第三章 クジラとまばゆい星の輝き②

 しばらく経つと、私たちは少し広い空間にたどり着いた。


 狭い通路は数百メートルの前方に続き、両側の手すりを超えると灰色のやや平らなスロープが見えて、遠くに見える金属の支柱は乱雑に連結して他のエリアへ続いている。


「──ここは廃棄された格納庫よ」


 エーデルの問いかけを待たずに、そう言った。


 エーデルは「おう」と答え、左右を見渡し続けた。


「その先には小さな宇宙港があって、以前は氷輸送船専用に使われていたらしいけど、システムの不具合で内ゲートをうまく制御できず、何度か船にぶつかりそうになったことがあったの。十数年前、船が宇宙港を出るときに突然内ゲートが勝手に開いて、大量の酸素が漏れ出し、危うく重大な事故になるところだった」


「……外ゲートってなんですか?」


「外ゲートとは、最外層と外層を結ぶゲートのことよ。普段は先に外ゲートを開けて、身元確認や貨物の棚卸しなどのために宇宙船を臨時格納庫の中に停泊させる。そして酸素を充填して、内ゲートを開けて船を正式に宇宙港に停泊させるんだけど、大型宇宙船用の格納庫はもっとゲートがある場合もあるの。これは全部常識だよね?」


「簡潔な説明ありがとうございます」


「要は、事故以来、ここの宇宙港は閉鎖されたままなのよ」


「それなら、なぜここに来たのですか?」


 私は答えず、赤錆色に変色した錆びた手すりを飛び越えた。


 半分傾いた金属板は見た目より薄く、踏むたびに音がした。


 エーデルは一瞬ためらいたが、手すりの上をぎこちなく越え、慎重に後ろをついて行った。


「――それと、ここは私の秘密基地でもあるの」


 私は、闊達に前に進みながら付け加えた。


 姉と私の秘密基地。


 巣枠と修理工場を除けば、私が最も多くの時間を過ごした場所だ。


 姉が死んだ後も、ここの風景はほとんど変わらず、まるで時間が止まったかのようだ。


 このことに、私は安心した。


「秘密基地ですか?」


 エーデルは小さい声でその言葉を繰り返して、噛みしめていた。


 私はそれに答えるように、右手をまっすぐ上げた。


 重なり合った金属製の支柱の隙間から、最外層にある強化ガラスと、さらに外側の星明かりが見える。


 この位置からなら、宇宙を覗くことができる。


 エーデルは上を見上げ、数秒後、戸惑ったように言った。


「何にもないですね」


「ちゃんと見て!星が光ってるだろう」


 エーデルは懸命に目を細めながら、肩をすくめた。


 嫌なことがあるたびに、姉は私をここに連れてきてくれた。


 小惑星基地の住人は、見上げても配管で覆われた汚い金属壁しか見えない内層に住んでいて、数少ない外を覗ける場所は宇宙船用の宇宙港や、専門業務をするためのオペレーター室で、一般の人は立ち入り禁止になっている。


 だから、偶然にも宇宙の星明かりを覗けるこの場所を見つけたときは、かなりの間興奮した。


 狭く不規則な隙間の中で微かな光が揺らぎ続け、目の錯覚のように思えたかもしれないが、姉も私も、そこに星明かりが確かにあることを知っていた。いつの日か私たちもこの檻を抜けて星々に近づくだろうと思った――


 私はそれをしばらく見てから、片手で手すりを持ち、素早い動きで通路に戻った。そして、ナイフを抜き、エーデルに狙いを定めた。


「あなたが月人であろうと、この小惑星基地に何をしに来ようと構わないけど、なぜ姉のことを調べているの?」


「……その質問は重要なんですか?」


 エーデルは表情を変えることなく、冷静に問い返した。


「今まで多くの人間が姉のことを探ろうとしてたわ。姉がこの基地を離れた後も何度もよ。当てがある人は私に関する情報を見つけ出し、巣枠の前で私を待ったり、通路で私の前を塞いだりした」


「昨日は突然お邪魔してすみませんでした。深く反省しています。お許しください」


「動かないで!」


 私は大きな声を上げて、再びナイフを握りしめた。


「女でも高い場所なら有利よね。手すりから押し出すだけで簡単に突き落とすことができる。肋骨を骨折している相手なら尚更よ。垂直何十メートルも落下して、金属製の外壁に衝突すれば、どんな人間でも一巻の終わりでしょ」


 エーデルは両手を胸のあたりまで上げて降参の意を示した。


「千華さん、ゾイさんに関する情報を求めてくる人を、いつもこうやって脅しているんですか?」


「たいていは無視する。いちいち相手にしてたらきりがないから……いずれにせよ、あなたが勝手に巣枠に侵入できたというのは問題よ。ハッキングに長けたエンジニアか、姉からパスワードを聞いたのか、どちらも調べなきゃね」


