃんと反省しているかもしれない。彼は巣枠に踏み込んだから隅に立ったままである。


 私はいつでもナイフを抜ける姿勢を維持して床に散らばった私物を片手で恣意に片付けて姉の部屋まで運び、そして床の溝を強く踏んだ。


「ちょうど元々、ここは二軒の巣枠だった。中心部の隔たられた壁を取り抜いただけだ。ここが境である」


「ちょっと、それって、僕をここに住ませていいですか?」


「寝る場所すらないじゃない?強盗に遭ったばかりで、身に着けている貴重品はおそらくそのスーツしかないだろう……それとも宇宙船で寝てみる?お金ないよそ者は皆そうするみたい」


 エーデルは頭を下げた。「ご厚意に感謝します」


「感謝したければ姉の理由を直接言おう」


「それに関しては……今はまだ適切なタイミングではありません」


 ――姉が死んでいる今、適切なタイミングなんていつになるの?


 怒りを抑えてルールを説明し続けた。


「いかに理由があっても勝手にこの境を越えるのが禁止される。なにか怪しい振る舞いがあったらナイフで突くぞ」


「分かりました」


 エーデルは真面目な態度で言った。


 多種多様な人を見てきたと思っているが、こんなタイプの人に逢ったのは初めてだ。素直か鈍感かどちらとも言えないが、決して愚か者ではない。すべての行動の背後には十分な理由がある。


 私は暫く考えて「スーツを私に預けて。なんとかして縫うから」と言った。


「できますか?」


「衣服の補修ができないと生活費が倍増してしまうよ。この基地では布を生産しないので衣類は外から輸入される。そのため、値段が高い」


「それでは頼みます」


 エーデルは大切そうにスーツを脱ぎ、境となった床の溝を踏み越えずに両腕を前に伸ばしてスーツを渡した。そして浴室に入った。


 と言っても彼はすぐに浴室から出た。


「すみません……水が出て来ないんです」


「……勿論だよ」


「確かに壁面にシャワーヘッドが掛けてありますので、水が出るはずでは?ただ、それを起動するボタンが見つかりません」


「巣枠の浴室で使う水は安くないよ。しかも使える量が制限されている。殆どの住民が水道代を支払ったとしてもただその水を飲むだけで、シャワーに使わない。私だったら水道代を支払うためのお金を食糧や巡視艇のようなもっと有意義な物の購入に使いたい」


「それは不便ですね」


「そういえば、月の水資源は思う存分シャワーを浴びられるほど豊富なの?」


「いいえ、そこまでではありませんよ」


「シャワーを浴びたいなら、横にあるタオルで体を拭いてくださいね。床には洗剤のボトルもいくつかあるけど」


「……月とこの基地で使われる言語と文字が同じですよね。容器が変更されなかったらこれらの洗剤は掃除用の物のはずですけど……意味は合ってますよね?」とエーデルは聞いた。


「使いすぎないでね!もったいないから。しかも、肌がちょっとヒリヒリするよ」


「それは人間の体に使えないという意味ですよね」


「ただ布で体を拭くよりはましだろ?布も値段が高いと言ったけどね」


 エーデルは初めて困った顔をして浴室に戻った。


 私は片手で彼のスーツを持ち、破損した部分を手のひらで支え、針と糸で補修しようとした。手触りからも分かるように、このスーツの生地は軽い。これは、北エリアの高級楼閣でもなかなか見られないという非常に高級な品物に違いない。


 今更だが、この決断が正しいかどうか考えていたのだが、そのうちの一つが姉関連のことだというのを考える限り、いくら理由を挙げても天秤を傾けることはできないとわかった。エーデルが『姉の理由』を条件にした瞬間で私は下風に立つようになってしまった。


 ブンブンと響く酸素供給システムの音でもっとむしゃくしゃする。水がさらさらと流れる音を聞いたような気さえする。


「……え?」


 私は困惑して視線を移した。数秒経って何が起こったか意識した。


「ちょっと待った!」


 私はよろめきながら浴室の入り口まで走った。ちょうど半裸のエーデルがタオルを金属製の水差しに入れてまた取り出して強く絞るのを見た。


 大量の水が床に滴り落ち、凄まじいスピードでコーナーの排水口に消えた。


 私はきらめく床をじっと見つめ、しわがれ声で言った。「それは飲み水なのだ……」


「そうなのですか?この水はこんなに汚れているし、体を洗うのに使っても、あまり良くないみたいですけど……」


 エーデルは心の底からそう言って、濡れたタオルで体を拭き続けた。


 私は我に返ったら、自分が金属の床に座っていることに気づいた。銀色の針を持つ右手は足元にぶら下がっている。やることリストには、できるだけ早く対処しなければならない生理的ニーズが含められることになった。渇いて死ぬ可能性と比較して、他の悩み事について言及する価値がないようである。


 そんな貴重な水を無駄にするなんて、エーデルは本当に月人なのかもしれない。


 このばかげた考えが頭に浮かび、私は思わず笑ってしまった。

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