「それからどうするんですか?」


「私の満足する答えが得られないなら、あなたは私に突き落とされる人第一号になる」


 エーデルは少し振り向いて下を見た。「確かに、血の跡は残りませんね」と呟き、私のはったりを見透かしたような笑顔でまっすぐこちらを向いてきた。


 私は急にその視線を避けたくなり、「質問に答えなさい!」と再び叫んだ。


「ゾイさんの友人として、この基地に来たことは悪意があったわけではありません」


「それでは何の説明にもならないわ」


「できれば、今から少しの間、あなたと一緒に過ごしたいのですが」


「はぁ?」


「これはゾイさんからのお願いでもあるんです」


「一体、姉の何を知ってるのよ?」


 私はナイフをさらに強く握ったが、先端は揺れ続けた。


 いくつかやり取りを経て、エーデルの行動の目的が余計わからなくなった。


 エーデルは降参のポースのまま、冷静に聞いた。「あなたはこの答えに満足するのでしょうか?」


「……まだ突き落とされることを心配しているのね」


「僕も命を大切にしてますからね」


「闇エリアにも行って、強盗に遭ったよね。死ななかったのは運が良かっただけよ」


「それはこの基地の文化と現状を見誤りました」


 エーデルは再び手を伸ばして腫れた右目にしばらく触れてから、突然何かを思いついたようにそう言った。「ゾイさんは月に行ったとき、地球の動物図鑑を一冊持って行ったはずですよね。このことは僕が彼女の友人である証になりますかな」


 心臓が一瞬止まったような気がした。


 それは極秘の情報ではないが、一般的な情報でもない。


 エーデルが姉に会ったというのは、おそらく事実なんだろう。


 私はショックを表に出さないようにして、すぐに聞いた。


「それで、姉の大好きな動物は何?」


「うーん……これ、正解を言えなかったらまずいですが、他の友達にとって一番好きな動物も知らないから、日常会話で出てこないと思うんですよね」エーデルはしばらく考え込んだ後、あまり確信がないで「クジラですか?」と尋ねた。


 その動物の名前をまたすぐに聞けるとは思っていなかった私は、思わず彼に聞いてしまった。


「まさか、あの図鑑をプレゼントしてくれたお客さんじゃないよね?」


「何のお客さんですか?」


 私は手を振って気にするなと意思表示したが、エーデルがまだ答えを待っていることに気づいたのはしばらく経った後だった。だが頭の中は混乱して収拾がつかなくなり、歯を食いしばって服の内側にナイフを鞘に収めた。


「信じてくれてありがとうございます」


 エーデルは安堵して肩を落とした。


 私は手すりを越えて、秘密基地まで歩き、背中をのけぞらせた。


 背中の骨が冷たく硬い金属の床に当たり、少し痛かった。


 エーデルは思案顔で金属屋根の上にゆっくりと腰を下ろしたが、横になるのではなく、ただ両手を後ろに回して見上げた。


 時間は静かに流れていった。


 視界に鮮明な映像が浮かび上がった。


 細かいことを気にしない姉は、いつも平気で埃っぽい金属の床に寝転がり、白いロングドレスだろうが、豪華なパフォーマンス衣装だろうが、サラサラの白い髪の毛が散らばっていた。


 説得しても無駄だと知っていたので、ドレスの上に髪を何本も何本も乗せた。


 時には手のひらでその髪を持ったり、指先で毛先をくるくる回したりもした。とても安心感があったのだが、髪が痛むので、姉は気にしていなくても、頑張ってそうしたい気持ちを我慢した。


 過去の記憶の細部までがリアルで、強く瞬きしても今の現実がはっきり見えない。


 涙がゆっくりと視界を滲ませていった。


 エーデルは横に座り、考え込んでいるような表情をしていた。


 ボロボロのスーツの生地には、はっきりとした綻びが見えた。


 しばらく経ってから、エーデルが再び沈黙を破った。


「千華、知りたいですか?」


「……何を知りたい?」


「ゾイさんの理由です」


 エーデルの声は柔らかく、微かで、やがて様々な配管やシステムの作動音に挽かれ、途切れることのない残響として漂っていった。


 基地を離れた理由。


 戻って来た理由。


 自殺した理由。


 どうしても知りたい無数の理由が常に胸にまとわりつく。他に誰もいない巣枠の中で夜通し考えても答えが出ない。その時、私は何も答えず、基地の外層の隙間から宇宙を見つめ続けた。


 金属の匂いがする風が吹き抜け、鉄筋の間で音がした。


 星明かりは輝き続けていた。


 微かでも、止まることなく輝き続けていた。


「ねえ、本当に姉のこと知ってるの?」


「ゾイさんに会ったことがあります」


「どういうこと?この基地に住んでいる人はみんな姉に会っているし、遠くの小惑星基地から来たお客さんも数え切れないほどいるから、会ったことがあるだけでは意味ないでしょう」


「僕はゾイさんのことを知り合っています」


 エーデルはその言葉を、より正確で親密なものに変えた。


 私は隙間のまばらな星明かりをしばらく見つめてから、再び言葉を発した。


「証拠はどこにあるの?」


「そう聞かれるのは二回目ですが、僕の答えは変わりません」エーデルは穏やかにゆっくりと話した。「ゾイさんがいなくなった今、証明することはできませんが、僕を信じてほしいです」


「……この小惑星基地では『信じる』ことに何の価値もなかった」


「私は月から来ましたが、ここの文化はよくわかりません」


 これもまた笑えないジョークなのだろうか?


 私は言い返したい衝動に駆られたが、そんなことをしても意味がないし、エーデルが月から来たのではないという本当の証拠もないので、代わりにそう言った。


「じゃ言って、その理由は何なの?」


「その話をする前に、お願いがあります」


「……はっ?」


 私は思わず起き上がって、信じられない表情でエーデルを見つめた。


 エーデルは金属製の床にへたり込み、一瞬手を胸に当てて痛みに顔をしかめたが、すぐに隙間の中にある、姉と私にとって


 とてもまばゆい星の明かりを見つめていた。

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